第6話 人生で最も美しい季節を君と過ごした

 ゴールデンウイークは子供たちがクラブ活動で忙しい。親としては出番がどんどん減っていくのを感じて少しだけ寂しく感じる。


 夫がいなくなってから続いていた平穏な生活を乱されて私は深く混乱していた。平和を愛する私としては厄介ごとに巻き込まれたくない。

 気持ちを落ち着ける為に長編の歴史の本でも読もうと、図書館に行き選んでいると、後ろから「サヤ」と声をかけられた。ちょうど中央公論社の『世界の歴史』に手を伸ばしたところだった。最近のあり得ない出来事の連続から逃避しようと思ったのに…。

 誰なのかが声でわかってしまう。もう二度と会わないと決めたのだが。

纐纈こうげつさん…」と私が振り返って迷惑そうに言うと、彼は急に私の腕を痛いほど掴んで図書館を出た。

「ちょっと、離してっ」

 私は彼を振りほどこうとしたが、あまりに強い力だったので諦めた。下手に抵抗すると折れてしまいそうだ。仕事に支障が出るのは困る。

 彼は全くの無言で私を建物の外にひっぱり出した。

「どこに行くんですか」と聞いても何も言わないまま、駐車場に出た。

「乗って」と言って、私を彼の車の助手席に押し込んだ。

 私が隙を見て車から出ようとしたので「だめ」と言って私のカバンを取り上げて自分も運転席に乗り込んだ。こういうところがちゃっかりしてる…。

「返して下さい」と言うと、

「やだ」と子供のように彼は短く返答した。強引すぎる。

 彼は車を発進させ、すぐに高速道路に入った。どこかに向っているようだ。

「どこ行くの?」と聞いても返事がない。

 仕方なくぼうっとして外の風景や看板をみていると日本海方面に向かっているようだった。こんな風にぼんやり助手席で車に乗るのは久しぶりで少し嬉しい。たとえ彼の助手席であっても。


 1時間くらい車を走らせ途中の湖のそばにある景色のいいサービスエリアで車を止めた彼は、私のカバンを返してくれた。

 私は無言で車から降りてトイレに入り、このままどうにか家に帰ろうかと考えたが、トイレの出入り口で彼がニヤニヤして待っていた。

「逃げようと思ってたでしょ」と笑って言った。バレてる。彼の屈託のない笑顔で諦めがついた私は、大きくため息をついた。

「もう逃げないから、どこに行くのか教えて下さい」と聞くと、

「内緒」と言ってにっこりした。こんな強引なくせに相変わらず可愛くてイラっとする。その上彼は、

「僕をって昔みたいに呼んでくれたら教えてあげる」と甘えるように言った。

「嫌です」

 意味がわからない。なんでそんなこと私が言わなくてはいけないのか。

「冷たいな」と言って、彼は売店で購入してきた温かい飲み物をくれた。

 私は冷たい飲み物は飲まない。

 覚えててくれたんだ、と少し感動してしまい、

「ありがとう」と言うと、すきをみてチュッと音を立てて私の頬にキスした。頬が熱くなる。

「どういたしまして」と笑って言った。感動して損した気分だ。


 車の中はさっきよりちょっと空気が和らいでいた。もう私が逃げないとわかって安心したようだ。

「ね、この前の事を怒ってるんでしょ」と運転しながら彼が言う。

 鈍い彼でもさすがにわかってるんだ。

「…はい、怒ってます。でも隙があった私も悪い」

 こんな状況になるなんて、最近の私は隙だらけなのだろう。確かに自分が女だって忘れそうな生活をしていて、その上既婚者の彼らに警戒心などイチミリもなかった。なんで奥さんがいる男性が私なんかにちょっかい出す必要があるのかわからない。男性は何歳になってもハタチの女性が好きだと私は思ってる。出すならもっと若い女性にすればいいじゃないか…。

