名探偵の苦手なこと

相沢泉見

名探偵の苦手なこと




 一人で寝るには大きすぎる真鍮製のベッドの上で、白いカバーのかかった羽根布団がこんもりと白い饅頭のように盛り上がっている。

 その頂をポンポンと叩きながら、和田村涼わだむらりょうは声を張り上げた。

「ホームズ先生、起床の時間です!」

 しかし白饅頭は少しもそりと動いただけで、丸い形状にあまり変化はない。耳を澄ませば、スースーと穏やかな寝息が聞こえてくるばかり……。

 涼はムカつく腹を押さえながら、布団をポンポンと叩いた。

「先生、先生! 朝です! 先生、先生ー!」

 そうやって三回声を掛けたところで、とうとう涼の堪忍袋の緒が切れた。そのままぐっと腕に力を籠めて饅頭の皮を……つまり布団を強引に引っぺがす。

「いい加減に起きやがれ、このホームズかぶれ!」

「――ム?」

 いきなり外気に晒された饅頭の中身――長身痩躯の男――はパチリと目を開いた。シルクの寝間着に身を包んだ彼はガバっと身を起こし、真っ先に窓から差し込む光に目を向ける。

「ふむ、今は晩秋。それでいて、この部屋の隅々にまで日が差し込んでいるということは、太陽高度から推察して、現在の時刻は午前十時……いや、午前十時半! どうだ、当たっているだろう?」

 そう言いながら、男はベッドから降りた。立ち上がると、百八十センチはある長身がいっそう際立つ。

 男はそのままアーモンド型の目をきらきらと輝かせ、鼻をひくひくさせた。どうだ? などとふてぶてしく尋ねておきながら、涼の答えを待つ気配はない。

「ほう、何とも香ばしい匂いが数種類交じっているな。おそらく今日の朝食はトーストとスクランブルエッグ、そしてベーコンだろう。どうだ、当たっているか――ワトソン君」

 寝起きにもかかわらず、その容姿は憎らしいほど整っていて、もうじき不惑に手が届くとは思えないほど若々しい。そんな彼が、自信に満ちた鋭い視線で涼を捉えた。が、涼は溜息一つでそれを受け流す。

「当たっているも何も、朝食は毎日ほぼ同じメニューしか作ってないですよ。せいぜいスクランブルエッグが目玉焼きになるくらいで。そして確かに、今現在、午前十時三十一分です。世の社会人たちはとっくにデスクに向かってる時間です。……何が言いたいのかというと――とっとと着替えてメシ食って仕事しろや、この寝坊助ねぼすけが!」

 あちこち寝癖で跳ねた頭をパコーンと一発はたいてから、涼は寝室をあとにした。


 寝室のあるじの名は――ホームズ。

 もちろん、かの名探偵本人ではなく、自称だ。本当の名前は高御堂晴臣たかみどうはるおみといって、ホームズとは掠りもしない。

 だが、高御堂は何を血迷ったか強制的に他人にも己のことを『ホームズ』と呼ばせている。

 そんな『自称ホームズ』の職業はもちろん『探偵』であり……何を隠そう、涼の雇い主でもあった。名探偵の助手兼マネージャー兼その他諸々として雇われた涼の呼び名は、推理するまでもなく『ワトソン君』だ。

 そんな探偵と助手が活動の足掛かりにしている場所こそ、今いるこの洋館、通称『煉瓦の館』である。どんなコネクションを使ったのか知らないが、高御堂は郊外にひっそりと建つこの館を二十年ほど前に手に入れ、自宅兼事務所にしていた。

 そこへ涼が後から住み込んだ形だ。高御堂と一緒に暮らすようになってから、涼は料理などの家事も請け負い、公私ともに名探偵のサポートをしている。

 寝坊助探偵を何とか起こした後、涼は二階にある寝室から一階のキッチンに降りた。テーブルには既に二人分の朝食が用意してあったが、温め直さなければならないだろう。

 何せ、高御堂は身支度に時間のかかる男だ。トレードマークの三つ揃いのスーツに着替え、髭を剃り、ポマードで髪をオールバックに整える。これでゆうに半時間はかかる。

 パーカーとジーンズに着替え、顔を洗うついでに短い癖っ毛をちょいちょいと整えるだけの涼からすると果てしなく時間の無駄に思えるのだが、誰に会うわけでもなく特に予定のない日でも、高御堂は英国調のスーツスタイルを崩さない。どうやらこの格好が、彼の頭の中のホームズ像らしい。

 名探偵との奇妙な同居生活は、朝から大変である。とにかくホームズかぶれの高御堂――シャーロキアンなどという呼び方をしては本物のシャーロキアンに失礼なのでこう呼ぶ――は、朝、目を開けた瞬間から、推理、推理、推理!

