96 №7『史記』に登場する人物<衛将軍(衛青)と驃騎将軍(霍去病)>



  韓安国・李広と、不運続きの将軍の話が続きましたが、今回は将軍として巧く立ち回り、武帝のお気に入りとまでなったを衛将軍(衛青)と驃騎ひょうき将軍(霍去病かくきょへい)を紹介します。


 衛将軍とか驃騎将軍とかは個人名ではなく、地位を表しているようですね。ややこしいです。


 衛青の姉の子どもが驃騎将軍の霍去病となるので、この2人は伯父と甥の関係で権勢を振るいました。


 しかし、驃騎将軍は24歳で亡くなり、その後、しばらく武帝は熾烈を極めた匈奴との戦いを中止します。しかしこれは驃騎将軍のあとを継ぐ将軍がいなかったというより、戦馬の不足とかほかの原因がいろいろとあったようです。


 ところで、武帝はそのおくりなに武がついているほどに戦いを好み領土を拡大した皇帝ですが、始皇帝のように「中華統一!」までとは考えなかったようです。


 先生が始皇帝と武帝の違いを説明してくださったのですが、いまいち聞き取れなくて、理解できませんでした。それにしても中華に興った王朝は数あれど、秦のように中華統一をとなえた国はなく……。


 500年をかけて中華統一を目指した秦が、始皇帝の死後たった15年で滅びてしまった事実を見ると、その後の皇帝たちは領土の拡大は望んでも、統一までは望まなくなったということでしょうか。




 話を2人の将軍に戻します。


 ある人が衛将軍に「あなたも優秀な人材を集めて、武帝の助けとなるように努力されるといいでしょう」と言うと、衛将軍は「以前にそのようなことをして、皇帝の不興をかったものがいたので、私はしない」と答えたとか。甥の驃騎将軍も極力、皇帝の不興をかうことを怖れたようです。


 そういう態度が、武帝に媚びているようで、司馬遷はこの2人がお嫌いだったようです。(笑)


 驃騎将軍の勇猛果敢な戦いぶりは一応褒めてはいますが、「彼は部下を慈しむ心がなく、食料が腐るほどにあまってもそれを兵士に分け与えることを惜しんだ」とか、「兵士たちが飢えと病に苦しんでいても、彼は戦地で蹴鞠けまりを楽しんだ」とか、書き残しています。


 それはひいては武帝の人材登用の批判ともなるものなので、司馬遷はよくそこまで書いたなあと思わざるをえません。


 ところで将軍職なんてそんな神経の疲れる仕事をしなくてもと現代人の私は思ってしまうのですが。


 将軍として戦いに勝って得られる栄誉と報奨金は、自分個人どころか親族そして末代まで潤すほどの莫大なものです。戦いの意味と意義も、現代とはまったく違うものなのでしょう。


 今回の衛将軍(衛青)と驃騎将軍(霍去病)も代々の名家出身ではなく、衛青の姉の衛子夫が踊り子として武帝に見染められたところから、2人の栄誉栄達が始まりました。この姉の衛子夫は、紆余曲折ののち武帝の皇后となります。驚きです。




 次回は、最大の追従者(おべっかつかい)である公孫弘について書きます。


 絶対無二の武帝に巧く仕え、80歳で宰相の地位に就いたままで亡くなります。この公孫弘や衛将軍や驃騎将軍の追従者を傍らに置きながら、武帝は後々の人に前漢最高の皇帝と称えられ功績を残すのですが、そこら辺りの関係にも触れたいと思っています。


『史記』は読みようによっては、よい処世訓であり教訓の宝庫です。


 それを説教臭くなく、実在の人物の言動を端的に描くことによって読む者に知らしめる……。ほんとうに司馬遷の物書きとしての手腕は素晴らしい!

 


 

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