「サヤは悪くないよ、どうしてもサヤとしたかったんだ。だから僕に怒ればいい」

 そっか、彼は私に怒られたいんだ…そう思ったら怒るのが馬鹿らしくなった。

「もういい…面倒に関わりたくないや」と私が突き放すように言うと、

「そんなこと言わないでよ」と情けない声を出したので思わず笑ってしまう所だった。

「奥さんいるじゃないですか、彼女とすればいい。夫婦なんですから」

「彼女は浮気してる」と彼は何でもないことのように答えた。まるで「今日は風が少し強いね」みたいに。

「…はい?」

 そんなバカな。私の聞き間違いだと思いたい。

「妻の携帯を遠隔操作で見てるんだ。僕そういうの得意だから。あいつはもう何年も同じ男と浮気してる。でもいい、僕たちはもう子供だけでつながってる夫婦だから」

「…」

 確かに言われてみれば彼女はママ友が言う浮気している奥様の特徴に当てはまる。でも…。

「それと私は関係ないですよね」と言うと、彼は笑った。

「そうだね。僕ずっとサヤと別れた事後悔してた。サヤの弟から姉に彼氏が出来たとか結婚するとか聞いてイライラしたんだ。僕はもういいやって思って、彼女との間に子供が出来たから結婚した。丁度サヤの結婚と同じ時期だよ」と投げやりに言った。

 そうだったんだ、知らなかった…。

 弟は何も言わなかった。私に気を使ってくれたのだろう。

 弟はよく家に遊びに来る同じ大学の先輩である纐纈さんの事を、お兄さんのように慕っていた。彼に私の恋人や結婚の話をしてたってことは、死にそうなくらい落ち込んでいた私の代わりに素知らぬ顔で復讐してくれたのだろうか?考えすぎかもしれないがそう思った。

「…私には結婚は早すぎるって言ってましたよね」

「うん。綺麗でスタイルが良くて学歴がいい女性と結婚したなら、社会に認められるって勘違いしてた。なによりサヤに弟を通じてすごいいい女と結婚したって見せつけたかった。僕がバカだったんだ」

 そう言って彼は黙り込んだ。顔を見ると目に涙が溜まっている。

 私はちょっと可哀想になり、ハンカチを出して彼の目を優しく拭いた。

 昔と同じで眼鏡をかけていない。相変わらずの裸眼なんだろうか?

 そう思っていたら、彼は涙を拭く私の手首を握った。

「痛かった?」

「違う」

「何?」

「…腕、細くなったね」

「うん、もう年だし」

「サヤはずっと変わらない。美人じゃないけど可愛らしくて生き生きしてる。それを僕は見抜けなくて、周りに言われるままにサヤと別れたんだ」

「捨てたんでしょ。手を離して」

「…バカだったんだ。ごめん」

 そう言って、彼は私の手首を引っ張った。

「寂しいから僕の上に乗ってよ」

 バカか!何かあったらどうするつもりだろう?私は呆れて、

「そんなことしません」とはっきり言うと、

「なんで?」と聞き返してきた。

「なんでって…危ないよね、ここ高速道路だよ。高速でなくてもダメだし。あと、ずいぶん前に別れたから、なんで今さらだよ。そうだ、もっと若い女子社員いないの?」

「最高の女を手に入れたって浮かれていたらこれだ。サヤと一緒にいたらこんなことにならなかった」

 彼は私の意見など無視して言った。

「そんなのわかんないです」

「いや、わかる」そう言って彼は握っていた私の指をめた。

 先っぽからゆっくり舐めて優しく噛んだ。指の股を舌で強く舐められて気が遠くなってくる。

「サヤの全身をこうやって舐めたい」と言われて想像してしまう。恥ずかしくなって俯いた。

「こういうの、本当に困ります。もう家に帰して欲しい」

「大丈夫、ママさんがいるでしょ」

 彼は私の母をママさんと呼んでいたのを思い出した。

「だめ、私も母親なんだから」

「でも濡れてるでしょ」と言って、手を私の股に移動する。ジーンズの上から強く撫でられると感じてしまう。

「やめっ、ホントに止めて下さい」

 声が色っぽくなってきた、と彼は言って、インターで降りた。いつの間にか日本海まで来ていた。

 


