第七節
朝が来て、俺はかまどに火をくべる。
月星丸が起き出す前に、その火の中に手配書を入れて燃やした。
「あれ? 千さん、今朝は早かったね」
「まだ寝てろ。飯は俺が用意する」
米を炊いて、月星丸の好きな豆腐のみそ汁を作る。
向かい合って一緒に飯を食べた。
「どこへ釣りに行くんだ?」
「すぐ近くの柳瀬川だよ。鯉がいるって言うからさ」
「今まで、釣りをしたことはあるのか?」
俺は切った漬け物を口に運ぶ。
「庭の池で他の者が放した鯉を釣るんだ。釣れなかったら網ですくってさ。俺は見ているだけでやらせてはもらえなかったけど。川に釣りに行くのは初めてだ」
「そいつはよかったな」
「ドジョウもすくいたいっていったら、吉之助が教えてやるって!」
月星丸は、うれしそうに話している。
「ドジョウって、釣るんじゃなくてすくうんだな! あんなちっこい魚釣れるのかって聞いたら、そうじゃないって笑うんだ」
「すくうならそこのザルも持って行け。俺も行こう」
「本当に?」
月星丸は目を輝かせた。
「俺も釣りは久しぶりだ」
月星丸のにっこりと笑ったその笑顔に、今日はあまり心臓が痛まないのは、別のことを考えているからだろう。
じゃなきゃ、子ども同士の釣りになど、ついていくわけがない。
案の定、俺も行くと言ったら、長屋の子どもたちは全員首をかしげた。
「なんだよ千さん、暇なのか? 遊んでていいのかよ」
「うるさい、たまにはいいだろ」
五、六人の子どもたちと連れだって、川に向かう。
もしかしたら、今のこの状況も、どこかで月星丸を探す追っ手に見られているのかもしれないな。
水際から離れた土手に腰を下ろす。
子どもたちに混じって、月星丸は釣りを始めた。
見よう見まねで竿を手に取り、教わりながら釣り糸を垂らす。
依頼人の都合など知ったこっちゃねぇ。
仕事として請け負ったからには、ちゃんとやる。
後のことは、俺には関係ない。
月星丸は、帰らなければならない。
女のくせに男の格好をして、いつまでもいるわけにはいかない。
いつかはちゃんと偽りの姿ではなく自分に戻らなければ、辛くなるのは本人自身だ。
子どもの一人が大きな鯉を釣り上げた。
暴れるその重みに耐えかねて竹竿がしなる。
折れそうになる竿を押さえている間に、鯉はつるりと逃げ出した。
小さな子どもたちの間に混じって、一段背の高い月星丸も、一緒に川面をのぞき込む。
町人の子どもなら、とっくに仕事を持っている年頃だ。
自分より遙かに小さな子どもたちと一緒に、釣り糸を垂らしている。
やがて釣れない釣りに飽きて遊び始めた子どもがでてきた。
川に入って水を跳ねさせ遊んでいるから、あれではもう釣れるものも釣れまい。
「千さん、鯉が釣れたのに逃げられたの、見てた?」
「あぁ、見てたよ」
「釣りって、案外難しいんだな。もっと簡単に釣れるものだと思ってた」
十五か。
女なら、嫁に行ってもおかしくない年頃だ。
元服を済ませていないのなら、それもどうするつもりなのだろうか。
早々に川遊びにも飽きた子どもたちは、それぞれにザルを持ち川に入った。
彼らにとってはここからが本番だ。
釣りなんかするより、ドジョウをすくっている方がよほど楽しい。
わらじを脱ぎ着物の裾を膝上までめくりあげて、月星丸は十にも満たぬ子どもたちと川に入る。
幼い子どもたちに指示を受けながら、泥の中にザルを突っ込んだ。
あまり深く突っ込みすぎたのか、引き上げきれずに苦戦している。
やがて月星丸はひっくり返り、川の中に尻をついた。
それを見て子どもたちは笑う。
そうやって悪戦苦闘しながらも、すくった泥の中からドジョウとタニシをうれしそうに取り分けていた。
月星丸は顔を上げると、こちらに向かって大きく手を振る。
長屋にいるような身分でないことは明かだ。
