再起の契約

 七月三十日。

 昼過ぎに退院した僕は、そのままの足で学校へと向かった。

 校庭には部活動の生徒の姿が疎らに見える。今日は月曜日だが、既に夏休みに突入しているので、生徒の数は少ない。校舎の中で明かりが灯っているのは、部活動が入っている教室と職員室、そして僕たちの教室ぐらいのものだ。

 明かりの灯った教室へと焦点を定める。秀一か詩織、もしくは二人とも既にそこにいるのだろう。覚悟を決めて、一息に教室へと向かう。

 扉を開けると、机に座って向かい合う二人の姿があった。開かれた扉の音に二人の視線がこちらに集まる。


「あ」


 そう声を漏らしたのは詩織だった。

 続けて、少し気まずそうに笑いながら「よう」と秀一が手を挙げた。

 いつもの二人の姿に僕は少し緊張していた。この世界の二人と顔を合わせるのは、秀一が創った世界にいた期間と入院していた期間を合わせると約二週間ぶりだ。

 どう切り出そうかと言葉を探していると、二人は立ち上がり、僕の前で勢いよく頭を下げてきた。


「ごめんなさい」

「悪かった」


 突然下げられた二つの頭に僕は困惑する。自分でも気づかないうちに間の抜けた声が漏れていた。

 状況を掴めない僕に向かって、詩織は口を開いた。


「私たち、ヒロにちゃんと謝ろうと思ってたの。ちーちゃんの家に行った日から私たちは三人でちーちゃんを助けようって約束してた。なのに私も秀一も勝手に過去日記を使って、自分のために過去を書き換えた。そのせいで、ちーちゃんを助けるために動き始めるのが、こんなに遅くなっちゃったから」

「許してほしい、なんて都合のいいことは言えねぇけど、せめて俺に桜木を助ける手伝いをさせてほしい。それがお前からの信頼を利用して、俺自身のために過去日記を使った唯一の贖罪だと思ってる」


 いつも冗談めかして余裕を持つ秀一も、その言葉にはかつてないほど真剣さが宿っている。

 二人は、過去日記を使ったことへの謝罪をしているのだ。

 僕はもうそのことには決着はついたと思っていたが、きっと二人はきちんとけじめをつけないといけないと思ったのだろう。

 二人の真剣な態度に、自然、僕の肩にも力が入る。


「顔を上げてほしい、詩織も、秀一も」

「でも」

「わかってるんだ。二人に悪気がなかったこと。詩織は千鶴のために、秀一は母親のために過去日記を使った」


 二人が求めているものは、きっと罪に対する罰なのだ。自分の行いに対する代償。

 ならば僕が二人に言えることは一つだけだ。


「僕は詩織のことも、秀一のことも恨んでなんかないよ。僕にとって千鶴は特別な存在だけど、それは詩織も、秀一も同じなんだ。二人がいなかったら今の僕はここにはいない。僕は二人に数え切れないぐらい感謝してるんだ。それでも、二人が僕に許してほしいって望むなら、どうか僕に協力してほしい。千鶴を助けるために」


 それは僕の偽らざる本心だ。

 確かに二人が過去日記を使ったことで、千鶴の事件から三週間、僕は何も動くことができなかった。それで焦りを覚えなかったかといえば、嘘である。

 だけど、どうしても詩織と秀一を恨むことはできなかった。それは僕が、これまで数え切れないぐらい二人に助けられてきたから。それが今度は、僕が助ける番だったというだけだ。だから、恨みなんかこれっぽっちもない。