 視界に入ったものすべてに無理やり謎を見出し、それを解こうとする。そう、さっきのように……。

 涼がちょっと気を緩めると、火のないところに火山を持ち込む勢いで、すぐに何がしかの推理をおっぱじめるので、それを制して本来の仕事をさせるのは一苦労である。

 高御堂が何故こんなにもホームズにご執心なのか、涼は知らない。出会った時には既に自らホームズと名乗っており、数々の事件に頭の天辺までどっぷり浸かっていた。

 二人の出会いは、十年前に遡る。

 その頃、涼は十七歳の高校生で、柔道に明け暮れていた。柔の道を突き進んでいたのは、両親の影響である。幼少の頃から畳の上に上がっており、実力もそれなりにあった。軽量級の若手有望株として地域の新聞に載ったこともある。

 ある日、涼が当時通っていた道場に、ひょろりとした長身の青年が訪ねてきた。それが高御堂だ。高御堂は、涼に向かってこう言った。

「新聞で君の記事を見かけた。ぜひ僕と手合わせ願いたい」

 突然こんなことを言われて、涼は驚いた。聞けば、高御堂は十歳も年上。涼と同じく細身ではあるが、身長は二十センチ以上高いので、階級は異なる。

 年齢も階級も……何もかも違う相手を前にして一瞬迷ったが、涼は挑戦を受けることにした。

 自分は強いという自負があった。道場には、涼の後輩たちもいる。突然訪ねてきた優男を前に、エースが負けるわけにはいかない。

 三つ揃いのスーツから柔道着に着替えた高御堂を相手に、涼は初めから全力でぶつかった。

 が……結果は惨敗。

 持ち前の俊敏さを活かし、先に有効を取ったのは涼だったが、最後は高御堂の鮮やかな払い腰であっけなく畳に転がされてしまった。

 悔し涙を堪える涼に、高御堂は片方の手の平を差し出した。

「実は僕は、助手を探していたのだ。名探偵の助手を。探偵は頭脳だけでなく、時には体力を必要とする。その点、君は合格だよ。僕から有効を奪ったのは君が初めてだ。……何よりも、その名前が素晴らしい。和田村涼わだむらりょう、いや――ワトソン君」

 和田村の村を『ソン』と読んでワダソン。それをもじって、ワトソン。

 その呼び名は苦しすぎるだろ……と思ったが、それ以上に涼の心は弾んだ。負けた悔しさなどとうに吹き飛んでいた。この男についていけば楽しくなりそうだ――そう思ってしまったのだ。

 だから、涼は差し出された手を握った。

 以来、高御堂の助手となり、彼の隣にいる。そして、数年前からは煉瓦の館に一緒に住み、多くの時間を共に過ごしてきた。

 そんな高御堂は、涼が作った朝食を綺麗に平らげると、書斎のデスクの前に座って目を輝かせた。

「さて、今日はどんな謎が僕を待っているのだろうか」

 デスクには『依頼人からの手紙』が山積みになっている。涼はその山から一通の封筒を取り上げて、高御堂に渡した。名探偵の瞳が、すぐに紙面に向けられる。

「ふむ、なになに……『ホームズ先生、はじめまして。わたくしは白金に住む金満福子かねみつふくこと申します。五十二歳です。実は半月ほど前、一人息子の冬彦ふゆひこちゃん(二十九歳)が家出をしてしまいました。漫画家になると言って家で一日頑張っていたのに、絵を描く道具を全部残して、鞄ひとつ持っていなくなってしまったのです。ああ、わたくしの冬彦ちゃん。寒くなったのに腹巻も持たずに、とても心配です。ホームズ先生、どうか冬彦ちゃんを探してくださいませ』か……」

