第24話

 私は小さい頃から体が弱くて、学校にも行けずに家で一日を過ごすことがほとんどだった。お母さんは私を生んだ時に亡くなって、お父さんは医者をしていたから、家に帰ってこないことも多々あった。そんな私の唯一の楽しみは、お兄ちゃんに学校での話を聞くことだった。授業中に先生が話してくれた面白い話、優秀な成績をとって褒められた話、生徒会長になったときの話。そのどれもが私の生活の中での楽しみだった。



 そして三年生に上がった頃、お兄ちゃんは亨くんの話をしてくれた。あれは入学式の日。お兄ちゃんは生徒会長として新入生の前で挨拶をするって言ってた。家に帰ってくるとすぐに私の元に駆けよって、亨くんの話をしてくれた。



「なあ、今日の入学式、ちょっと変なことがあったんだ」

「変なことって?」

「学校に向かう道中で新入生らしき奴がいてさ、声を掛けたらどうやら迷ってたみたいで、学校まで案内したんだよ。そしたら泣きそうな顔でありがとうって言ってきて。でさ、入学式が終わって図書室に行ったら、そいつが図書室を食い入るように眺めててさ、声を掛けたら、俺のことさっぱり忘れてたんだ」



 自分が忘れられた話を、あまりに嬉しそうに話すもんだから、最初はおかしくて笑っちゃった。それからはもう亨くんの話題でひっきりなしだったよ。なんで忘れてたんだろう。絶対おかしい何かあるって、いつも言ってた。だから私ね、冗談でお兄ちゃんに言ったの。



「何か、私たちには簡単に理解できない特殊能力でも持ってるのかもね」



 そうしたらお兄ちゃん、それは節穴だった、みたいな目つきで私を見てた。冗談で言ったつもりなのに、もうそれしかありえないってさ。

 亨くんのことを初めて聞いてから一か月も経たないある日、入学式の日と同様、私の元に駆け寄ってきた。



「千鶴、千鶴の言ってたこと、本当に合ってた。蓮見くんは心の中にわがままボタンっていうものを飼っていて、それで好きになんでも忘れることが出来るらしいんだ。なんだかわくわくしないか?」



 その時のお兄ちゃんは今まで私が見た中で一番嬉しそうだった。わがままボタンのことを聞いたときは、変な後輩に騙されてるだけだって思ってたけど、毎日お兄ちゃんから亨くんの話を聞いてると、そんな考えもいつしかなくなった。お兄ちゃんの口から出る亨くんのイメージは、臆病で、優しくて、とても――繊細。



 一学期の時は、ほぼ毎日、放課後になると図書室で二人で話したって言ってた。それからの一学期は亨くんの話でもちきりだったよ。お兄ちゃん、昔からお父さんに医者になれってすごい重圧を受けていたの。だから、自分の好きなこと何もさせてもらえず勉強ばかりしてた。お母さんが死んじゃってしばらくしてからは、お父さん責任を感じてたみたいで、お兄ちゃんに医者になれって言わなくなって、苗字も結婚する前のものに戻した。お父さん婿入り婚だったんだけど、お母さんを死なせてしまって、お母さんの姓を名乗り続ける資格がないとか、考えてたんだろうね。



 お兄ちゃんは、お父さんになにも言われなくなっても、使命感に駆られるように毎日毎日勉強してた。だから、亨くんのことを話すときのお兄ちゃんのことがすごく好きだった。今まで見たこともないくらい楽しそうだったから。

 亨くんのお陰で、お兄ちゃんは一学期の期末試験で初めて学年二位を取った。今までは不動の一位だったんだけどね、亨くんに夢中で勉強を怠っていたの。だから夏休みは本気で勉強するって言って、一日中自分の部屋にこもって参考書とにらめっこしてた。

