第8話 

 梅雨も終わる頃、碧から来て欲しいとの文が届いた。礼は翌日に準備をして後宮に向かった。今日も耳丸が付き添った。

 後宮に上がる手続きをして、礼は一人で碧の部屋に向かった。

「礼。よく来てくれました」

 部屋に入ると、碧はにっこりと笑い、明るい声を掛けた。

「雨ばかり降って、いつもこの季節は塞ぎ込んでしまいます。しかし、もうすぐ梅雨も明けますわね」

「はい。しかし、雨が終われば蒸し暑い季節が来て、これまた毎日過ごすのが大変ですわ。お加減はいかがですか」

 礼は尋ねた。

「ええ。雨ばかりで気持ちは沈みがちだけど、皆でいろいろと遊びをして楽しんでいるわ。大王もこちらにお渡りになることもあるので、その時はひときわ賑やかに過ごせました」

「それは良かったですね」

「ところで、今日、礼に来てもらったのはね、八月に行われる月の宴のことです」

 月の宴は八月に大王が主催する月見の宴である。

「岩城の家で何か聞いていない?」

 岩城の家では、宴で催される舞を誰に舞わせるかと話し合っているのを礼は漏れ聞いていた。

「はい。宴の開催については聞いております。岩城の家でも、準備のためにお兄様たちが話し合われているようです」

「今年はとても大掛かりな宴を催すことになるそうよ。私たちも宴の行われる邸で管弦や舞を鑑賞できるのです。それも、特等席でですわ。そこで、礼も私と一緒に鑑賞しましょう」

 碧は屈託無く言った。しかし、礼はそのような華やかな場所に陪席するなど、恐れ多くて、すぐに返事が出来なかった。

「……光栄なことですが……私のようなものがそのような席にご一緒するのは、恐れ多いことです」

「あら、どうして?昨年は月の宴は催されなかったために、今年こそはと皆楽しみにしていて、様々なところから席の確保をお願いされているのよ。皆同じようなことをしているわ。岩城家では王族に続く特等席を与えられるでしょうけど、礼は私と一緒に王族の席で楽しみましょう。礼まで岩城の席にいたのではわたし一人が除け者にされているようで、寂しいわ」

 碧は岩城一族が好きなのだ。その一員であることが誇りである。一族の代表として、王族の中に入ったが、心の多くは岩城一族の者という気持ちがあるのだ。

 碧の気持ちはわかったが、王族の連なる席に臣下の一族の者が陪席するとしても、それは美しくないといけないはずだ。自分は相応しくないと思えた。そう思ったら、耳丸の言葉が不意に脳裏に現れた。

「あんたは実言に相応しくない」

 臣下の頂点を極める一族のひとりにしては、やはり自分は見劣りしている。大王の催す宴の席に、岩城家の一員として妃の隣に侍るにはみすぼらしく思う。自分のようなものが岩城家の一員であることを他の臣下が知ったら、陰でいい笑いものになっているのではないかと思う。耳丸が思っていることは、他の家の従者や侍女たちも感じることで、礼は自分が岩城実言という男の格を落としているように思えた。実言は自分たちがどう思うかだというが、やはり岩城一族の中や宮廷の上級貴族の関わりにおいて、自分は洗練されておらず貧相で、左目のないことがより暗い印象を与えて見劣りしているように思える。

「とてもありがたいお話しです。しかし、わたしは長く田舎で過ごしていたので、宮廷のことは全く分かりません。そんな者が碧様に何かご迷惑をおかけしないと心配になります。旦那様に相談してみないことには、お返事できません」

「では、実言兄様に聞いてみておくれ。きっと、許しくださると思うわ」

 碧は礼の気持ちなど忖度することなく、今から宴のことを想像して、楽しみにする子供のような表情を見せる。

「そうそう。礼、今日も詠様のところに行ってくれないか?」

 礼は驚いて、顔を上げた。

「詠様は、礼を大変気に入られたようだわ。実言兄様と礼の話が聞きたいと、せがまれて困っているのよ。礼から直接聞きたいとおっしゃって、次に私のところに来たときは、詠様の館に来るように言って欲しいと言われてね。どうか、詠様のお相手をしておくれ」

 自分の姿のみすぼらしさに心が沈んでいるところに、碧以上に美しいとさえ思う詠妃のところに行くのは、打ち拉がれる思いだった。しかし、礼は碧の言葉に従った。それで碧がここで少しでも気持ちよく過ごせるならと思って。詠妃は、礼と一対一で話しがしたいとのことで、礼は碧と分かれて侍女二人に付き添われて、詠妃の住まう館へと向かった。