 事務所には毎日のように助けを求める手紙がくる。高御堂は手紙に書かれた内容を読み、それに基づいて推理をして、解決策を提示して送り返している。

 もちろん手紙の内容によっては実地調査に出向くこともあるし、手紙ではなく直接依頼人が訪ねてくるケースもあるが、八割はこういった往復書簡での対応だ。

「一人息子が行方不明か。そりゃ、心配ですね……」

 涼は高御堂の後ろから手紙を覗き込んで言った。しかし高御堂は心配するそぶりなど微塵も見せず、口角を軽く引き上げて皮肉げに笑う。

「なに、心配など無用だ。このレターセットは舶来の一級品だし、白金という一等地に住んでいるところからして、金満家は相当の素封家だろう。そして、手紙の中に出てくるこの息子は、相当に甘やかされて育ったボンボンだ。そんな脛齧り者が半月も一人で暮らせているのがまずおかしい。軽装のまま家出をしたとあるが、財布くらいは持っていっただろう。その中にはおそらくクレジットカードが入っている。息子本人は無職だからカードの契約はできないはずだ。となると、名義は親。そのカードを解約してしまえば、この甘ったれ馬鹿息子はすぐに音をあげて家に帰るだろう。そうだな、一週間――いや、三日で戻ってくる。……ワトソン君、今僕が言った内容を適当な言葉に置き換えて、返事を書いておいてくれたまえ」

 手紙を一読しただけで、高御堂は物事の真実をだいたい見抜いてしまう。さながら安楽椅子探偵だ。

 自信を持って名乗っているだけあって、ホームズの冠は伊達ではない。今まで、ありとあらゆる事件を解決に導いてきた。結構な調査料を取っているのだが、お陰で依頼が途切れたことはない。

 普段は高御堂に振り回されている涼も、この探偵の能力に関しては認めざるを得ない。悔しいが、自称ホームズは本当に名探偵なのだ。

 その後も高御堂は積み上げられた手紙を片っ端から読み、読みながら解決していった。

 途中に昼食を挟んで、午後も作業を続けた。気がつくと、窓から差し込む陽射しが随分と西に傾いている。

「ワトソン君、僕は少し疲れた」

 まだまだ残っている手紙の山を脇に押しやり、高御堂はこめかみを押さえて言った。

「じゃ、お茶でも淹れますか」

 脇に控えていた涼は立ち上がってキッチンへ向かった。すぐに戻ってきて、高御堂の前に温かい紅茶を置き、自分は冷たいグラスを手に取る。

「ム? ワトソン君、今日は珍しいものを飲んでいるな。いつも僕と同じものを飲むのに。一体、それは何だ」

「レモネードですが」

「レモネード? それはよろしくないな。休憩中とはいえ、口にするならやはり紅茶だろう。英国紳士のホームズとしてはね」

 お前は日本人で、本名は高御堂晴臣だろ、と心の中で突っ込みながら、涼はしれっとグラスを空にした。

 高御堂も紅茶を飲み干し、ウェッジウッドのカップとソーサーをマホガニーのデスクに置く。そして再び、こめかみを押さえた。

「いかんな、眠気が取れない。僕は何故こんなにも眠いのだ。……待てよ、もしや、さっき食べた昼食に睡眠薬が入れられていたのか? となると、外部犯か……?」

 このままでは高御堂が『推理モード』に突入してしまう。その前に、涼は慌ててかぶりを振った。

「食事には何も入ってませんよ! 先生が眠いのは、夕べ夜更かししたからです。夜通し読んでいたでしょう。『バスカヴィル家の犬』を!」

「おお、そうだった。僕は昨日、夜通し読書に勤しんでいたのだったな。本のタイトルまで当てるとは、素晴らしい推理だ。ワトソン君もようやく名探偵の助手らしくなってきたじゃないか!」

