(四)小さな始まり③
「遅かったではないか」
ラーソルバールが宿に戻り部屋の扉を開けると、椅子に腰掛けていたエラゼルが不満げに言った。ひとりで待っているのが余程暇だったのだろう。
「ん? どうした息を切らして……」
室内に入ってきたラーソルバールの様子を見て首を傾げる。
「宿に戻るまで走ってきたの」
「何でわざわざ。変な奴にでも追われたのか?」
「ん、ちょっとね。遅くなったから急いで戻ってきた」
誤魔化すように答えると、荷物を床に置く。
「何だ? その肘は?」
肘に巻かれたハンカチを見て、エラゼルが寄って来る。
「血が出ているな。転んだのか……? ん……そもそもこのハンカチ、ラーソルバールのものではないな。こんな見事な白地に刺繍の入ったものなど……んんっ?」
「なに? どうしたの」
慌てて誤魔化すように、肘を隠そうとする。
「これをどうした?」
「どうしたって言われても……」
言葉に詰まる。先ほどの出来事は、言うつもりは無かったので、ラーソルバールは対応に困った。
「この刺繍、ルクスフォール家の家紋ではないか? 街の門に掛かっていた旗と同じ図柄だ」
「え!?」
驚いてエラゼルの指差す部分を見ると、確かに青い糸で刺繍が施されている。それはエラゼルの言うように、街に入るときに見かけた二羽の鳥が向かい合うデザインと同じものだった。
「……ああ……、どうしよう……」
ラーソルバールは、がっくりとうな垂れた。
翌朝、ラーソルバールはエラゼルに引きずられるようにして部屋を出た。
ハンカチはぶつかった人に手当てしてもらったもの、とだけ説明したのだが……。エラゼルは「良い伝手を得たではないか」と言って、何を言っても無駄という雰囲気になってしまった。
(そうだよね、そうなるよね……)
流石にドレスを着込む訳にはいかないが、化粧をしてある程度は失礼の無い格好をしている。当然、化粧の仕上げはシェラに頼んでいるのだが。
「やめようよ、こんな形で押しかけるの」
無駄と分かっていても抵抗せずにはいられない。
「行くぞ、ラーソルバール」
嫌がるラーソルバールを、エラゼルとフォルテシアの二人が脇を抱えるようにして連行する。その様を見て、シェラとディナレスは顔を見合わせて笑い、男二人は呆れたように眺めていた。
歩いてそれ程時間が掛からずに、ラーソルバール達は領主であるルクスフォール家の邸宅に到着する。
「あう……嫌だってば……」
「抵抗するでない。何故、そんなに抵抗する」
「うう……」
エラゼルの問いにも、ラーソルバールは答えない。無理矢理促され、そのまま半分泣きそうになりながら渋々、門の前に居た警護の男性に話しかける。
「どうした?」
「昨日、転んだ折に怪我の手当てをして下さった方が、傷口に巻いてくださったハンカチなのですが、こちらの紋章が刺繍されていたので、お返しに上がりました」
理由は分からないが、半泣きで美しい娘が訴えてくるのを、無下に断れるほど警護の男は冷酷ではなかった。
「分かった、取り次ぐからここで待っていなさい」
警護の男は、ハンカチを持って館へと走っていった。
しばらくして警護の男は、執事と思われる老人と、身なりの良いひとりの若い男を連れて戻ってきた。
「あ! 君は!」
ラーソルバールを見るなり若い男は声を上げ、そして微笑んだ。
「返さなくていい、と言ったから、もう会うことは無いだろうと思っていた」
「申し訳ありません、不躾に……」
半泣きの顔のまま、ラーソルバールは頭を下げる。
「昨日は名乗る暇も無く、申し訳なかった。僕の名は、アシェルタート・リム・ルクスフォール。ここの領主の息子だ」
そうだろう、あのようなハンカチを持っているのは、領主かその家族だけだ。
「私はルシェ・ノルアールです。そのハンカチはよく洗って乾かしてあります。昨晩は、本当にありがとうございました」
本名を名乗れぬ事が、ラーソルバールの心にチクリと痛みを与える。そして思った。この人にまた会ってしまった。会わなければ、きっと忘れられただろうに、と。
「……ふむ、あれは、恋する乙女の顔ですねえ」
エラゼルの後ろでディナレスがボソリと呟いた。
「なにっ!」
シェラとエラゼルは同時に声を上げ、互いに顔を見合わせた。
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