 そして夏休みも終わりに差し掛かった頃、うちにお兄ちゃんのお友達の五十嵐さんがやってきた。



「千鶴ちゃん、お兄さんはいる?」

「はい、部屋で勉強してると思います」



 五十嵐さんをお兄ちゃんの部屋に通して、何時間か経った頃、五十嵐さんが私のところまでやってきた。



「千鶴ちゃん、ありがとう。体には気を付けるんだよ」

「はい、ありがとうございます。またいつでもいらしてくださいね」



 五十嵐さんはなにも言わず、優しく私に微笑みかけてくれた。それが、私が五十嵐さんを見た最後だった。

 五十嵐さんがうちに来て数日後の昼過ぎ、また来客があったの。玄関には小さな女の子が立っていて、泣いてた。



「どうしたの? 迷子になったの?」

「お兄ちゃんが、お兄ちゃんが」


 その子は泣きながらずっと、お兄ちゃんが、って言ってた。


「お兄ちゃんの名前わかる?」

「明良あきら……五十嵐明良」


 その名前を聞いたとき、胸騒ぎがした。すぐにお兄ちゃんを呼んで、玄関まで来てもらった。


「お兄ちゃん、五十嵐さんが」


 お兄ちゃんは玄関に来るなり、顔が真っ青になってた。心当たりがあったの。


「五十嵐がどうした?」

「お兄ちゃん、助けて」

「お兄ちゃんの場所まで連れてってくれ」



 それからお兄ちゃんは、その子と一緒に家を出て行った。

 お兄ちゃんが帰ってきたのは夜の十時過ぎ。顔から生気が抜けて、とてもくたびれてた。



「お兄ちゃん、何があったの?」


 恐る恐る聞くと、お兄ちゃんは虚ろな表情のまま言った。


「五十嵐が、死んだ。自殺、だって」


 私は一瞬、言葉の意味が理解できなかった。だって、ついこの前うちにきて、一緒に喋ったんだもん。それに、五十嵐さんは下に三人の妹弟がいて、その子たちを残して自殺なんてするはずがないって思ってた。だけど私が見ていた現実は、ただの虚像だったの。



「この前うちに来たときの帰り際に言ったんだ。ありがとう。お前は俺みたいになるなよ、って。僕は五十嵐のことを何もわかってなかった。わかってやれなかった」



 そしたらお兄ちゃんの瞳から涙がボロボロ零れて、私たちはその場で泣きじゃくった。泣いて、泣いて、ひたすら泣いた。

 あとからわかったことがあって、五十嵐さんは幼い頃から両親に虐待を受けていたの。五十嵐さんの体から十数所のあざが見つかった。そこから両親の虐待が判明して、妹弟たちは皮肉にも、五十嵐さんの死をきっかけに施設に預けられて、平和に過ごしているんだって。辛い日々を送っていたのにもかかわらず、学校で合うときには事も無げな様子で、お兄ちゃんはまさか五十嵐さんが虐待を受けていたなんて夢にも思ってなかった。しかも、そんな状況下にありながら、五十嵐さんは最後にお兄ちゃんに会いに来てお礼と助言まで残して行った。だからお兄ちゃん言ってた。あいつが死んだのは僕のせいだ、最後に僕の所に来た時に異変に気付くべきだった、って。



 五十嵐さんの件があってから、お兄ちゃんはずっと部屋にこもるようになった。学校が始まってもそれは変わらなかった。ずっと部屋に閉じこもって、たまに台所にいって少量の食糧を見繕って、また部屋に戻る。私と話すこともなくなった。だけど、夏休みが終わって一週間くらい経った頃、急にお兄ちゃんから私に話しかけてきた。



「千鶴、放課後だけでも、図書室にいってみてくれ。蓮見くんのこと、千鶴に頼みたいんだ」



 それだけ言って、私の返事も待たずに学校に行った。そして帰ってきてまたいつも通り自分の部屋にこもって出てこなくなった。お兄ちゃんから亨くんのことを聞いて気になっていたし、席だけは置いてたから、学校に行くこと自体に問題はなかった。私は次の日から放課後だけ学校にいって、図書室の鍵を開けて亨くんを待ってた、だけど亨くんはいつまで経っても図書室に現れなくて、初めて図書室にやってきたのは、二学期の終業式の日だった。今でも覚えてる。亨くん、私を見たとき狐につままれたような顔になってた。



「あなたが、蓮見亨さんですか?」

「え、あ、はい。そうですけど。でも、なんで僕の名前を知っているんですか?」

「兄から、話はきいていましたから」

「もしかして、兄って」

「はい、いつも放課後ここでお話をしていた生徒会長、千堂涼太の妹、千堂千鶴です」



 それが私たちの出会いだったの。でも、亨くんが終業式の日まで図書室に来てくれないものだから、結局その日は特になにも話さなかった。また始業式になったら図書室で話そうってことで、その日は別れた。