「推理なんしてませんよ。朝、先生を起こしにいった時に枕元に本が置いてあっただけです」

 油断するとすぐ不必要な推理をしようとする。高御堂とは、こういう男だ。

 ムカつく腹を抑えつつも、再びろくでもない発言が飛び出す前に、涼は素早く言った。

「そんなに眠いなら、少し外を歩いて気晴らししませんか、ホームズ先生」


 二人が住んでいる煉瓦の館は、小高い丘の上に建っている。

 名探偵とその助手はのんびりと十分ほど歩き、丘のふもとのスーパーまでやってきた。

 夕方の店内は、買い物をする主婦たちで混み合っている。涼は高御堂に買い物カゴを持たせて、片っ端から商品を放り込んでいった。

「ふむ。人参、玉葱、じゃが芋か。今日の夕食のメニューを当てて見せよう。ずばり、カレーだろう!」

「そんなの誰でも見当つくでしょう。……いいからちゃんとカゴを持って、ついてきてください」

 スーパーでもすぐに推理をおっぱじめようとする高御堂をせっつきながら、涼は売り場を歩き回る。

「オレンジ、グレープフルーツ、デコポンに伊予柑……ふむ、今度はやけに果物ばかりだな。こんなに買ってどうするのだ、ワトソン君」

「先生、残念ながら最後のは伊予柑ではなく八朔です。果物を買ったら、食べるに決まってるでしょう。今日は特売なのでどんどん行きますよ」

「ム……少々重いのだが」

「探偵には体力も必要なんでしょう。出会った時にそんなこと言ってましたよね。だったら頑張ってください。それから……これからは毎日買い物に付き合ってもらいますよ」

「は? 何故この僕が特売品を漁り、レジの行列に並ばなければならないのだ。こういうのは助手の仕事だろう。僕は名探偵なのだ。名探偵とはすなわち……」

 ――ああ、うざったい。ムカムカする!

 小うるさい演説を遮り、涼はポマードで固められた頭をバチコーンとはたいて叫んだ。

「うるせぇ! 黙ってカゴ持ってろ!」



   ***



 夕食のチキンカレーを腹に収め、涼と高御堂は食後の飲み物を味わっていた。

 窓の外はすっかり夜。一つ屋根の下で暮らす二人の一日が、そこそこ穏やかに終わろうとしている。

 ……かと思われた矢先、事務所の電話が鳴った。

 対応したのは名探偵本人だ。高御堂は電話を切ると再びテーブルにつき、輝くような表情を浮かべて言った。

「ワトソン君、明日は外に出るぞ! 美術館に、怪人百面相から『ゴッホの名画を頂く』という予告状が届いたらしい!」

 怪人百面相とは、最近巷を賑わせている泥棒の通り名である。

 予め盗むものを決めて日時を指定した予告状を出し、その予告状通りに仮面で顔を隠して登場するという派手なパフォーマンスで、お茶の間の人気をさらっている。

 高御堂と涼は、この怪人百面相と今まで二度ほど対決をしている。二度とも品物を盗まれることはなかったが、怪盗本人は取り逃がしてしまった。要するに、結果はドローだ。

「怪人百面相との対決となると、久々に激しい立ち回りになりそうだな。今日は早めに休もうじゃないか!」

 高御堂は対決を心待ちにしているようだ。言葉の端々がうきうきと弾んでいる。謎の怪盗の出現は、名探偵としての血を騒がせるのだろう。

 しかし涼は、そんな高御堂とは裏腹に、手にしていたグラスを置いて首を横に振った。

「先生、申し訳ないけど、明日は付き合えません」

 高御堂のアーモンド型の瞳が大きく見開かれた。その表情が「何故だ」と問うている。

 無言の問いかけに答えることなく、涼の言葉はさらに続いた。

「それから『ワトソン君』と呼ぶのも、できればやめてほしいんですよ」

 長い沈黙が訪れた。

 室内に響く時計の音を遮って、先に口を開いたのは高御堂だった。

「……それはつまり、君は僕の助手でいるのが、嫌になったということか」

 高御堂は眉根をぎゅっと寄せ、難しそうな、それでいて悲しそうな表情を浮かべていた。十年も一緒にいて、そのうち何年かは同居をしているが、涼はこんなに狼狽えた名探偵を見たことがない。

