(四)アシェルタートの思い①
(四)
夏の匂いを感じる夜の庭園を、ラーソルバールはひとり歩いていた。まだ肌寒かった春の出来事を思い出すように、ゆっくりと。
邸宅から漏れる僅かな光と月明かりを頼りに、あの時と同じ岩に腰掛ける。
月を見上げると、夜になってようやく涼んだ風が心地よく頬を撫でた。
「あと何回ここに来られるんだろう」
この先、帝国がどう動くか見えない。予想したように戦争に突入すれば、もう会うことは叶わなくなる。
どうすれば、アシェルタートと一緒に居る事ができるだろうか。王都に居る間、そればかりを考えていた。けれど、自分ひとりがどう足掻いたところで状況が変わるはずも無い。己の無力さに打ちひしがれながら、苦しんできた。
アシェルタートに会いたい気持ちと、もう会うべきではないという心の声。答えの出ぬ苦しさに何度ため息をついた事だろう。
視線を落とすと、ゆっくりと歩み寄ってくる人の影が見えた。
「ルシェお姉様?」
「……エシェス様、ですか?」
「はい。庭に人が居るなど珍しいので、誰かと思いましたが……」
穏やかな口調が、波立っていたラーソルバールの心を静めてくれた。
「すみません、勝手に」
「いえいえ……。虫除け香を持ってきておりますので、少しご一緒させて頂いてもいいですか?」
「ええ、もちろんです」
近くにやって来たエシェスの顔が、ようやくはっきりと見える距離になり、ラーソルバールは笑顔を向けた。
「お兄様とご一緒なのかと思っていましたが」
「私たちが予定より一日早く来たせいでしょう、色々とお忙しそうにしておられたので、夕食後もお声がけしませんでした」
隣に腰掛けたエシェスは、その言葉に少し寂しそうな笑顔を浮かべる。
「お気遣いありがとうございます。お兄様は最近何やらやる事が多いようで、私もあまり話す機会がありませんでした。今朝までは、兎にも角にも皆様が来られるまでに、全部仕事を片付けると息巻いておりましたが」
「何だか、ご迷惑をおかけしているようで……」
「いえいえ、逆です。最近はルシェお姉様に会える日を指折り数えて、生き生きしながら働いておりましたから。今日は直接お会いして、より一層やる気が出ていると思いますわ」
エシェスは必死に働く兄の様子を思い浮かべたのだろう、声を抑えつつ肩を揺らして笑った。ラーソルバール達が来る事が、彼にとって負荷になった訳ではない。そう言いたかったのだろう。
「以前、こちらに寄せていただいた際にも、アシェルタート様とここでお話をさせて頂いたんですよ」
「あら、それはどんなお話です?」
興味津々というように、エシェスは顔を近づける。
「エシェス様のお話と……、あとは内緒です」
ラーソルバールにはぐらかされ、期待していた話を聞けずにエシェスは頬を膨らませた。
「あの時も、綺麗な月が出ていました。何処に居ても月は同じように見えるのに、国が違うだけで人は……」
「え……?」
月を見上げて思う。あの時は静かな夜だったが、今は虫の声が聞こえ、色とりどりに咲いているであろう花の香りが、時折鼻腔をくすぐる。
「いえ……、なんでもないです。それよりも、こちらに居られて大丈夫なのですか?」
「ええ、大丈夫なのですが、こうしてルシェお姉様の時間を奪っていると、お兄様に怒られそうで……」
そう言いつつもその表情は明るく、笑みすら浮かべていた。
しばらくの間、その場で会話をした後、二人は邸宅内に戻った。
「では、エシェス様、失礼します。また明日」
「おやすみなさい、ルシェお姉様」
互いに軽く頭を下げて、挨拶を終えると、自室へと向かう。
忙しさの原因も派兵に関するものだろうか、と思えば納得できる。
街の警護兵といった私兵までも含んでいるとすれば、指揮官も送られているはず。最高責任者にあたる伯爵や、代行のアシェルタートが残っている事を考えると、ここに来てからまだ姿を見かけていない、ボルリッツがその任にあたるのだろうか。
見知った人間が戦場に赴いたと考えると、背筋に寒いものを感じる。家族を戦場に送り出す人々というのは、この何倍も恐ろしいのだろう。
いや、もしかしたら、この後アシェルタート自身が戦場に赴く可能性もある。何故その可能性を考えなかっただろうか、もしかしたら戦場で……。そこまで考えたところで恐ろしさに全身が震え、足を止めて頭を振った。その先は考えるべきでは無い。
大きく息を吸ってから吐き、心を落ち着ける。急いで部屋に戻ると、そのままうつ伏せにベッドに倒れこみ、枕を抱え込んだ。
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