 僕は手のひらを二人の前に差しだす。

 二人は一瞬だけ顔を合わせ、そして僕の手のひらに二人分の手のひらが重なった。


「信頼してほしい、っていうのも烏滸がましいが、信じてほしい。俺は全力で桜木を助けることに協力する」

「私も、今度こそちーちゃんを助けたい。三人みんなで」


 みんなで。

 何気ない言葉だったが、それはとても重い言葉だ。

 僕たちは、三人ともこれまで自分のために過去日記を使ってきた。同じ方向を目指して歩いているようで、実際は背中合わせで歩いていたのだ。

 だけど、ようやく今このとき、三人の向いている方向が一致した気がした。

 ここがスタートなんだ。

 そう思うと勇気が湧いてくる。

 改めて千鶴を助けることを決意した僕たち。手のひらに重なる力が強くなる。

 そうして僕たちは、久しぶりに心の底からの笑顔を見せ合った。


「じゃあ、早速作戦会議をしようか」

「その前にヒロ、体はもう大丈夫なの? おばさんが四十度以上熱があったって」

「大丈夫だよ。もう熱も引いたし。ただ少し右手首が疼くぐらいで」

「右手首?」

「うん。何だか熱が出ているときからなんだけど、妙に右手首のあたりが疼くんだ。そこを中心にドクドクするような。先生は何も異常はないって言ってたんだけどね」

「……右手首って言えば、ヒロが俺に銃弾を撃ち込まれた場所じゃないのか?」

「あぁ、そういえばそうだね」


 秀一の言葉に右手首へと視線を落とす。

 言われてみて、思い出した。あの銃弾で撃ち込まれたのが、ちょうど疼きがひどいの箇所と一致する。

 秀一は僕の右手首を見ながら顎に手を当てた。


「もしかしたら、それが原因かもな」

「どういうこと?」

「聞いたことないか。骨折したり、傷を受けたりすると、周辺の細胞が傷ついて内出血を起こすんだ。損傷した細胞は血液中に流れ込み、炎症を起こす。それが原因で高熱が出ることもある、って」

「でも、ヒロが秀一に撃たれたのは別の世界の話でしょ?」


 詩織が呈した疑問に僕も同じ思いだった。

 僕の右手首には傷一つない。銃弾を受けたのはあくまで秀一が創った世界にいた僕で、今ここにいる僕ではないのだ。だから秀一の語った理論は矛盾する。


「あぁ。確かにここにいるお前は銃弾を受けていない。だけど、銃弾を撃ち込まれたという記憶があるはずだ」

「ごめん。いまいち要領が掴めないんだけど。物理的に僕は銃弾を受けてないんだから、それが原因で熱が出るのはおかしくない?」

「おかしくはないさ。人間の精神と肉体は相互に干渉しあっている。精神に不調をきたせば、肉体にも不調をきたす。肉体に不調をきたせば、精神にも不調をきたす。だからヒロが銃弾を受けた誤解、っていうのも変だが、とにかくその記憶が肉体に影響したのかもな」


 秀一の説明はある程度理解できた。

 確かに、心がふさぎこんでいると体まで重くなってくることは多々ある。また、逆に体が傷ついているために、心が暗くなることもあった。だが、それはあくまで気がする程度の話で、ここまで明確に症状としてあらわれるものなのかは疑問だ。

 それを察したのか、秀一はボソリと「あるいは別の世界のお前と肉体の状態がリンクしているとか」とつぶやいた。

 どういうこと、と疑問を挟む前に、秀一が手をぱちんと鳴らした。


「ま、この話はここまでにしておこう。どうせ確かめようもないしな」


 最後の言葉に胸に引っかかるものを覚えたが、秀一のいうことももっともだ。今は確かめようのないことよりも、現実のわかっていることを整理する方が重要だ。

 頭を切り替えて、事件について整理する。


「じゃあ、まずは情報を整理しようか。もし間違っているところがあったら教えてほしい」


 僕は二人に現在判明している情報を伝えた。

 事件が発生したのは、七月七日土曜日の深夜零時頃から三時頃。場所は学校から十分ほどの閑静な住宅街の中だ。近隣の住民の通報によって事件は発覚。死因は刃物による裂傷で、遺体には数十カ所にも及ぶ刺し傷が見られた。近所の住民によると、不審な人物が事件発生頃に現場から走り去っていったらしい。警察は通り魔の線で捜査を進めている。

 これが僕たちが集めた資料から判明している事実だ。

 二人は認識を確かめるように頷くと、秀一が詩織に視線を向けた。


「そこまでは、報道で伝えられている事実だな。だけど、事件発生前、桜木は一人の人物と会っていた。そうだよな、詩織?」

「うん。あの日、私とちーちゃんは事件現場の近くの喫茶店で会ってた。七月七日の正午頃だったかな。ちーちゃんからメールが来たの。『大事な話があるから八時にここに来て』って。それで私は八時から九時ごろまでちーちゃんと喫茶店で話をしたの。そのあとは私が先に帰って、ちーちゃんは喫茶店に残った」


