083 第五皇子の初恋・その10



 まじめな顔に戻った如賢が答えた。


「それがな、爺さま。

 昨夜は一晩中、承将軍の天幕で赤々と篝火が燃やされて人声が絶えず、それが朝になってもずっと騒がしい。

 それで、おれはちょっくら様子を見に行ってきたというわけだ。

 そして、手近な兵士を一人つかまえて、何があったんだと訊ねたんだが……」


 そこで如賢は一度言葉を切った。

 しかし今度は祖父に叱られる前に、その舌で乾いた唇を湿らせて再び話し始める。


「その兵士の言うことには、どうやら昨夜遅くに、安陽から文を携えた使いのものが来たらしい。


 その文の内容というのが……。

 天子さまが、承将軍を都に戻すことをお決めになったとか。

 北方の警備から、再び禁軍の将軍に戻られるとか。


 今回の知らせはまだ正式なものではないので、おれにこのことを教えてくれた兵士も、詳しい経緯までは知らないと言っていた。


 爺さま、知っているか?

 昔々の承家は天子さまの覚えもめでたく、代々、禁軍の将を任されていたのだと。

 それがある時、天子さまのお怒りに触れて職を解かれ、北方へと追いやられたのだと。


 承家にとって、都に戻ることは長年の悲願だったのだと、その兵士は泣きながら言っていた」


「この愚か者が。

 そのようなことも知らんのか」


「そんなことを言っても。

 昔々というのだから、おれの生まれる前の話だろう?」


「それほど昔のことではない。

 たかだか、六十年前のことだ」


 そう言い名ながら明宥は立ち上がろうとして、よろめいた。

 慌てた如賢が駆け寄り、祖父を支えて寝台の縁に座らせる。


「爺さま、大丈夫か?

 まさか、中気の発作ではなかろうな。

 おれがついていながら、爺さまが中気の病で倒れたとなれば、おれは親父に殺される」


「大丈夫だ。

 驚いて、心の臓が少し暴れただけだ……。

 しばらくすれば、落ち着く」


 老人は胸を押さえて息を整えた。

 しばらくして落ち着いてきたのだろう、言葉を続けた。


「今日の承将軍の宴は、別れの宴ではなく祝いの宴となる。


 如賢、いますぐに、この別邸にある酒を一滴残らず集めろ。

 そして、承将軍の天幕にお届けするのだ。

 それからな、差し入れる料理だが、二倍に増やせ。

 いや、三倍だ」







 上衣を脱いだ堂鉄が、その見事な巨躯を見せつけるようにして、砂浜の上に設けられた俄か拵えの土俵の真ん中に立っている。

 宴の余興である相撲で、彼は五人目の承将軍配下の力自慢を、土俵の外に投げ飛ばしたところだ。


 うわあ~~と、見ていたものたちから歓声があがった。 


 砂浜には三方の垂れ幕を跳ね上げた天幕が二つ。

 一つには第五皇子と承将軍と沈明宥と英卓。

 もう一つには、白麗と萬姜母子と医師の永但州と如賢夫婦。


 あとのものたちは両手に酒の入った器と料理の盛られた皿を持ち、立ったり座ったりとそれぞれが確保した場所で、勝ち抜き相撲を楽しんでいる。

 その後ろを今日の漁を休んだ漁民たちが囲んでいた。

 集まったものには酒と料理と銭をふるまうとのお触れが、宮砂村に出されていた。


 海より吹き渡る風が、人々の歓声を乗せて後ろの山へと駆け上っていく。

 風には、昨日までの肌にまとわりつく湿気がない。

 秋がすぐそこに来ている。


 季節というものは、人の目に見えぬところから忍び寄るように移り変わる。

 人の世もまた、そのように移り変わるものだろうか。




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