万色の杖 1-12 継承

 三人の立つ場所のすぐ脇に、当たっていたら無事では済まなかったほどの巨大な岩塊が落ちてきた。それも、ひとつやふたつではない。


「崩落するぞ!」


 天井を振り仰いだテロンが緊迫した面持ちで叫ぶ。


 魔神が暴れたことで空間を支えていた柱がことごとく折られ、壁も床も亀裂だらけだ。さすがに優れた設計技術であろうと魔導の力に守護された建造物であろうと、ここまで破壊されればもつはずがない。


 天井が一気に抜け落ちる。冗談ごとではなかった。三人の頭上に、信じられないほどに大量の岩塊や土砂が崩れ落ちる!


「うわっ!」


「キャアァァッ!」


 ルシカたちが堪らず悲鳴をあげた、そのとき。


 空間いっぱいに不思議な光が満ちあふれた。ルシカの手にある『万色の杖』が発したものではない。それは、魔導特有の透けるような青と緑の光だった。


 この上なく優しい光が空間全体に満ちると同時に、落下してきた岩や瓦礫のすべてがぴたりと空中に静止した。動くものはいない――ルシカたちを除いては。


「この光は……魔導の技は……」


 ルシカがつぶやき、昇りたての太陽のような稀有なる瞳を見開く。彼女の目には、はっきりと魔導の流れが見えていたのだ。


 瓦礫、柱、いままさに崩壊しつつあった天井や壁が、ふわりと戻っていく。瓦礫は破片を揃えながら壁面に、岩塊は抜け落ちた箇所を埋めながら天井に、割れ目を消した床は磨かれたようになめらかな面に戻った。


 それらは、さながら神の奇蹟きせきでもの当たりにしているかのように、自然には決してあり得ないはずの光景であった。


 『空間』に属する魔導の最上位魔法『空間復元レストレーション』。しかも、すさまじい規模だ。行使できる魔導士は、現代においてひとりふたりしか存在していないはず。彼女が咄嗟に思いつくのは……ただひとり。


「よくやった、我が孫。ルシカよ」


 まるで彼女の推測にこたえたかのように、重々しい声が神殿内に響き渡った。ルシカたちの周囲は、ほぼ完全に魔神が侵入してくる前の状態に戻っている。封印を解かれた水晶の柱、そのただひとつの変化を除いて。


「この声は、おじいちゃん!」


 ルシカは、声がしたとおぼしき方向へ顔を向けた。声を発した人物の姿が、魔法の残滓を纏わりつかせながら、淡いヒカリゴケの光のなかに浮かび上がっている。テロンとクルーガーも気付き、その人物の名前を呼んだ。


「大魔導士、ヴァンドーナ殿!」


 かなりの老齢でありながら真っ直ぐに伸びた背筋。足もとまで届きそうなほどに豊かな白いひげ。細かな意匠と魔文字の装飾が施された、丈の長い濃紺の見事な魔法衣。


 そして何より、いましがた奇跡のように広間をもと通りの状態に戻した、強大なる魔導の技――。この大陸において随一の偉大なる存在、ふたつの『名』を併せもつ『時空間』の大魔導士ヴァンドーナの魔法に他ならなかった。


「ルシカ、これほどの試練、よくぞ越えてみせた」


 ヴァンドーナはルシカに歩み寄り、孫娘の細い肩にずしりと自分の大きな手を置いた。


「『万色の杖』は、そなたにとって必須の力となる。生まれながらに『万色』の力を持つ者は、自分の力をコントロールすることができぬのだ。類稀なる強大な魔導の力を継ぎながらも、活かすすべを持たぬままでは、いつか取り返しのつかぬことになるからの」


