宮中に響き渡る笛の音

131 雲流、赤子の名づけ親となる・その1



 翌月、梨佳は、沈明宥が望んでいた通りの玉のような女の子を産んだ。


 なぜか、明宥の子どもは男だけ。

 そして孫も曾孫も男ばかりだった。


 堅実で働き者の男ばかりであったことは、薬種問屋〈健草店〉の発展におおいに役に立ったことではある。また、明るみには出せぬ沈家の秘密を守るのにも都合もよかった。


 しかし街中で小さな女の子を見ると、その愛らしい姿は幼い時に生き別れた冬花に重なった。同じ安陽の空の下に住んでいながら、兄妹と名乗りあえぬ彼の苛立ちと悲しみは、歳月の流れとともに募っていく。


「なぜ、我が家には、むさ苦しい男の赤子しか生まれぬのだ?」

 長年にわたった老人の繰り言は、沈家の嫁たちを困惑させ続けた。






 目の中に入れても痛くないというのはこのことを言うのかと思わせるほどの、明宥の可愛がりようだ。母の乳房が恋しくて、また、濡れた襁褓むつきが冷たくて泣いていようが、老人は抱いた赤子を手放そうとはしない。


「やれやれ、これでは嫁に出す時に、どんな騒ぎになるのやら。

 しかしその時には、爺さまはすでにあの世か。

 万が一に生きていても、呆けているに違いない」


 最後には、我が子をなかなか抱かせてもらえない如賢に嫌味を言われる始末。


 赤子の名づけは、第五皇子の勉学の師である雲流に頼んだ。


「家族の縁の薄い私にそのような大役は、あまりにももったいないこと」

 そう言って辞退する雲流を明宥は説き伏せた。


 雲流の本当の名前と彼の過去を、この安陽で知っているものは誰もいない。

 そして、彼はかたくなに妻帯するのを拒んでいる。

 また宮中にあっては、その才能を惜しげもなく駆使して、皇太子の地位に最も近い袁家の血を引く第六皇子ではなく、承家の第五皇子に肩入れしている。

 そのことから察するのに、かなり深い事情と袁家への遺恨がある様子。


 林高章という名を捨てて沈明宥として生きている自分と、そのような雲流の姿は重なった。妻を持ち子を生すことを諦めているのであれば、せめて生まれたばかりの柔らかな赤子を腕に抱き、名を与える喜びを味わってほしい。


 何度目かの説得に、やっと雲流が首を縦に振った。


 安陽の厳しかった冬が去った日。

 赤子の名前を書いた紙を懐にして、彼は沈家にやってきた。


 沈家の者たちがかしこまって居並ぶ座敷で、彼は、梨佳から手渡された赤子をおぼつかぬ手つきでその胸に抱いた。

 そしてすやすやと眠るその顔を覗き見た。

 心ならずも故郷に捨ててしまった妻の名前の一字を当てた名前が、皆に祝福されて生まれてきた可愛らしい赤子に相応しいことを知って安堵する。


 赤子を梨佳に返した雲流は懐から紙をとりだした。


『桃秀』


 墨の跡も瑞々しいその字を見て、明宥はたいそう喜んだ。


「昨年の春は、我が家の庭にしとやかで賢い梨の花が咲いたが、この春は可愛らしく艶やかな桃の花が咲いた。めでたい、めでたい」


 そして高らかに手を打つと言った。


「料理と酒を、雲流先生の前に。

 今日は、皆で、心ゆくまで飲みましょうぞ」







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