 お兄ちゃんは冬休み中もずっと部屋からは出てこなかった。でも、一応受験の意思はあったみたい。たまに寝てるときにこっそり部屋に忍び込んだことがあったんだけど、机の上に参考書が開いておいてあったからね。



 そしてすぐ冬休みは明けて、始業式の終わりごろを見計らって図書室へ行った。約束通り亨くんも来てくれた。亨くん、冬休み中ずっと気になってたんだろうね、私を見てすぐ、「先輩は大丈夫なんですか?」って、今にも泣きそうな顔で言うもんだから、びっくりした。でも、やっぱり、お兄ちゃんから聞いてた通り、本当に優しい人だなって、思ったよ。



 私は亨くんに包み隠さず、お兄ちゃんのことを教えた。友達の五十嵐さんの自殺がショックで学校に行かなくなったこと、亨くんのことをいつも楽しそうに話してくれたこと、亨くんを心配して私に図書室に行くように促したこと。



 おおよそ検討がついてたみたいで、あんまり驚いてはいなかったけど、その時の亨くん、とても悲しそうで、歯痒い表情だった。

 それからは亨くんがお兄ちゃんのことを話してくれた。



「生徒会長は、僕にとっては恩人のような人なんです。今までずっと誰にも言えなかったわがままボタンのことも、先輩は優しく聞いてくれたんです。疑う事もせず、気味悪がることもなく信じてくれて、本当、すごい人なんです」

「私たち同い年なんだから、ためで大丈夫だよ。亨くんは、お兄ちゃんから聞いてた通りの人、だね」



 私たちは毎日毎日図書室で話し合った。お兄ちゃんの近況、私がなんで学校に行けてないのか、亨くんのクラスのこと、いっぱい、いっぱい話したんだよ。陽が沈んでも話し続けて、見回りの先生に見つかって怒られた日もあったよ。



 そしてお兄ちゃんの受験の日がやってきた。お兄ちゃんは部屋で勉強をしていたから、県内屈指の進学校を受けるつもりだったの。以前までのお兄ちゃんなら合格は固かったんだけど、当時のお兄ちゃんは数か月人と話すこともなく、外に出ることもなかったから、私はすごい不安だった。

私の不安は見事的中してしまった。試験中に緊張で嘔吐してしまって、結局一教科も受けることが出来ずに帰ってきた。家に帰ってきたお兄ちゃんは、家を出ていった時となんら変わりない顔をしてた。そしてまた結局また部屋にこもるだけだった。

 翌日そのことをと亨くんに話したら、お兄ちゃんに会いたいって言ってた。



「千鶴、僕を先輩と会わせて」

「でも、お兄ちゃんは部屋から出てこないし、誰とも会いたくないみたいだから」

「それでも、会わせてほしい。今度は、僕が先輩を助ける番だよ。もう、じっとしてるのは、嫌なんだ」



 真剣なまなざしの亨くんに半ば気圧されて、お兄ちゃんと亨くんを合わせることにした。もしかしたら、またあの頃のお兄ちゃんが見れるかもって、微かな期待も抱いていたんだと思う。

