236 沈明宥、死す・その5



 沈明宥の妻はすでに亡くなっているので、座敷に集まり座っているのは〈健草店〉の主人・明賢の妻である大奥さまと、その子と孫たちの妻たちだ。


 手広い商いを繰り広げながらも、〈健草店〉は贅沢な暮らしぶりで世間に目立つことを嫌ってきた。商いを始めた時からの、沈明宥の頑なこだわりでもある。


 それは女たちの暮らしぶりにも表れていた。

 小さな店構えと、極力抑えた使用人の数。

 そのために妻たちもまた、家の中や店でそれぞれに与えられた仕事をこなす身ではあるが、数日前より楽しみしていた今日のこの時だけは特別だ。




 固唾を飲んで見守る女たちの前に、もったいぶった能書きを垂れながら、呉服商の主人が仕立てあがったばかりの着物を次々と広げていく。


 もうすぐ迎える新しい年のために、大奥さまと呉服商が見立てた着物だ。

 どの着物が誰に下されるのかは大奥さまの胸の中のことではあるけれども、目の前の着物の美しさに、女たちの口から洩れる感嘆と喜びの声に変わりはない。


 そしてそのたびに、一足早い目の正月を味わおうと、廊下に並ぶ使用人の女たちの首がますます伸びて、庭を行き交う下働きの女たちの足が止まる。

 このあと彼女たちにも、お仕着せではあるが新しい着物が一枚ずつ下される。


 しかしそのように華やいだ場所にいて、昨年、沈家に嫁いできた梨佳だけが落ち着かないでいる。

 その言葉の意味までは聞き取れなくても、隠居部屋の男たちの声は風に乗って座敷まで聞こえて来た。

 その中に夫の如賢らしき声が混じると、梨佳が慌てて腰を浮かす。


「梨佳さん、あなたが気にすることはありませんよ。

 男というものは、幾つになっても、天下国家の話を大声で論じるのが好きなのです。放っておきなさい」


 大奥さまが笑いながら落ち着きのない梨佳をたしなめる。


 大奥さまの膝の上には桃秀が抱かれていた。

 わかっているのか、わかってはいないのか。

 広げられた美しい着物を見て、紅葉のような小さな手を打ち合わせて喜んでいる。

 這うことを覚えたその小さな足は日を増すごとに丈夫になり、可愛い声で何やらわからぬことも言うようになった。


 男ばかりの沈家に初めて誕生した女の子だ。

 明宥の曾孫の可愛がりようも大変なものだが、可愛らしい女の孫に、大奥さまも目尻が下がっている。


「はい、大奥さま。

 申し訳ございませんでした」


 梨佳が答えて座り直すと、それを待っていたように呉服商の主人が言った。

 彼の耳にも隠居部屋の男たちの言い合う声は聞こえていた。


「男とは、血生臭いことが好きな困った生き物にございます。

 ここにおられる皆さまのように、美しい着物を愛でることを楽しみとしておれば、この世に戦いなど起きることもございますまいに。

 それにしても、このたびの承将軍さまと袁宰相の戦い、あっけなく半日で終わってほんとうにようございました」


「そうそう、そのことですよ。

 安陽が火の海になるのかと、一時は、わたしも心配しましたが……」


 大奥さまが答え、集まっている女たちの眉がいっせいにひそめめられた。

 呉服商の男が続けて言う。


「戦いからたった十日で、袁家に連なるものたちの処罰も済み、残党狩りもほぼ終わったそうですよ。

 いまでは、街のあちこちに立つ、警備の兵士の姿が目につくだけにございます。

 我々庶民の暮らしに変わりはありません。

 すべては承将軍さまのあざやかな采配のおかげだと、安陽の街のもの皆、将軍さまを褒めたたえております」







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