 そこまで語り、ヴァンドーナは言葉を切った。孫娘が、顔を伏せたままであったからだ。


「……おじいちゃん」


 ルシカは、声を震わせた。杖を握るほうではない左手に、力が籠もる。


「これって、やっぱり……おじいちゃんが仕組んだことなの?」


「おまえの潜在能力を、おまえ自身が制御するために、どうしても通らなければならない道だったのじゃ――うぐ!」


 言葉が途切れ、顎を押さえたヴァンドーナが呻いた。


 ルシカは口もとを引き結び、握りこぶしのまま瞳をうるませた。その怒りも無理からぬことではあった。自分だけでなく、テロンもクルーガーも傷付き、危うく命を落とすところだったのだから。


「それではまさか、貴殿が魔神やこれらのことすべてを計画して、ルシカや俺たちを危険に晒したというのか?」


 驚きから立ち直ったクルーガーが、学問の師であるヴァンドーナに詰め寄る。


「いやいや、そうではない」


 ヴァンドーナは慌てて答え、言葉を足した。


わしはただ、こうなることを予知しておったにすぎん。ルシカが『万色の杖』に出逢うことも、避けられなかった戦いも、定められた時の鎖の輪のひとつひとつなのじゃ。未来を見たとき……儂は何の手出しをすることもできなくなる。ただ、無事を祈りながら……できる範囲で支え導くことくらいじゃよ」


 ヴァンドーナの言葉に、ルシカは何も言えなくなった。


 赤い包みが背負い袋から落ちたときも、手紙が読まれるべきタイミングで拾いあげられたことも、たぶん祖父ができるだけの手助けとして、あらかじめ組み込んでくれていただろうことに思い至ったからだ。


 もちろん、通ってきた道すべてが、都合よく用意されたものではなかっただろう。そこまで魔導は万能ではない。


「つまりあなたは、未来を見通すことができる力を持っているのですね」


 問い掛けるというよりは確認するような口調で発せられたテロンの言葉に、ヴァンドーナは苦い微笑を皺深き顔に刻んだ。


「……定められた範囲でな。『予知プレディクション』は、気紛れな能力じゃ。見たくないものばかり見せおるが……どのような力であっても、大切な者のために必要なことならば、わしはいつでも受け止める覚悟でおる。それだけのことじゃよ」


 銀を秘めた灰色の瞳で三人の顔を見渡しながら、『時空間』の大魔導士は静かに言い切った。だが、長衣の陰で握り締められたこぶしが、微かに震えている。有益だが、楽観的に向き合える力ではないのだ。


「もういいわ、おじいちゃん。事情はわかりました……。まあ、いつものおちゃらけにしては、マシということにしておきますね」


 祖父であり魔導の師であるヴァンドーナに、ルシカはいつもの呆れたような口調を装った。こぼれかけた涙を指先で素早くぬぐう。


 祖父はそんな孫娘を愛情深い……そしてほんの少しかなしげともいえる瞳でそっと見守った。


「お、おいっ! おまえたちッ!」


 威勢の良い、甲高い声を発したのはメルゾーンだ。ルシカたちから離れた場所に立っている。どうやら無事だったらしい四人の手下たちも、彼の背後に揃っていた。


「メルゾーン様。助けていただいた大魔導士様の前で、やめておいたほうが……」


 手下のひとりがそう言って止めようとするのを、メルゾーンは断固として無視した。ルシカにビシッと指を向けてみせる。


「いいか。今日は部下たちの命を救ってくれたヴァンドーナ魔導士に免じ、この場の勝ちを譲ってやる。しかし、次はないと思えッ!」


 そう言い放つと、メルゾーンはくるりと背を向けて大股に歩き出し、去っていった。手下たちがヴァンドーナやルシカたちに向けて深々と頭を下げ、慌ててメルゾーンの後を追いかけていく。