もしこいつ自身が本当に、自分の置かれた立場から抜け出したいと思うなら、きちんとケリをつけさせなきゃな。
なにをどうするにしたって、話しはそれからだ。
「千さん、見て!」
桶に水を張って、採れたものを見せに走ってくる。
「小さなフナもすくえたんだ!」
水浸しになった着物から、柔らかな女性特有の体の線が浮かびあがっている。
俺は着ていた羽織を脱ぐと、月星丸の肩にかけた。
「寒くはねぇのか」
「うん、濡れちまったけど、大丈夫だ」
月星丸は、俺のすぐ横に腰を下ろした。
「みんなドジョウすくいが上手いな! 俺は最初、川の流れに足をとられて上手く出来なかったんだ。だけど、すぐに慣れたよ。川の底って、丸石でごろごろしてんだな。あれのおかげで上手く立てなくなるんだ」
「なぁ」
そう呼ぶと、月星丸はこちらを見上げた。
「お前はいつまでここにいるつもりだ」
それは月星丸にとって予想外の質問だったのだろう。
答えるのに少し時間が必要だった。
「なんだその話か」
怒った顔をぷいと横に向ける。
「あんたの女嫌いが治ったら出て行ってやるよ」
「元服はどうする」
「しない」
「いつまでも逃げてたって、仕方ねぇだろ」
月星丸はじっとしたままうつむいた。
「お前がここにいたいのなら、いてもいい。だけどそれは、ちゃんと自分の家と話をつけてきてからだ」
俺は土手に生えていた草を、ちぎっては放り投げる。
「それが出来ないっていうんなら、いつまでも置いとけねぇな」
「それは俺に出て行けと言っているのか」
「そうじゃない。話しをつけて来いと言っている」
「俺がその気になったら、自分で出て行くって前にも言ったよな」
月星丸は立ち上がると、肩にかけた羽織を脱ぎ捨てた。
とたんに体に張り付いた着物の線が鮮明に浮かび上がる。
「羽織は着ておけ!」
「あんたの羽織が濡れるじゃねぇか」
土手を駆け下り、再び子どもたちとドジョウをすくい始めた。
あいつは自分では男になったつもりでいるらしいが、橋の上からにやけた顔で見下ろす野郎どもの様子をみていると、それが許されないことは明かだ。
ため息をついて、頭を抱える。
ややこしい女を拾っちまったもんだ。
もう俺の手には負えない。
「おい、帰るぞ!」
「え~、まだ早いよ」
「うるさい、さっさと帰り支度をしろ!」
長屋に戻って、すくったドジョウを柳川鍋にして食べた。
「上手いな! 俺の料理がうまいのか、すくったドジョウがうまいのかどっちだろ」
「そりゃ、テメェで採ったドジョウだからだろ」
食べ終わって片付けの済んだ頃には、傾いた太陽が暮れかけていた。
宵闇がもうすぐ、このあたりにもやってくる。
「ちょいと今から出かけるか」
「今から? どこへ行くんだい?」
月星丸は、俺を見上げた。
「万屋に買い物だ」
「何を買うの?」
土間に下りた俺は、草履をはく。
「櫛の一つでも買ってやろうかと思ってな。まだ居座るつもりなら、いずれ必要になるだろ」
「俺も一緒に行く!」
草履を履き終わった俺が立ち上がると、月星丸は慌てて土間に下りた。
人気のなくなった通りに出ると、月星丸は俺の腕にしがみつく。
「おい、離れろ」
「大丈夫だよ、誰にも見られやしないって」
月星丸は俺を見上げると、にやりと笑った。
「なんだよ、千さんも随分俺に慣れたじゃねぇか。もう女が怖くなくなったか?」
「今だけは特別だ」
月星丸はうれしそうに笑った。
万屋に使いは出してある。
迎えも来ているはずだ。
「あまりいいものは、買ってやれねぇぞ」
「うん。千さんに買ってもらえるなら、なんだっていい」
その笑顔が、俺にはやけにまぶしく見えた。
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