(四)ルベーゼと夜の風③
「あれは……!」
リファールは己の目を疑った。
人々の波の向こうに見えたのは、何度も夢に見たあの少女の面影を残す女性。あの美しい金髪に優しい横顔。間違いない、彼女は此処に居る。
あの日、暇を持て余しバルコニーで座り込んでいた少年の前に現れた天使。
「お暇なんですか?」
儚げな少女は優しく微笑みかけた。
「いや、中の居心地が悪くて抜けてきた。……外は涼しくていいね」
少年だったリファールは照れくさくて、少しの嘘を織り交ぜた。
「私もです、落ち着くために少し夜の風にあたりたくて」
そうして始まった会話は、時間を忘れさせた。
浮かれすぎて何を話したかさえもうろ覚えだが、二人はずっと笑顔だったということは記憶に残っている。それは今まで経験したことのない何と甘美で楽しい時間だったのだろうか。
だが、どんな時間も終わりを告げる。
「あら、そういえば……。お名前……お伺いしてもよろしいですか?」
「俺は……リ……リルだ」
一瞬の迷いがあった後、思わず親しい人に呼ばれる愛称を口にしてしまった。
「リル様……ですね」
「貴女のお名……」
リファールが同じように問いかけようとした時だった。
「戻ってらっしゃい! お医者様が来たわよ」
一人の少女の声に言葉はかき消された。
「あ、姉さま……。ごめんなさい、行かなきゃ……。リル様、楽しかったです。またお話ししてくださいね。あ、私は……」
去りゆく少女は何かを言い残して行こうとしたのだが、沸き起こった会場の笑い声に紛れ、その最後の一言は聞き取ることができなかった。きっと彼女は、自らの名を口にしていったに違いない。今でもそう思っている。
名前も分からず、他国の令嬢など探せるはずもない。想いは募るも、為す術もなく日々は過ぎた。
年頃になると婚約の話が何度も持ち上がった。だが、一国の王子が他国の令嬢に一目惚れし、妻を娶る気が無いなどという噂は立てられない。あくまでも気が乗らないと逃げ続けた。
その想いが今。
焦がれ続けるも叶わぬ想いと諦めたあの人に、僅かに踏み出せば言葉を交わせる。見れば彼女の隣に立つ女性にも見覚えがある。あの日、彼女を呼びに来た姉に違いない。やはり彼女は。そしてもしかしたら……。いや、彼女に伴侶が居るなどとは想像したくもない。
今、何もかもなげうって声を上げれば、彼女は届く距離に居るというのに。
それでも今は立場上、会場より一段上にある主賓席を離れる訳にはいかない。何もできないというやるせなさがリファールを苦しめる。鼓動が早くなり、手にしていたグラスが滑り落ちそうになる。そんな時であるにも関わらず。
「リファール殿下、お初にお目にかかります……」
また別の貴族がやってきて、視界を塞ぐ。
作り笑顔で応対するが、あの女性の事が気になって相手の言葉など耳には入らない。
申し訳ないと思いながらも曖昧な相槌を返す。どの程度の時間を遮られていただろうか、目の前の紳士は満足したように去って行った。
(彼女は?)
慌てて先程と同じ場所を見ると、彼女はまだそこに居た。
リファールはほっとしたように大きく息を吐くと、再びその姿を目で追いかけ始めたのだが……。
彼女はふらりとよろけ、隣の女性に支えられた。
良かったと胸を撫で下ろすと同時に、遠い場所で何もできない歯がゆさにリファールは拳を握りしめた。
「ごめんなさい、エラゼル」
「いえ、大丈夫ですか?」
顔色が悪くなりつつある姉を見て、エラゼルは不安を隠せない。
ラーソルバールが明かした話を信じていない訳ではない。可能性はあるとエラゼルも思っている。もしかしたら、姉の想い人もとも思う。
だが、公爵とはいえ、大臣ではない父が挨拶に行くのはまだ後になる。それまで姉の体は持つのか。
「エラゼル……、私は隣室で少し休みます。我が家がご挨拶に伺う時になったら呼びに来てくれますか?」
弱々しい声で、ルベーゼは告げた。エラゼルとしては、心配でそのままひとりで行かせる訳にはいかない。
「私が一緒に……」
「貴女は、どなたの婚約者候補なのですか? そして姉上も、父上も母上も公爵家としての立場があります。誰もむやみにこの場を離れるような事をするべきではありません……」
エラゼルの言葉を遮り、ルベーゼは姉としての立場から窘めるように言う。だがルベーゼは言葉に反してエラゼルに向けた優しい微笑みを残し、ふらりと広間と廊下を仕切る扉へと歩いて行った。
彼女の背中を押すように、夜の風が優しく吹いた。
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