231 竹林屋敷、未明の空を焦がす・その10
弦星の肩に置いていた手を戻すと、亜月は縁の端まで歩いていき茜色に染まりつつある東の稜線を見やった。
「夜が明けようとしている……」
そう言った彼女の立ち姿は、過ぎ去った竹林屋敷での日々を思い出しているようでもあり、後ろから斬られることを覚悟しているようでもある。
英卓もまた亜月の横に並んで立った。
二人して、夜の明けようとしている空を見あげる。
「逃げるか?」
ぼそりと英卓が呟いた。
「えっ?」
英卓の言葉に亜月も驚いたが、後ろで控えている堂鉄と徐平も身じろいだ。
英卓が重ねて言う。
「逃げてみるか。
いや、逃げおおせてみろ、亜月。
おまえの企てた襲撃で、荘新家のものは、幾人かその命を落とした。
しかし、おれたちもまた、袁開元の兵士たちの命をそれ以上に奪っている。
仇は十分に討った。
麗もこれ以上の殺生は望んでいないだろう」
「わたしたちを逃がしてくれると言うのか?」
「そうだ、亜月。
生まれ持った天命に、どこまで泥人形は逆らえるのか。
あの生意気なガキに見せつけてやるのも、面白いではないか」
そして、振り返ると彼は言葉を続けた。
「堂鉄、徐平。
亜月たちが馬車に乗り込むのを手伝ってやれ。
安陽の街が明るくなる前に、安陽の街を脱出するのが賢明だ。
馬車が竹林を抜けたら、おれたちも屋敷に火を放ち、この場を離れる」
「承知!」
「承知!」
堂鉄と徐平が答えてすばやく動く。
「英卓ちゃん、ありがとう」
感極まった峰貴文が英卓に抱きつく。
英卓はその体を邪険に押し戻す。
「やめてくれ、おれは男に抱きつかれて嬉しい性質ではない。
そして、勘違いしていけない。
屋敷に火を放った亜月たちは、その中に飛び込んで自らの命を絶ったのだ。
おれたちはそれを止める間もなかった……。
峰さん、亜月との別れを惜しむ時はあまり残されてはいないぞ」
堂鉄と徐平が、馬車に乗り込もうとしている女たちに手を貸している。
少し離れて立っている英卓の元まで、風に乗って、峰貴文と亜月の笑い声が聞こえてくる。
ずしり……。
突然、彼の懐の中で丸薬の入った函が重くなった。
ずしり、ずしり……。
函の重さで、英卓の心は地の底へと引きずり込まれていく。
******
十年前の竹林屋敷の縁の端で……。
春の暖かな風を受けて亜月は奥さまの髪を漉いていた。
最近の奥さまは抜け毛が増えた。
櫛の歯に絡まる長い抜け毛を、気づかれないようにそっと始末する。
奥さまがいつもの優しい声で、肩越しに言った。
「亜月、おまえがわたしに仕えるようになって、もう何年となりましたか?」
「十五年になります」
「あら、そんなに?
そういえば初めておまえを見た時、まだ幼いと思えるほどの子どもでしたね」
「はい、奥さま。
あの時のわたしはまだ十歳でした」
「そうですか。
長い時をこの屋敷で過ごさせてしまいました」
「いいえ、奥さま。
これからもずっと亜月は奥さまのお傍にいて、お世話をさせていただきます」
「いや、亜月。
私の命はもう長くはないのです。
最近のわたしの頭の中は、まるで霧の中をさまよっているかのよう。
また、座敷牢に閉じ込められる日も近いでしょう」
奥さまは突然振り返ると、櫛を持った亜月の手に自らの手を重ね、目を覗き込んで言った。
「亜月、これからわたしの言うことをよく聞くのですよ。
もし私が死んだら、あなたも含めたこの屋敷のものたちは皆、口封じのためにあの男に殺されることでしょう。
しかし、あの男は切れ者ですが、あの男と私の間に生まれた開元は、甘やかされて育ち知恵の回らぬ男になっていると聞きます。
開元が相手なら、おまえほどの才気があれば、生き残ることが出来るかも知れません。
亜月、生きるのですよ。
いまは、わたしの言うことが理解できないでしょう。
しかし、もしその日が来たら、生に向かって一歩でも、いえ半歩でも前に進む道を選んで歩き続けるのです」
そしてあの日、座敷牢の中で袁宰相と奥さまが血だまりの中で死んでいた。
それを見た時、奥さまの言っていたその日が来たのだと亜月は知った。
(『竹林屋敷、未明の空を焦がす』が、終わりました。
次回から、新しい章となります。)
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