 詠妃の館につながる渡り廊下の半分まできたところで、館の周りをめぐる簀子縁の角から詠妃の侍女が現れた。礼たちを見ると、驚いた様子で手の甲を向けて下から振って、早くその場を退くようにと小声で鋭く言われた。礼たちは追い立てられるように、渡り廊下を戻って簀子縁の奥へと引っ込んだ。

 それは、それまで詠妃と会っていた客人がちょうど詠妃の部屋を出て、簀子縁の角を曲がりこの廊下へと進んでくるところにぶつかって、道を開けろということだった。

 礼は、角を曲がって現れた客の姿が見えると、慌てて頭を下げた。自分が顔を上げてぼんやりとしていることに気づかされた。

 ゆっくりと確かな足取りでその客人は渡り廊下を渡って、礼が来た道とは違う方向へと進んで行く。

 体つきのがっしりとした男振りがよく、召している着物は品よく上等で、位の高い人物であることがわかる。詠妃の実家に関係する人だろうか。礼は、そんなことを思いながら、先導してくれる侍女について、先ほどの客人が通った簀子縁を逆方向に歩いて行った。

「礼。よく来てくれた。ありがとう」

 詠妃は礼に座るように円座をすすめた。礼は恭しく頭を下げて腰を下ろす。

「今日、こうして来てもらったのは、お前の物語を聞かせて欲しいのだ」

 物語?

 礼は、頭を下げたまま詠妃の言うことを窺った。

「お前たち夫婦の馴れ初めだよ。碧様にお聞きしても、知らないと言って教えていただけない」

「お話しするようなことはありません。親が決めたことですから」

「だめよ。お前が左目を失くしたのは、夫を身を呈して庇ったためだろう。親が決めたといっても、子どもの頃から夫とは知り合いであり、憎からず思う中であったのではないか。お前は夫となる男を思っていたから、矢を受ける覚悟があったのであろう。矢を受けたのは、どのような状況だった。聞くと、祭りか何か都で大勢が集まったときらしいな……」

 礼は俯いたまま、左目に矢を受けた時のことを思い出した。あれは、新嘗祭に合わせて異国の使節団が訪れていて、王宮に入っていく行列を高楼から岩城一族とともにみていた時だ。しかし、その場に自分はいなくてはいけない人物ではなかった。優しい姉と慕うその人が今後の礼のために、きらびやかな光景を見せてやろうと呼んでくれた席であった。朔が、礼をとても近しく感じてくれていたから、あの場にいることができたのだ。

 礼の心が疼き始める。実言の本来の相手は、朔だったことを思い出す。

 詠妃が望むような話は出来ない。礼に取って、実言は従姉妹の許婚だったのだ。憎からず思うどころか、朔の婚約の儀まで顔を見たことも言葉を交わしたこともない男だった。

 礼は押し黙っている。

「礼。私が大王のもとにお仕えすることが決まったのは十一の時だった。宮中行事の手伝いをしに参ったところ、大王のお側の者の目に止まり、やがて後宮に入ることが決まった。父親を早く亡くしたから、父の兄である叔父の養女となり、二年ほど過ごし、その間、どこに出しても恥ずかしくないようにと教育され、十三になってこの館に入ったのだ。大王とは十も年が離れていて、はじめは年の離れたお兄様のような気持ちであったが、大王のお優しいお心とお導きによって、私はここの暮らしにも慣れて、そして、大王の愛に包まれ愛を知り、私は大王への尊敬とその愛を頼り更にお仕えすることに励んだ。そして、愛しい王子を授かることができた。しかし、もし、私が今の道を歩むことがなければ、私はどのような出会いをしていただろうかと、ふと思い耽ることがあるのだ。大王をお慕いしているが、もし、別の出会いがあったのなら、どんなに自由に、活発に、私は飛び回っていただろうか、と。お前の左目がないのも、己の燃え盛る思いが現れて、夫となる男を守ったのではないか。自由に自分の思いを表わしたその様子を聞かせて欲しいのだ」

 美談のように語られる礼の左目。興味を惹かれてしまうのかもしれないが、礼にとっては辛いことだ。今となっては最高の夫を得たが、同時に最愛の従姉妹を失ったのだ。

「……確かに、私は夫を守りましたが。その時の私は十四で、それも幼稚な者でしたから、そのような男女の思いなどとても疎くて……。ただ偶然が重なったことにより、夫になる者を助けたことになったのです。詠様のお心を引くようなお話ではないのです」

「なんと。そのようにはぐらかして、人の悪い。お前が傷ついた後、そなたの夫は、お前を得るためにどうしたのかしら。お前は、夫のために何をしたのかしらね。教えてほしいわ。お前は語らぬというのかい」

