59 あさのあつこの『弥勒シリーズ』が大好きだ ≪3≫



 あさのあつこさんの<弥勒シリーズ>第9巻『鬼を待つ』を読み終えて、久しぶりに出会えた二人のいい男、同心の小暮信次郎と小間物屋の遠野屋・清之介を堪能した興奮を引きずったまま、「そうだ、この二人が出会ったシーンを読み返そう!」と思い、<弥勒シリーズ>1巻『弥勒の月』の冒頭を読み返した。



 弥勒菩薩にまで例えた愛する若妻の遺骸を前に、お調べのやり直しを願って土間に手をつき頭を下げる清之介と、彼の一分の隙も見せないその仕草に背後で刀の鯉口を切る同心の小暮信次郎。


 二人の過去とこれからの起きるであろうことが暗示されていて、何度、読み返しても、ぞくぞくとする圧巻なシーンだ。




 私は純文学を長く書いていたのだが、純文学では情景描写と心理描写と文章力が大切にされて、かっこいいキャラ立ちで読者を酔わせるということは求められなかった。


 それをあまりやりすぎると、「これはエンタメ小説だ」と、同人誌の主催者からお叱りを受けたものだ。


 だから、人物造形の巧みさで、読者を酔わせるあさのあつこさんの『弥勒の月』に、衝撃を受けた。


 そして、カクヨムで人生初のエンタメ小説を書くのであれば、「あさのあつこさんを真似て、わたしも、キャラ立ちで読者を酔わせたい。いや、読者を酔わせるなんておこがましい。せめて、書いている自分だけでも酔いたい」と思った。




 ……ということで、白麗シリーズに登場する人物たちは、女は自分が生まれ変わったらこういうふうに生きたい、こういうふうになりたいという女ばかりだ。


 そして男については、「こういう男が自分は大好き、あわよくば抱かれてみたい!」ということを前面に押し出して書いてみた。

 恥ずかしい話でもあるけれど、自分の欲望や性癖が赤裸々にでているのではないか。




 でも、3年も書き続けられたのは、その自分のひそかな楽しみのせいのように思える。


 もしこれが、「こういう人物造形だったら、きっと、読者が喜ぶだろう」という動機と計算で書いていたら、ここまで書き続けられなかったと思う。


 ただこの書き方の欠点としては、登場人物たちが似通ってしまったと思えることだ。皆、ちょっと<いい人>になり過ぎたきらいがある。


 もし白麗シリーズの③を書くとすれば、心底唾棄したくなるような悪人を書いてみたい。




 最後になったけれど、『弥勒の月』の巻末に児玉清さんの書評が掲載されている。


『弥勒の月』の小説の魅力を語り尽くしていて、そしてそれは「エンタメ小説の魅力とは?」との答えともなっているので、ぜひ、読んでみられることをおすすめする。








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