238 沈明宥、死す・その7



 暖かい綿入れを着込んだ沈明宥と孫の如賢は、女たちの嬌声きょうせいを聞きながら屋敷を出て、用意してあった馬車に乗り込んだ。

 

 あえて女たちには何も告げることなく、彼ら二人を乗せた馬車は静かに屋敷を離れた。


 美しい着物を前に、賑やかに楽しんでいる女たちの邪魔をしたくはない。

 そしてまた、「袁開元のさらされた首を見に行く」と言えば、最近の明宥の心の臓の不調を知っている女たちは引き止めようと大騒ぎすることだろう。




 軽やかな蹄の音を響かせて、馬車は安陽の大通りをゆっくりと進む。


 馬車の小さな窓には垂れ幕がかかっていて、その向こうからは平穏な庶民の生活が営まれている音が聞こえてくる。

 明宥は垂れ幕を引き上げて久しぶりに安陽の街並みを見たいと思ったが、外は寒いとばかりに如賢に睨まれて諦めた。


 この孫を膝の上に乗せてあやしてやったのは、ほんの少し前のことのように思えるのにと、明宥は思った。

 しかしいま逆らえば、馬車を引き返すと言い出しかねない。


「やれやれ、うちの孫も嫁を迎えて子も生すと、偉そうになったものよ」


 大仰に肩をすくめて明宥は言った。

 すると突然、馬車の揺れに身を任せていた如賢がえらくまじめな口ぶりで呟いた。


「爺さま、人の栄華というものも、終わる時は一瞬だなあ……」


「おお、如賢。

 もしかしておまえは袁開元の処刑を見たのか?」


「いや、見たというより聞いたというべきかなあ」


「聞いた?」


「ああ、ものすごい野次馬の数だった。

 それで、おれの立っているところからでは、人の黒い頭しか見えなかったんだ。

 前のほうの奴らの上げる『うおっ!』とか『あっ!』という声で、何が起きているか、想像するしかなかった。


 袁開元が首切り台に引き出された時、まるで水から引き揚げられた仔犬のようにぶるぶると震えていたとか。

 着物の前が濡れているのは、小便を漏らしたからだとか。

 全部、前の奴らが教えてくれた」


「おお、そうか。

 袁開元の最期はそのように無様であったか。

 なんと小気味よい話ではないか。

 もっと聞かせてくれ」


 だが、如賢は祖父の催促に答えることなく、独り言のように声を潜めた。


「だがな、爺さま。

 野次馬たちが声を上げていたのも、初めのうちだった。

 袁家のおもだった男たちの処刑が終わって、その後、女や子どもになるとさすがに声を上げるものがいなくなった。


 確かに袁家の施政は酷かった。

 やつらのために、財産どころか命を奪われたものが数多くいることくらい、おれだって知っている。

 しかし、女や子どもにまで罪があるかどうか。


 そう考え始めると、目の前で起きていることがあまりにもむごく思えて、おれはそこで見物を止めたんだが……」


 如賢の言葉の一つ一つが旋風の中で渦巻く石礫いしつぶてとなって、明宥の頭の中で吹き荒れ彼の心を打ち破りえぐった。

 心というものに血が流れていたら、きっと傷口より噴き出したことだろう。


 ――六十年前のあの日、十歳のおれは最後まで見た。


 袁家の讒言ざんげんによって、初めに父上が処刑された。

 そしてそのあと、兄と伯父や叔父や従兄弟たちが続き、それから母上と姉たちと……。助かったのは、逃げることが出来た十歳のおれと、承家に引き取られたまだ幼かった妹の冬花のみ――


 あの時、袁家の血に連なるもの、たとえそれが生まれたばかりの赤ん坊であっても、我が父と母の血が流れたこの同じ場所の石畳に、必ずやその血を吸わせてやると誓ったのだ。








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