 そのまますぐに亨くんと一緒に私の家に帰って、お兄ちゃんの部屋の前に行った。



「お兄ちゃん、亨くんが来てくれたよ。蓮見亨くん。いつもお兄ちゃんが図書室で話してた亨くんだよ」

「先輩、久しぶりです。蓮見です」



 部屋の中から返事はなかった。



「先輩、お願いです。僕に先輩のことを聞かせてください。一人で抱え込むよりは誰かに話した方が、楽になります。これは先輩に教えてもらったことです」


 依然として、部屋の中からの反応はなかった。


「先輩、ごめんなさい。部屋の中に入ります。先輩のこと、僕に助けさせてください」



 そう言って亨くんはお兄ちゃんの部屋のドアのぶに手を掛けた。ドアは思った以上にすんなり開いた。そして、飛び込んできた光景に私たちは言葉を失った。

 お兄ちゃんは、首を吊って死んでた。

 私たちは数瞬、目の前で何が起こっているのか、飲み込むことが出来なかった。声を出すことも忘れて、目の前で宙ぶらりんになったお兄ちゃんを茫然と眺めていた。

 最初に口を開いたのは、亨くんだった。



「救急車、呼ばないと」



 とてもか細い声でそう言って、亨くんは居間にあった電話で救急車を呼んだ。救急車を呼んだらまたお兄ちゃんの部屋まで戻ってきて、お兄ちゃんを見てた。



「千鶴、僕、すべてわかったんだ。わがままボタンに書かれていた言葉の意味が」



 そういって亨くんはポケットの中から記憶帳を取り出して、二ページ目に何かを書き始めた。書き終えてすぐ、絞り出すように亨くんは言った。



「僕には、耐えられない」


 そういって亨くんはその場に崩れ落ちた。かと思ったらすぐに起き上がった。


「亨くん、大丈夫?」

「痛いな……。ここ、どこですか、あなたは誰ですか?」

「……え? 何言ってるの?」

「う、うおわぁあああ」



 亨くんはお兄ちゃんを見て、脱兎のごとく逃げて行った。立て続けに理解できないことが起きて、私は混乱していた。だけど、一つだけわかった。亨くんは、わがままボタンを使って私達兄妹のことを記憶の中から消去したんだ、って。私は悲しくて、泣いた。お兄ちゃんを失い、亨くんに忘れ去られて、悲しくてたまらなかった。私はその時、初めてわがままボタンが本当に存在していんだって、実感した。言葉では理解していつもりだったけど、やっぱり百%信じてはいなかったんだと思う。



 その後救急隊員の人たちがやってきて、処置してくれた。私も救急車に乗って病院に行った。救急車の中で横たわるお兄ちゃんを見ながら、亨くんに対して怒りが込み上げてきた。だけど、その感情はすぐに消えた。



 そして病院でお兄ちゃんの死が確認され、私は家を引っ越すことになって、亨くんとの中学生活は終わった。

 私はお兄ちゃんの言葉を思い出してた。『蓮見くんのこと、千鶴に頼みたいんだ』って。だから私は亨くんを助けるために、必死に勉強した。お兄ちゃんの部屋にあった参考書を読みまくった。学校には行けなかったから、家に引きこもってずっと勉強した。



 受験当日、私は亨くんが受ける城山高校に行った。そしたらびっくりしちゃったよ。だって、隣が亨くんだったんだもん。試験前に本を読んでたら、試験監督みたいな人に本をしまえって言われたんだけどね、私、嫌ですって言ってやった。今までの臆病な自分を払拭するための第一歩だった。亨くんも見てたから、印象に残るようにわざとやった。初めてだから、言い終わった後ちょっと震えちゃったけど、違う自分に生まれ変わったみたいで嬉しかった。



 そして隙をついて亨くんの記憶帳を盗んだ。あの時、お兄ちゃんを眺めながら、記憶帳に何を書いていたのか、亨くんはもう知ってるよね。




『人に深入りするな、深入りさせるな』



 それからまるで落ちていたものを偶然拾ったみたいな顔で記憶帳返すと、すごい怖い顔してたよね。帰り一緒に帰ろうよって誘ったけど、断られちゃった。でも、無理やりついていった。あとは、もう覚えてるよね。



 入学式は、重い荷物もって歩いてる亨くんを、車に乗せたんだけど、それも覚えてないよね。

 私がこの山道の問題を変えたのは、亨くんに皆と仲良くなってもらおうと思ってね。本当はこのルート私が提案するつもりだったんだよ。問題の内容は皆のルーツに関するものに絞った。源くんはサッカー。私は花。わがままボタンは亨くん。最後には楓ちゃん用に文学の問題用意してたんだけどね。



 亨くん、皆から一歩引いたところにいたでしょ。それに、内心見下してる節もあった。私に掛かればそんなのバレバレだよ。だから、オリエンテーリングを通して亨くんには友達の大切さを分かってほしかったの。あわよくば、私のことも思い出してほしかったけど、無理だったね。

 これが、亨くんがわがままボタンで忘れたなかで、私が知ってる全てだよ。説明したところで、思い出してはくれないよね。

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