 喫茶店で話をした二人は別々に帰った。その後、事件は発生したはずだ。


「そのことは誰かに話したか?」

「ヒロにこのことをはじめて話した後に、通信記録から警察が私のところに来たから話したよ。でも、それ以外は誰にも話してない」


 僕がはじめてこのことを聞いた後ということは、文化祭の直後ぐらいだろうか。警察もやはり千鶴の通信記録などは調査しているようだ。


「なら、千鶴が事件の日にこの街に来ることをあらかじめ知っていたのは二人。詩織、そして」

「水野亜紀、だな」


 僕の言葉を秀一が引き継ぐ。

 水野亜紀、千鶴と同じグループ所属のアイドルだ。彼女は一度、僕たちの前に姿をあらわしたときに、事件前に千鶴から『大切な人に会いに行く』という言葉を聞いたと言っていた。

 つまり、千鶴が東京からこちらに帰ってくることを事件前に知っていたのはこの二人だ。

 秀一はその顔を思い出すように言った。


「俺も最初は水野が怪しいと思った。なんせ桜木がこっちに帰ってくることを知っているのは詩織と水野の二人だけだからな。だけど、奇しくも過去日記によってそれは否定された」


 一度、言葉を切る。考えを的確に伝えるために、一呼吸置いたのだろう。


「これまで過去日記が使用されたのは三回。わかりやすく、ひろが最初に使ったときにできた世界をα世界、詩織が創った世界をβ世界、俺が創った世界をγ世界としようか。この中でさっきの話と関係あるのは」


 僕がはじめて過去日記で創った世界をα世界。

 詩織が過去日記で創った世界をβ世界。

 秀一が過去日記で創った世界をγ世界。

 うん、これで少し考えやすくなりそうだ。


「β世界だね。私は、あの日私がちーちゃんと現場近くの喫茶店で話をしたせいで、ちーちゃんは運悪く通り魔に襲われたと思った。だから、ちーちゃんがそこに来ないようにするために過去日記を使った」


 その先の出来事は、僕の記憶の中に鮮明に残っている。

 詩織が書き換えた通りにβ世界では僕と秀一、そして千鶴の三人と詩織は友達ではなくなっていた。

 だけど千鶴は同じ日、同じ時間、同じ場所で事件に遭っている。

 この事実からわかることは、千鶴が事件当日に詩織と会うために喫茶店に行こうが行くまいが、それに関わらず事件に遭っていたということだ。

 つまり。


「詩織との喫茶店での約束はこの事件に直接関係はない。だから、水野がそれを知っていようが知っていまいが関係ないんだ」


 今回の事件と千鶴と詩織が喫茶店で会っていたことに関係はない。

 つまり、水野亜紀は潔白なのだ。


「だったらやっぱり犯人は通り魔で、たまたま深夜に一人でいたちーちゃんを襲ったってこと?」

「その可能性も否定できない。だが、桜木がたまたまこっちに帰ってきたときに、たまたま深夜に通り魔と出くわした、っていうのは都合が良すぎる気がする」

「僕も秀一の意見に同じ。これは僕の主治医の白鳥先生から聞いたことだけど、通り魔は人通りが多いところや不特定多数の人間を狙うケースが多いらしい」

「そうだ。桜木の体には何十カ所も刺し傷があった。俺たちは実際にその写真も目にしている。ただ通りかかっただけの相手にそこまでの殺意を抱くのは不自然だ。つまり、犯人は桜木に強い恨みを持っていた可能性が高い」


 千鶴に強い恨みを持っていた人物。千鶴はクラスの中でも人気者で、誰に対しても明るく接していた。僕の知る限りの中で、千鶴を刺し殺すほど憎む人物はいない。

 となれば、千鶴がアイドルになってからの交友関係が怪しい。だけど、それを知る方法がない。どうすれば……。

 頭の中の考えを独りごちていた。自分の知っている中で怪しい人物がいないのならお手上げだ。知らない人物のことはどうしようもない。

 壁にぶつかって唸っている僕と詩織の様子を見て、秀一はあっけらかんと言った。


「そんなの、知ってる奴に聞けばいいだろ」

「知ってる奴って、そんな簡単に見つかるわけ」


 続く言葉を遮るように秀一は僕と詩織に向かってスマホの画面を突きつけてきた。それはメッセージアプリの友達一覧画面だ。そこには、ライブ会場のステージに立つ女性のアイコンの下に『水野亜紀』という名前が表示されていた。

