破滅の剣 5-26 ソサリアの千年王宮
王宮の東の棟、最上階には、天体観測のためのドーム部屋が設置されている。
ひとの背丈より何倍も大きな天体望遠鏡が中央に据えられ、立派な天球儀、さまざまな種類の観測器が壁にずらりと収められていた。資料や掛図、巻物、梯子、書き物や調べ物のための机、休憩のための長椅子も置かれている。
もとは、遺跡で発見されたグローヴァー魔法王国期の天文台を移設したものだ。王宮が建造されたのちに移されたらしいが、長い間使用されないまま放置されていたのである。ルシカが宮廷魔導士に就任した際に完全修復された。そして今、ルシカの一番のお気に入りの場所でもある。
ルシカは天体観測ドームの外側にある一角、テラスのように張り出したところに立っていた。明かりも灯さず、ひとりで満天の星空を眺めている。
王宮の中央棟と西の棟、さらに大きな港を越えた西方には、星明かりの中に浮かび上がる大河ラテーナが海と合流する
東方のゾムターク山脈の峰々の連なりは、黒いシルエットになってゴツゴツと連なり、星空を切り取っていた。南東の方向に視線を移すと、ひときわ天高くそびえるゴスティア山の黒い影が突出している。
ゾムターク山脈から北へと視線を移動させれば、遠い水平線の星空の交わる果てに『魔の海域』があった。黒々とした油断ならざる海が広がっている。
「クリストアとも呼ばれる『はぐれ島』……」
その海を目指すかのように突き出た岬の先に、自然ならざる領域がある。そこに、ハーデロスの神殿があるといわれているのだ。
「心が真っ黒に塗り潰されてしまうみたいな、波動のようなものを感じる。少しずつだけれど、確実にどんどん強くなっている……」
今すぐにでも、旅立ちたかった。
しかし、
『無踏の岬』の大湿地帯や、クリストアと岬を繋ぐ『船の墓場』の浅瀬は、移動だけでも自殺行為といわれるほどに危険きわまりない土地だ。だからこそ、いくつものグループに分かれた大人数で向かい、魔物や魔獣、邪霊や妖霊たちの狙いを分散させることが最善の策なのだ。
「そう……わかっている。わかってはいるの、でも……」
自分のなかで膨れあがる焦りの気持ちを抑え込むために、ルシカは胸の上で両手を重ね、そっとため息をついた。
「ルシカ」
彼女の背後から、低いがよく響く声が掛けられた。
「ルシカ。話があるんだ……いいか?」
ルシカの心臓が、とくん、と跳ねあがる。星明りの中に立ち、ルシカを見つめるテロンは、この上なく真剣な眼差しをしていた。
「……うん」
テロンは静かに歩み寄り、ルシカの横に立った。
ふたりは天体観測ドームのテラスの端に並び立ち、しばらくの間、まるで天蓋のように空を覆い尽くす星空を眺めていた。
すぅ、と一筋の流れ星が夜空を駆け抜ける。
ルシカはそっと傍らのテロンの顔を見上げた。それが小さなきっかけになったかのように、テロンが動いた。見上げるルシカと、星空から彼女に視線を移したテロンの視線が交わる。彼女の大きな瞳に自分の姿を見たテロンは、意を決して口を開いた。
「ルシカ。俺は、ずっと考えていた。悩んでいたんだ。一番大切な君を連れて、このまま危険の真っ只中に飛び込んで……。それで本当にいいのだろうか、後悔することにならないだろうか、と」
ルシカはすべらかな頬を緊張気味に強ばらせて、彼の話を聞いている。テロンは言葉を続けた。
「どんな時も、何があっても一緒にいこう――それは俺の本当の気持ちだ。だが、心のどこかでは、万が一にもルシカを失いたくない、そんな気持ちもあるんだ」
ふいにルシカの瞳が揺れ……テロンは思わず言葉を切った。星明りに照らされて
「……まさかテロン。今回の旅は、あたしを置いていくっていうんじゃないでしょうね。テロン……テロンは……」
細く震える声が、言葉を紡ごうとした。だが、その先がなかなか出てこなくなり、ルシカが小さくしゃくりあげる。
「わかっているよ」
テロンは歩み寄り、ルシカの背に腕を回した。静かに抱き寄せ、抱きしめる。テロンは彼女のすべらかな頬にそっと触れ、涙をぬぐった。
「わかっているんだ……俺もルシカも、互いの気持ちが痛いほどに。それでも想いを伝えたかった……はっきり俺の気持ちを、言葉で」
テロンはひとつ呼吸して、その想いを声に乗せた。
「――俺には、君が必要だ」
ルシカの瞳から目を離さずに、テロンは言葉を続ける。星明りの静かな夜に響く、低く心地よい、力強い声で。
「もう離れたくないんだ。これが俺の気持ちだ。この旅が終わったら、ルシカ……俺と結婚してくれないか。ずっと……ずっと俺の隣に、居て欲しい」
ルシカの目が見開かれた。次いでポロポロと零れ落ちた涙は、先ほどまでとは違う、温かな涙だった。目元を微笑ませるように頬を緩めたルシカは、彼の胸にしっかりと抱きついた。
「……うん……うん、テロン……」
テロンの胸の衣服をきゅっと握ったまま、ルシカは何度も頷いた。
「ありがとう。俺は……ルシカを泣かせてばかりだな」
大切な少女を腕いっぱいに抱きしめながら、テロンはつぶやくように言った。抱きしめる腕に僅かだけ、力が篭められる。
「そんなことない」
広い胸と力強い腕に包まれながら、ルシカは繰り返した。
「そんなことない。ありがとう、テロン」
そしてルシカは顔を上げ、自分を見つめる深く澄んだ青い瞳を見つめ返した。そこに自分の泣き顔が映っていることに気づいて、ゆっくり口の端を上げるようにして笑顔になる。そして自分の想いを伝えるため、唇を開いた。
「――たとえ世界のどこであっても、どんなことがあろうとも、あなたの隣に居たい。ずっとずっと、あなたを愛しています、テロン」
「ああ、俺も。ルシカを愛している――」
ルシカは静かに目を閉じた。最後の涙が、静かにこぼれ落ちる。
テロンは、ルシカの頬に添えていた指で、そのふっくらとした唇に触れた。その唇が
天空からの星の光がふたりを包み込む。重なり合う影は、いつまでも離れることはなかった。
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