「本当に、何もございません」

「何とも、味気ないことをいうのだね。では、これだけは教えておくれ。お前は、夫のどこに魅かれたのだ」

 礼は何と答えていいのかわからず黙っている。

「これは、何も答えてくれぬとは、悲しいものよの。愛し合って一つになった者であれば、すぐにでも言葉がついて出るだろうに。私は大王の広いお心に守られて、今まで何不自由なく過ごせてきたのだ。大王をお慕いし、お側にお仕えしてきた。そして私こそが大王の盾になり、大王をお守りしたい。私の全てを捧げるお方だ。礼も同じように内から湧き上がる思いがあるであろうに。教えてくれぬとはな」

 礼はただただ詠妃の言葉に頭を垂れるだけだった。詠妃の告白は、礼と実言という臣下の下世話な恋愛話を話させたいために語られたことだろうか。礼は、詠妃のねっとり絡みつく言葉に心を掴まれたようにふわふわとして、何とか詠妃の前から辞して岩城家の屋敷に帰って行った。

 帰りの車の中で礼は思い起こしていた。

 碧も詠も同じことを言う。後宮に入らなければ、自分はどのような人生を歩いていただろうと。女に生まれて、それも、貴族の家に生まれたのであれば、大王の妻になることは何においても代えがたい栄誉であるし、誰もが望んでいることであるのに、その立場を手に入れている二人は、そうではない自分の人生に思いを巡らせているとは。後宮の中で、妃と崇められ、かしずかれて、物心ともに満たされているものと思っていたが、何かと苦労や息苦しさを感じているのだろうか。籠に入れられた鳥が、止まり木に止まって大空を飛び回ることを夢想するように、自分がいた後宮の外はどんな自由が広がっているのかと想像してしまうのだろうか。

 邸に戻ると、すでに実言が宮廷から帰ってきていた。縫や澪たちと談笑しているところに、礼は戻って来た。

「礼。ご苦労だったね。碧はどんな様子だったかい」

 礼が部屋に入ると、縫や澪は静々と庇へと退いた。

「とてもお元気だったわ」

 実言と礼の会話が始まると、縫と澪は心得たようにそっと部屋を離れた。

「今日ね……月の宴に、碧様がお誘いくださったわ。王族の席に侍るなんて恐れ多いことだから、あなたに相談すると言って帰ってきたわ。どうか、あなたからお断りして。私はそのような席に着くなんて、とても無理だわ」

「どうして?碧はお前をとても頼りにしているのだ。碧についてやっておくれよ」

「でも、私は宮廷のことはわからないもの。今でさえ、碧様や……詠様にお会いするのは、恐れ多くて大変なことなのに。実言はそれをちっともわかってくれない」

 碧だけでなく、詠妃に変に絡まれたことで、礼には後宮に行くことがこの上ない苦痛になっていた。最初は、碧と岩城の家のためと思っていたが、ことは思わぬ方向へ進んで行くようだ。後宮の奥深くに取り込まれそうな恐れを感じる。

「確かに、礼は馬に乗ったり、木に登ったりと動物や自然と触れ合うの好きだから、宮廷なんてところは性に合わないだろうな。そんな礼を束蕗原にやってしまって、より野生児にしてしまったのは私だから責められるのは仕方ない。しかし、どうか碧のことを思って、支えてやっておくれ。あの子ものんびりとした子ども時代で、後宮に入るなんて考えてもみなかった子なのだ。我が一族のためにも飛び込んでいってくれたのだ」

 わかってはいることだけど、礼はいい顔ができない。左目がないことが、実言を貶めているように感じるし、そんな者が一族にいることが、岩城家のためになるとも思えない。

 礼は右目で睨むが、実言はそんなことを解することなく、微笑んでいる。

「礼。私の願いをきいておくれ。ほかの礼の願いはなんでもきくから」

 実言はその得体の知れぬ笑顔で皆を懐柔させてしまう。礼だって、実言に逆らってみたところで、優しい声でお願いされてしまったら、それ以上否とは言えない。

 礼がため息をつくと、実言は礼の手を取って引き寄せた。咄嗟に礼は、実言との間に距離をとろうと腕を伸ばしたが、実言の力強さに負けて胸の中にその体を引き寄せられてしまった。

「碧を支えられるのは礼しかいない。こんなことを頼めるのは礼しかいないのだ。私は礼にできないことをやらせたりしないよ」

 礼はわかったというように、うんうんと二回頷いた。

「ありがとう、礼!」

 こんな時だけ、実言は少年のような邪気のない態度だ。

「ふふふ。月の宴には、素晴らしい衣装を用意しよう。こういうことは、絢姉様か得意だから、早速お願いしておこう。礼、楽しみにしておくのだ」

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