094 杖刑王妃と斬首宰相・その4
沸点に達した怒りに、ぐったりと座り込んでいた祥陽だった。
しかし、優しい笑みをたたえて部屋に入って来た老女を見て、よろよろと立ち上がった。
「亜月、亜月。
どこに行っていたのだ?」
道に迷っていた幼子が母と巡り合えたかのように、その細い両腕が老女に向かって伸ばされる。
「いつもそばにいてくれと言っているであろう。
さきほど、あの愚かな兄が使いを寄越したのだ。
なんと、承将軍が安陽に戻ってくるという……」
「まあまあ、正妃さま。お怒りは体に悪うございますよ」
丸い背中をますます丸めて、亜月は正妃の据わる台座までの三段の階段をゆるゆると上がる。そして、抱きついてきた正妃を、その小柄な体で受け止めた。
「数日前より、夜になると、第六皇子さまが咳込まれます。
しかしながら、お薬がお気に召さぬようで。
そのことで侍医さまに相談しに参っていたのでございますよ。
宮を出る前に、正妃さまに一声、お声がけすればよろしゅうございました。
そこまで気が回らず、申し訳ございません」
「おお、そうであった。
わたしの可愛い第六皇子が可哀そうに。
それで、侍医はなんと言っていた?」
「季節変わり目の軽い風邪であろうと申しておりました。
しかしながら、昨年は第二皇子さまが不幸な事故で、そしてこの春は第三皇子さまがご病気で亡くなられております。
続いて、第六皇子さまにもしものことがあれば……。
どのような些細なことでも、気をつけねばなりません」
抱きとめた正妃の体を椅子に座らせると、老女もまたその横に座った。
「なんと、恐ろしい……、なんと、恐ろしい……」
呟きながら、祥陽は老女の膝の上に震える体を投げだす。
蝉の羽のように透けた彼女の美しい着物は、汗で背中に張りつくほどに濡れていた。その背中を、愛おしく撫でながら亜月は言った。
「あとで、お召し替えいたましょうね、正妃さま」
老女の膝の上に乗せている簪で飾った頭をこくりとさせて、祥陽は頷く。
先ほどから、彼女の指先は亜月の黒い着物を掴み、しきりに弄んでいる。
不安に陥っている時の癖だ。
それは三十年昔、祥陽が袁家の正妻の一人娘であり、亜月が彼女の乳母であったころから変わっていない。
「承将軍が安陽に戻って来る。
それもよりにもよって、この宮中を守る禁軍を率いるとは……」
老女の膝の上に顔を乗せている祥陽はくぐもった声で言った。
「……、六十年前に、お祖父さまが林家の血を根絶やしにし、承家を北方の守りに追いやった苦労が、これでは水泡に帰してしまったではないか。
兄はいったい何をしていたのだ?
兄も朝議の場にはいたのであろう?」
老女からの返事はない。
骨ばった手が、彼女の背中を優しく撫で続けている。
祥陽は顔を上げた。
「亜月、この話に驚かぬのか?」
老女の眼差しは慈愛に満ちていた。
「わたくしめは、卑しい身に生まれついたものでございます。
宮中の話など、それも天子さまや宰相さまのお考えなどわかり兼ねます。
わたくしめの願いは、一つだけ。
正妃さまと第六皇子さまのご健康とご平安のみにございます」
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