 僕たちは目を丸くして、画面に釘付けになった。


「秀一、いつの間にアイドルとアカウントの交換なんてしたの? 秀一ってアイドルファンだっけ?」

「ちげぇよ。詩織はいなかったから無理もないが、水野が一度学校に来たときにこんなこともあろうかと連絡先を聞いておいたんだよ。ヒロもその場にいたから覚えてるだろ?」

「いや、僕は覚えてないけど」


 水野亜紀は事件の翌日、同じアイドルグループの友人として、千鶴の家へと顔を出していた。僕たちが彼女と会ったのはその翌日だ。確か僕たちが職員室へ呼び出された後にその廊下で水野亜紀と話をした。その最中に僕は過去日記でβ世界へと飛ばされたのだ。その影響か、どうもこのあたりの記憶が曖昧だ。


「とにかく桜木に恨みを持って奴がいるならあいつがアイドルになってからのこの一年間の交友関係が怪しい。なら、直接桜木と仲の良かった水野に話を聞くのが早いだろ。話はもうつけてある。明日の正午、近くのカフェで会うことになってる」

「もう約束してるの!?」


 僕と詩織はその行動の早さに驚きをあらわしたが、秀一はこともなげに「早い方がいいだろ」と言い放った。味方になった秀一は、やはり誰よりも心強い。


「そういうわけだから、明日は正午に集合な。これで犯人の目星がつけばいいんだが」


 水野から直接話を聞けるのはありがたい。恨みを持った人間がいるかもそうだが、事件前に千鶴の行動に不審な点がなかったかも気になる。何か手がかりが見つけられるはずだ、と信じたい。


「じゃあ、明日はカフェに集合で決まりだね。あと、私たちが今日できることは……もう一回現場検証、とか?」

「現場検証って、もう立入禁止は解除されたの?」


 事件から現場には警察の規制が入っていたはずだ。当たり前の疑問を呈すると、二人はきょとんとした顔で僕を見つめた。


「何言ってんだ、お前。立入禁止は一週間前以上に解除されて、三人で一回見に行った……。って、そうか。二週間前はγ世界にいたのか」

「ヒロ、覚えてないの?」


 勝手に納得する秀一と疑問を呈す詩織。

 二人の言葉でおおよその状況は把握した。つまり、現場の規制は既に解除されていて、この世界の僕は一度現場に足を踏み入れたらしい。そのとき僕はγ世界にいたためにその記憶を持ち合わせてはいない。

 だけど、そうか。

 立入禁止が解除されたのなら一度現場を見ておいた方が良さそうだ。

 二人にこの後現場検証についてきてほしいと言ったところ、快く頷いてくれた。

 状況の共有と次の行動が定まったところで、僕たちは荷物をまとめていた。

 僕はカバンに過去日記をしまい込むところで、一つ気になっていた疑問を口にした。


「そういえばγ世界でどうして千鶴は生きていたんだろう」


 僕はγ世界で刺されたはずの千鶴と会っていた。

 あのときはアリスを救うために一刻を争う状況だったため、思考がそこまで回っていなかった。だけど、冷静に考えればγ世界で千鶴は事件に遭っていない、ということだ。

 これは何か重大な手がかりになるのでは、と心に思っていたのだ。


「俺もそれは考えたが、多分参考にはならないぞ」

「というと?」

「γ世界では、事件前にこの街にミサイルが撃ち込まれたんだろう? そんなメチャクチャな世界の中で通り魔がこの世界と同じように行動するとは考えにくい。もしかしたらミサイルで死んだかもしれないしな。もしくは、そもそも交通規制で桜木がこっちに帰ってこれなかったとか。何れにしても、この世界とは乖離が激しすぎてアテにならないな」

「そうか、じゃあわかることはないね」

「いいや、そんなことないさ。もっと重要なことがわかる」


 落ち込む僕に秀一はニッと笑った。


「重要なことって?」

「過去日記を上手く使えば桜木を事件から助けられる、ってことだ」


 教室の扉を開けた秀一は光を浴びて、まるで後光の指す神のようだった。

 そういえば、秀一は向こうの世界で神の子なんて呼ばれてたっけ。僕にとっては、普段の秀一の方がよっぽど”神の子”だな、と笑ってしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る