(一)悪魔②

 経験した事の無い波動がラーソルバールを襲う。

 毒を帯びた深い霧が皮膚にまとわりつくような、不快感を通り越して、気分が悪くなりそうな程の闇への誘い。

 宙に浮く相手を睨みつけると、剣を握り締め、魔力を流し込む。

 手の届かない場所に居る相手よりも、まずは眼前の相手。上空からの攻撃は、注意を払えば何とかなるだろうか。敵に動きが有っても、エラゼルやガイザ、ジャハネートが動くに違いない。

 確信を持って地面を蹴る。エラゼルが愛するこの庭園をなるべく傷つけないように、と願いながら。

「えっ?」

 ラーソルバールが振り下ろした剣は、急襲したのにも関わらず、恐るべき反応速度を見せた悪魔の剣で受け止められた。完全に勢いを殺され、まるで大きな岩にでも切りつけたような感覚が手に伝わる。

 押し返す力も、元は人間であった者とは思えない程で、反撃を警戒したラーソルバールはすぐに飛び退いた。

(魔力を込めたところで力勝負では勝てない……)

 魔法か、剣技か。

 果たして、かつて目にした本には何と書いてあったか。悪魔への魔法は、弱点は……。いや、それよりも。先程、変容が終わらぬうちに片を付けておくべきだったか、と後悔する。


 ラーソルバールが焦燥する様子を空中で眺める悪魔は、余裕の笑みを浮かべる。

「たかが雪辱の為に、人間である事を捨てるなど、何と愚かな……」

 宙を睨み、エラゼルは苦々しげに口にした。

「負け惜しみか?」

 地上を見下ろす目が冷たく、黒く淀む。地上の二体とは異なり、やや赤みがかった黒い肌が、すでに悪魔へと変異を終えたのだと物語る。

「私達は負けなどしない。貴様は、暗殺者としての誇りまで捨てたのか、と聞いている」

「捨ててなどいない。ここでお前達を殺せば、それで良い」

 人間であったときの声は薄れ、低く暗く魂を侵食するかのようなものへと変わり、威圧するように語りかける。

「悪魔の力を借りても……いや、悪魔に取り込まれても、構わないと?」

「なに?」

 ジャハネートの問いに、悪魔と化した男はゆっくりと振り返る。

「お前はもう人間には戻れん。そういう禁忌の呪術の存在は知っている。アタシらからの情けだ、まだ人間としての意識が有るうちに殺してやるから、有り難く思いな」


 エラゼルとジャハネートが上空の敵の注意を引きつけている間、ラーソルバールは再び攻勢に入っていた。

 迷っても仕方が無い、自分に出来るのは剣を振るう事だけ。愚直に積み重ねてきた剣こそが自分の全てではないか。上から左下へ、そのまま左から右へと剣を躍らせ、次第にその剣速を上げる。止められ、弾かれたのなら、それよりも速く、強く。

 剣を振りながら、ランタンに映し出される悪魔の姿を見て気付く。体の所々に人間のまま変容していない部分がある。

 ジャハネートが「半悪魔」と形容した時点から、かなり悪魔寄りになったものの、これ以上は変化しないのだろうか。仮にそうだとすれば、悪魔の肉体に人間である部分がついて来られなくなるに違いない。つまりはラーソルバール自身が、素体となっている男の身体能力を少しでも上回ることができれば、勝てるかもしれないということ。

「力を温存している場合じゃないね……」

 ラーソルバールは苦笑いした。


 上空の敵は、ジャハネートが牽制しているおかげで、降りてこようとしない。それとも機会を探っているのか、依然として余裕の表情を見せている。

 そして、腹部の傷のせいで動けないのかと思われていたもう一体の半悪魔だったが、突如しびれを切らしたようにエラゼルへと襲い掛かった。

「ぐっ!」

 恐ろしい速度で迫った相手の攻撃を、エラゼルは辛うじて剣で受け止めたが、その力を受け止めきれずに弾き飛ばされてしまった。着地に失敗し、バランスを崩しかけたところに、追い討ちがやってくる。その瞬間、エラゼルと敵との間に、ガイザが割って入った。

 不意を突く形になったおかげだろうか、右肩にガイザの剣が深く突き刺さり、勢いは止まる。エラゼルに斬られていた場所からも、いまだに青黒い血が流れ出ている。

「万全じゃないようだからな、俺でも何とかなる」

 ガイザが不敵に笑う。

 肩に刺さった剣を嫌った悪魔は、左の手で無理やり引き抜くと、後方へ飛び退き、間を取った。

「すまぬ」

 エラゼルは素直に感謝の言葉を口にする。

「気にするな」

 たまには俺にも良い格好させてくれよ、このままじゃ、あいつに置いてかれっぱなしだからさ。ガイザはその言葉を飲み込んだ。

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