破滅の剣 5-29 呪われし地へ

 身の毛がよだつような断末魔の悲鳴をあげ、全長三リールメートルはある植物が横倒しになった。


 植物、とは分類されていても複数の足があり、しかも動く。地面はジメジメと湿っており、草もまばらにしか大地に根を張っていない。そんな状況下では、地面に倒れてもドサリ、ではなく、グシャリ、という不快な音になるのだった。


ツウ……。あ~、俺ってドジだよなァ」


「のんびり言っている場合じゃないでしょう、クルーガー! 傷を診せて!」


 ルシカがクルーガーの傍で、両膝をつくようにかがみ込んだ。


 クルーガーは剣を地面に突き立て、片膝をつくようにして座り込んでいた。巨大な人喰い植物の触手に右ももを打たれ、衣服とともに皮膚が裂けてしまっているのだ。ルシカに向けて軽い口調で話していたが、クルーガーの顔色は真っ青になり、額に汗を浮かべている。


「毒か!」


 テロンも気づき、急いで歩み寄った。治癒魔法のために無防備になるルシカと兄クルーガー、ふたりの様子を見守りつつ周囲を警戒する。


 黒く変色した血を滴らせる傷口に、ルシカが触れるか触れないかぎりぎりの位置に片手をかざした。もう一方の手にある『万色の杖』を握りしめる。白い光が空中を駆け奔り、何もない空中に描かれた魔法陣が少女と傷ついた青年の周囲を取り囲んだ。


 魔導の力場が生じ、ふわりと温かい風が流れる。裂けていた傷口が塞がり、腿の腫れが引いていく。鎧のない部分であり、流れた血や破れた衣服は戻らないので、ルシカは荷物の中から手頃な布を出した。処置を済ませて息をつき、クルーガーに心配混じりの真剣な眼差しを向ける。


「まったく、もう。らしくない無茶だったよ、クルーガー……。八本の触手を同時に相手にするなんて」


「わかったよ、今度は気をつけるからさ」


 まあまあ、というように、クルーガーは両手をあげた。冗談めかした態度に、ルシカが細い腰に手を当てて口を開きかける。だが、間延びした声にさえぎられてしまった。


「あのぉ……本当に大丈夫なんですか? 傷はすごかったですが――」


「ティアヌ、心配は要らない。それでもしばらくは、右脚に負担を掛けないようにしたほうがいいが。……それにしても、兄貴、ルシカに無茶とか言われるなんて余程だと思うぞ」


 テロンの言葉に、ルシカがちょっぴり頬を膨らませる。テロンはそんな彼女に視線を向けたあと、表情を引きしめてクルーガーに向き直った。


「兄貴。王宮に戻ったときから、気にかかっていることがあるんじゃないのか?」


「……さてと」


 その問いには答えず、クルーガーは立ち上がった。剣の汚れを払ってさやに収める。心の乱れを押さえ込むかのように、彼はゆっくりと周囲の光景を眺め渡した。


 濃淡にばらつきのある霧が、見渡せる範囲をせばめている。目の届く範囲には陰鬱な湿地が広がっているばかりだ。乗ってきた馬はこの地域に入るとき、すでに放してあった。今頃は王宮の厩舎へ戻っているだろう。この場所には剣呑な植物や魔獣が徘徊しており、馬は格好の獲物になってしまうからだ。


 『無踏の岬』と呼ばれる魔の領域、大湿地帯。気味の悪い色をした草がまばらに生えているだけの沼地がほとんどを占めている土地である。


「今はまだ雨が少ない時期だから、良かったな」


 クルーガーの言葉に、テロンは頷いた。


「これが雨季なら、この『無踏の岬』の大湿地帯に入ることすらできなかっただろう」


「目指すのが島なら、外側から船で行くのはどうなのでしょう」


 ティアヌが疑問に思っていたことを口にすると、ルシカが首を横に振った。


「それは実行不可能、かな。島の周囲に奇妙な海流があって、船は沈められ、運ばれて、『船の墓場』のコレクションにされてしまうわ。以前、黒装束の男たちが、海側から島に到達するための女神像を手に入れようとして、事件を起こしたこともあったくらい。まともには渡れない海域になっているの」


「『船の墓場』って、言葉通りのものなんですか?」


「そうよ。あ……見て! 霧が切れている……あそこ」


 ルシカが指し示したのは、一行が目指している方向だった。うまい具合に霧が左右に流れ、数百リールメートル先に、とうとう湿地帯が終わっている地点が見えたのだ。


 ようやく『無踏の岬』の先端までたどり着いたのである。


 泥の大地から岩場に近づくにつれ、急に潮の匂いが強くなってきた。ただし、どんよりと澱んだ鉄錆のような、死臭と腐臭を感じさせる匂いである。立ち込める霧も、べったりと重いものに変化している。


「岩の向こう、海が……海がありますよ! けれど、これは一体……」


 この土地に関して知識のないティアヌが、岩場から先の光景を目にして立ち尽くした。話に聞いたことのあるテロンたちもまた、実際に目にした光景の凄まじさに驚き、思わず足を止めてしまう。


 岩場の向こうに、黒々とした不穏な色合いの海が横たわっている。かろうじて進むことのできそうな足場は、海から突き出した岩と、朽ちるままに放置された無数の難破船、その成れ果てであったのだ。


 沖へと続く先はさらに霧が濃く、不気味な灰色に塗り込まれたかのように見通せなくなっている。まだ天高く昇っているはずの太陽の位置すら把握できないほどに暗い。


「島まで渡っていけるはずだけれど……」


 ルシカが不安そうに言った。足場となる岩場や浅瀬があるはずだったが、あまりに多くの難破船があるので、それらの甲板や内部を通り抜けるしかなさそうである。


 難破船は、無事であった頃の全体の姿かたちの判るものから、竜骨しか残っておらぬもの、板だけが並ぶように岩場に引っ掛かったものまで様々であったが、どれもが死臭をまとわりつかせた墓標のようにひどく不吉な有様であった。


「先ほどのルシカの言葉、比喩でも何でもないんだな……。これでは通り抜けるだけでも苦労しそうだ」


 クルーガーが唸るように言って、ため息をついた。


「あたしも実際に見たのは、これが初めてだけれど、何だろう……あちこちから、刺さるような冷たい視線のようなものを感じるの。気のせいかしら……」


 細い腕をさすりながら周囲を見回すルシカに、テロンが声を掛ける。


「こんな場所に棲息している生き物ならば、警戒して襲い掛かってくるか、動くものなら何でも捕食してくる相手かもしれない。気をつけよう」


「生きたものですらないかもしれんぞ」


 クルーガーが真面目な顔をして、言葉を返した。


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