063 <荘新家>の名、安陽に轟く・9



 荘英卓が牢から解放された日の夕刻。

 長い暑い夏の一日が終わろうとしていた。

 薬草問屋〈健草店〉の奥にある沈老人の隠居部屋では、夜気を含んだ涼風が燭台の灯りを揺らしている。


「ご隠居さま、夜のご挨拶が遅れて申し訳ありません。

 どこぞ、お体の痛むところはございませんか?」


 老人の長男であり〈健草店〉の当主である明賢が、就寝の挨拶のために隠居部屋にその姿を現した。


「毎晩毎晩、おまえも律儀なことだな。

 そういえば、先ほどからなにごとか賑やかなようすだが?」


「峰さまの芝居を観た女たちが戻ってまいりまして、興奮冷めやらぬ様子であれこれと煩く喋っております。

 その相手をしておりましたので、ご挨拶が遅れてしまいました」


「女子どもの相手をするのも、当主の大事な務めの一つ。

 それにしても、峰さんの芝居の人気は大したものとか」


「はい、それはそれは。

 安陽中がその話で持ち切りでございます。

 あの話の中に我が沈家も加わっているのだと、内密にせねばならぬこととわかってはおりながら、安陽中に、私も触れ回りたいような気分でございます」


 老人の夜は早い。

 明賢のお喋りに、彼の白く長い眉毛の下の窪んだ目はほとんど閉じられていた。

 いまにも船をこぎ始めそうだ。


「あっ、これは、私もお喋りが過ぎましたようで。

 肝心のご報告を忘れるところでございました。

 先ほど、宮砂村の別邸をあずかっているものより文があり、第五皇子と承将軍が、この夏もお見えになられているとのこと……」


 宮砂村は、安陽から山を越えた東にある、海に面した鄙びた漁村だ。

 風光明媚でかつ怪我に効くという温泉も湧いている。

 沈家が夏を過ごす別邸をかまえてより久しい。


 そしてまた、第五皇子と彼の大叔父であり後ろ盾でもある承将軍も大勢の武人たちを引き連れ、海での鍛錬を兼ねて夏の一時をここで過ごす。


「おお、その知らせを待っていたのだよ」


 眠気が去ったのだろう。

 ぱっと目を見開いた老人は、しばらく考え込んでから言葉を続けた。


「ところでどうだろうね? 

 宮砂村の別邸に、荘家の英卓さんとお嬢さんをお招きするというのは」


「それはようございます。

 この安陽の夏の暑さは、慶央よりも北にありながら凌ぎにくいとか。

 さっそく準備いたしましょう」


「頼んだよ。

 荘家の皆さんには、わしからお声がけをしよう」


「お任せいたします。

 では、ご隠居さま、おやすみなさいませ」


 そう言って腰を浮かし後ろ姿を見せた明賢に、沈老人はふと思いついたというふうに言った。


「わしの我がままで、いろいろと散財させているな。

 すまないことだ」


 振り返った明賢は、孝行息子の顔から商人の顔に戻っていた。

 彼はかすかな笑いを含んだ声で答えた。


「何をおっしゃいますか、ご隠居さま。

 このくらいのことで身代が傾くような〈健草店〉でないことは、ご隠居さまが一番ご存じのはず。

 これからも遠慮なくお申し付けください」






 その夜、家人が眠ったころを見計らって、沈明宥は中庭に降り立った。


 彼の気配に、一瞬、静まった夏の虫だったが、再び姦しく鳴き始める。

 それは、六十年前に一人生き残ってしまった彼を責め立てる一族の泣き声だ。


 軋む老体をなだめつつ跪き、明宥は深く地に伏せる。

 丸まった彼の背に、<復讐の時>が近づいていると、星の瞬きが告げていた。




 (第一章終わり)


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