「そんなことはないですよ。だけど明日は付き合えないし、ワトソンと呼ぶのもやめてほしい」

「何故だ。何故急に、そんなことを言う」

 高御堂のまっすぐな視線が涼を射抜く。涼も負けずにその瞳を見つめ返した。

「何故って、それを助手に聞いてしまうんですか? 先生は名探偵でしょう。目の前に謎があるんですから、今こそお得意の推理をしてくださいよ」

「謎――謎か。ふむ、確かにそうだな」

 その途端、高御堂の瞳に光が戻った。『謎』の出現により名探偵としての情熱が蘇り、動揺をたちどころに打ち消していく。

「何故明日、君は僕に付き合えないのか。何故、ワトソンと呼ぶのをやめてほしいのか……」

 高御堂は鋭角気味の顎に、骨ばった指を添えて首を傾げた。次に、目の前にあるテーブルを見つめる。

 テーブルの上にあるのは、高御堂の紅茶のカップと、涼のレモネードのグラス。そしてスーパーで大量に買い込んできた果物が、カゴに盛って置いてある。

「……まさか!」

 ガタンと大きな音を立てて、名探偵が立ち上がった。

 どうやら推理が終わったようだ。

「ワトソン君、もしかして、君は……」

 肩を震わせながら近づいてくる高御堂に向かって、涼はペロっと舌を出し……そして片手を軽く、自分の『下腹部』に添えた。

「昨日、医者で診て貰いました。……妊娠、三カ月ですって」

「なんと……!」

 高御堂は椅子に座った涼の傍らで膝を折り、下腹部に置かれた涼の手に、大きな掌をそっと重ねた。

 十七歳の女子高生だった涼と、高御堂が出会ったのは柔道場だった。年齢と階級と……性別を超えたあの一戦を、いまだによく覚えている。

 それから、和田村という名前をもじってワトソンと呼ばれるようになって、早十年。

 出会ってからしばらくして、二人は同居を始めた。色々な難事件を共にかいくぐり、強い信頼の絆が生まれた。

 その絆は、いつしか別の感情に変わっていた。そして今、涼の身体の中で実を結んでいる……。

「さすがに身重で大立ち回りはできないので、明日はお付き合いできません。それから、今後は買い物の時、荷物を持ってください」

 涼の言葉に、高御堂は半分笑って、半分泣きながら頷いた。

「そういうことだったか。分かった。いくらでも持とう!」

「もう悪阻が始まっているみたいで、時々胃がムカムカするんです。酸味のあるものが欲しいので、柑橘類をたくさん食べたいです」

「よし、箱ごと……いや、山ほど買おう! そして明日は休みにする。怪人百面相なんて、この際どうでもいい。役所に婚姻届を貰いに行くぞ!」

 拳を握りしめて高らかに『怪人放置宣言』をした後、高御堂は何かに気が付いたようにハッと身体を揺らした。

「そうか。君が『ワトソン君と呼ぶな』と言ったのは……」

「そうです。私は『和田村』ではなくなりますから、それをもじったワトソン君という呼び名は、あんまり相応しくないですよね」

 婚姻の際は妻と夫、どちらの姓を選んでもいいが、涼は高御堂の戸籍に入るつもりでいた。ワトソンという呼び名の元になった苗字は、もう使えなくなる。

「別に、このままワトソンと呼んでくれてもいいんですけど、できればやめてほしいんです。……先生と『一緒になった』気が、あまりしないので」

 一緒になった、という言葉のあたりで、高御堂はあからさまに赤面した。そのまま、照れを隠すようにポマードで固められた頭髪に片手を当てる。

「ふむ。しかし『ワトソン君』が使えないとすると、僕はこれから君のことを、なんと呼べばいいのだろう」

「下の名前で呼んでくれればいいじゃないですか」

「……下の、名前? 下の名前?! 僕が――君を?!」

「できませんか? できますよね。名探偵はなんでもできるんでしょう?」

「う、うむ、やってみよう……」

 しばらく、名探偵の口はもごもごと動いていた。推理を述べる時はあんなに饒舌なのに、たった一言がなかなか出てこない。

 涼は思わず声援を送った。

「ほら頑張って、名探偵!」

 整えられていた髪を手で乱し、冷や汗をかきながら格闘すること小一時間。

 完熟林檎よりも真っ赤になりながらしどろもどろに「涼……」と呼ぶ高御堂を見て、彼の助手は思うのだった。


 ――ああ、名探偵にも、苦手なことがあるんだなぁ。


                   (了)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

名探偵の苦手なこと 相沢泉見 @wright_sweet

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画