 見覚えのある海岸の側に車を止めて砂浜を歩く。海水浴のシーズンではないので人は少ない。

「ここ、二人で来たの覚えてる?」

 彼は私の手を握って言った。

「…うん。初めての遠出だったね」

 もちろん覚えていた。

 まだ付き合っているのかどうかわからない感じで、一緒にいられて嬉しくて、でも自分がずいぶん年上だと思って少し恥ずかしく感じていた。

「サヤが海を見たいって言ったから、5月の海に来たよね。僕がハタチでサヤが23歳だっけ。丁度今くらいの季節」

「うん。少し寒かった…」

「どうしたの、元気ないね」

「だって…」

 私は泣きたい。

 なんで最近急にこんなことになっているのか訳がわからない。

「ごめんね」と彼は申し訳なさそうに言ったが、

「でも好きだ。サヤがどうしても欲しい」と言って私を強く抱きしめた。そして、

「なんで連絡くれないの」と恨めしい声を出した。

「…」

 あんなことされた後にそんなこと出来るわけない。もう二度と会いたくないって言おうとしたら、

「連絡くれないなら前みたいに家に押しかける」と彼は本気で言ったので

「そ、それは困ります」と私は焦って答えた。困った。子供にこの関係がバレたらと思うと死んでしまいたい。

「じゃ、電話番号教えて」と彼が上目遣いで可愛く言った。もう40に近いくせに。

「…メールなら」と思わず言ってしまった。

 彼は嬉しそうに「ありがと」と言った。なんだか彼の真剣な雰囲気に負けた。

 ダメだな、私はこの人に弱い。

 彼は手を優しく引っ張って砂浜に腰を降ろさせ、私の頬を触った。

「あれからずっとサヤのこと、考えてた。本物に触りたかったから、嬉しい」と言って、優しく触れるだけのキスした。

「ここでサヤと生まれて初めてのキスした。覚えてる?」

「…うん」

 私の人生で一番素敵なキスだったから、もちろん覚えている。

 彼はキスした後『これでもう僕達付き合ってるんだよね』って恥ずかしそうに言ったのだ。本当に本当に可愛かった。そして嬉しかった。

「会えない間、サヤと頭の中で色々したよ。でも本物がいい」と彼は私の顔を形を確かめるように触って言った。

 色々したんだ。本当にするのも困るけど、想像されるのもなんだか困る。

 そう思っていたら「困るんだね」と言って、私の手を握った。

「今夜だけ、一緒にいて。お願い」

「え…?泊まるってこと?」

 それはさすがに…私が断ろうとするとそれを遮るように、

「勝手にごめん。一晩だけ、サヤを僕のものにしたい。もう迷惑かけないから」と真剣に私の目を見て言った。強い意志を感じる。断れない自分が彼の目に映った。

「迷惑って…」と思わず笑って誤魔化した。彼は私が断れないのをわかっている。

「やっと笑った。嬉しいな」

 彼は私を砂浜に押し倒す。

 押し付けるように強くキスされると砂浜にめり込みそうだ。唇を離して、

「旦那さんいないって聞いたけど」と遠慮がちに彼は聞く。きっとアイちゃんから伝わったのだろう。なるべくあっさりと聞こえるように私は言った。

「うん、2年前からどっかに行ったの。でも戻ってくる。彼の居場所を失くすわけにはいかない」

「旦那さんが帰ってこられないようにはしないよ。ただ悔しい。本当ならサヤにそんなに大事にしてもらえる旦那さんは僕だったはずなのに。…彼がねたましいよ」

「大事って、バカね、大袈裟。普通です」

「だって待ってるんだろ?」

「そうですけど。何か問題でも?」

 最近よく聞かれる。誰にも迷惑をかけてないのだからいいじゃないか。

「他の男は考えない?」

「考えない、だって結婚してます」

「バカだな、放っておかれてるのに。いや、バカなのは僕か。君を捨てたんだから」と言って、彼は私にしがみついた。まるで漂流した人が必死に流木につかまるように。

 私はおずおずと記憶より大分薄くなった彼の髪を撫でる。若い時もずっと薄くならないよう気にしてたっけ。

「この前会った時と少し違うね。何かあったの?」と思わず優しく聞いてしまった。なんだかあまりに可哀想だ。彼は何か言いたそうにしてから、口をつぐんだ。

 私は自分の事ばかり考えて彼を拒否していたけど、彼の人生に少しは責任があるのかもしれない。


 4年も付き合って結婚も考えていたのだから。

 彼の最も美しい季節に一緒にいられたのだから。

 たとえ捨てられて立ち直れないくらいの大打撃を受けた過去があってもだ。


 私は腹をくくって彼に対峙たいじしようと決めた。

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