間章「魔浄眼の主」


【く、静まれ……まだ、やはり安定せぬか】


 若い男が一人。


 東京の熱気の満ちた夜景も殆ど消えた世界を見つめながら、ビルの角に足を降ろして、己の襤褸布のような包帯が撒かれた腕を右目に押し付けていた。


 男は30代程だろうか。


 銀とも鉛とも付かない色褪せた光沢質の跳ね乱れた髪を掻き上げ、丹精な堀の深い顔立ちを神妙な面持ちで歪めていた。


 ビル風がもしも彼を押せば、鉄格子の先にいる身体はあっという間に墜落死かもしれなかったが、それを憂慮している様子は無い。


 東京の各地は最盛期に比べれば、ほぼ闇に呑まれていた。


 灯りも殆ど付けられない状況になって10日以上が経っている。


 電力インフラ事情は元に戻りつつあったが、怪異と化した変異者や覚醒者と呼ばれる者達の跳梁跋扈によって、多くの店舗が午後6時には閉店。


 夜に店を開く者は無く。


 民間でも遮光カーテン、赤外線や音、光を遮る暗幕や緞帳といったものが爆発的に売れており、夜の静寂に灯りが見えるという事は多くなくなった。


 街灯すらも最低限以上は注意を引いて破壊される可能性があるという事で今は殆ど住宅地でも点けられておらず。


 夜間に出歩くのは死にたい奴だけ、という程度には人の気配も遮断されている。


【クアドリス様が陣中に入られてから数日……良い種と胎を探せとは仰せだったが、さて……どうしたものか……】


 彼が街並みを見ていると。


 不意にその中に仄かな薄ら緑の灯りが不規則に動いていたかと思えば、いつの間にか物凄い速度で彼に向かって来る。


 それを静かに見つめていた男が嫌そうな顔をした。


 そして、光がフッと消え、彼は己の横に影が立っている事に気付く。


【お前か……ヴァセア】

【キヒヒヒ♪ 相変わらずじゃーん】

【フン。疾く失せろ。この蛾蟲め】


【随分な言われ様ではありませんか。ハスターシャ殿~♪ 魔浄眼まじょうがんの主様~♪】


【消すぞ……その口はどうやら未だ治らぬようだな】


【あ~ん? アンタの瞳でアタシが殺せると思ってんの~?】


【生き返って早々に変異者を喰らわねばならぬ程、消耗しているお主なら分からぬぞ?】


【アンタ嫌い……気取っちゃってさぁ。ま、今日は喧嘩しに来たわけじゃないし、見逃してあげる。勅命アポストリカが発令されたよ】


【―――クアドリス様は何と?】

【時を稼げ。枝葉用の嫁と婿を用意せよ。だって】


【本格的に国生みとなるか。ならば、我が瞳の出番という事だな】


【その腕に封印されてる方も使っちゃいなよ~~YOU~~♪】


【この国を消しては御方の望みは叶うまい。数百年ぶりの力の開放か……ガリオス建国以来だが、錆び付いてはおらぬ。しかと賜った】


【あ、コレはクアドリス様からの情報】


 男の手に術式の塊らしい小さな魔力塊が手渡される。


【じゃね~~】


【男漁り……変異覚醒させた若芽を食い潰す害虫め……】


【聞こえてんすけど~~アタシって結構ブチ切れてもいい?】


【クアドリス様のものとなる都市を消してはさしものお前もお怒りに触れて消し飛ぶだろうよ】


【グッゾ~~~ぜってぇ、今度機会があったら、殺すわ~~】


【その時が来たら、返り討ちにしてくれる】


 ケラケラ、ゲラゲラ、声の主は怒りと愉しみを半分ずつ混ぜ込みながら、彼の下から去っていく。


 灯りが都市の中に消えていく様はまるで誘蛾灯に群がる蟲そのものであった。


【……さて、しばしは探索の日々となるか。あの小僧と小娘も使えそうだ……となれば、敵情視察でもして来るか……】


 バサリと男が襤褸のような外套をビル風に靡かせ、赤光を産む片目を都市に向けて、飛び降り自殺かと軽く立ち上がって虚空へと踏み出し、落ちて行った。

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