「……なんだったんだ……あいつは?」


 テロンが、怒りを通り越して呆れた口調で言った。


「やれやれ。おもしろい男じゃのう」


 ヴァンドーナが長いひげをしごきながら、妙に感心したような調子で言った。違和感を感じたルシカは祖父に尋ねた。


「おじいちゃん、あいつを知っているの?」


「知っているも何も。あやつはダルメス殿のひとり息子じゃよ」


「は、えぇっ?」


「本当ですかっ」


「そ、そう言われてみれば」


 ルシカ、テロン、クルーガーは驚きのあまり、強張った表情で固まってしまった。


「メルゾーン・トルエラン。現在の宮廷魔術師、ダルメス・トルエラン殿の実の息子じゃ。あまりの道楽ぶりに、家を勘当同然で追い出されてしまっておったが、元気にしておるようじゃの」


 ヴァンドーナはのんびりと説明して、ホッホッホッと楽しそうに笑った。


 メルゾーンが家を出たのは十年以上前のこと。当時幼かった王子たちの顔を、今のメルゾーンが判らなかったのも無理はないということだ。宮廷魔術師であるダルメスが、後継者に息子のメルゾーンでなく、ほとんど面識のなかったはずの若干十六歳の娘を選んだことで、メルゾーンのプライドは大いに傷ついたのであろう。


 と、いうことが容易に想像できた――本人もそのようなことを叫んでいたし。ルシカたちは疲れた表情で、ため息をついた。


「そんなくだらない理由で、俺たちは『闇の魔神』を相手にすることになったのかァ……」


「そういえばルシカ、魔神を封じた石は?」


 テロンの視線を受けたルシカは、左手に握りこんだままであった『封魔結晶』を見せた。元に戻った神殿の中で、ただひとつだけ元の状態に戻っていない、粉々になったままの水晶柱に視線を向ける。


「慌てていたから、解放する鍵になる言葉も決めていなかったし、この強度では壊すこともできないし……。半永久的にこのままになってしまうかも」


 そう言って、申し訳なさそうな表情になって瞳を伏せる。


「あの魔神には、悪いことしちゃったな……」


 使役させるために、無理矢理魔神を幻精界から引っ張ってきたのは、何千年も前のこととはいえ、魔導士たちの勝手な都合なのだ。


 クルーガーが、そんなルシカの肩をポンと叩いた。


「ルシカが、もっともっと強い魔導を使えるようになったとき、あの魔神が元居た世界に帰してやればいいんじゃないか?」


 ルシカは瞳を上げ、ゆっくりと微笑んだ。


「うん、そうだね」


「さぁて。わしらも帰ろうかの」


 ヴァンドーナがのんびりとした口調で言った。


「『転移テレポート』が遣えるよう、王宮に出口の魔法陣を用意してきたのじゃよ。みな、心配しておろう。クルーガー、テロン、そなたたちも帰ろう」


 クルーガーとテロンが頷く。


「あたしにとっては――」


 ルシカは微笑みながら言葉を続けた。


「行く、ことになるのね」


 ヴァンドーナが孫娘に視線を向け、いとおしげに目を細める。そして、いつもどおりの、おどけたような口調になって言う。


「そうじゃな。これから忙しくなるぞい」


 祖父を上目遣いで睨み、いで笑い出すように口もとを緩めたルシカだったが、ふと、自分を見つめる視線に気づいて顔を上げた。


「あ、いや」


 ルシカと眼が合ってしまい、慌てたテロンは耳まで真っ赤になってしまった。ついそっぽを向いて照れたように笑ったテロンだったが、ひとつ頷き、改めて真っ直ぐにルシカに向き直った。穏やかな声で言う。


「うん。今さら何だけど、無事で良かったと……思ってさ」


「うん、ありがとう」


 ふたりは互いの顔を見つめて、微笑みあった。


 『時空間』の大魔導士の魔法陣が完成した。四人の周囲に、青と緑の光が駆け走り、幾重にも重なって、複雑な紋様を空中に描き出してゆく。


 空間に満ちていた魔導の光が消え……。


 地下深く残された遺跡に、再び静寂が戻ったのであった。


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