第50話 ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい
何度意識を失っても、目覚めた先にある光景は変わらなかった。
セルジュお兄様に、この生贄用の神殿に連れて来られて何日が経っただろう。神殿の天窓から差し込む僅かな星明かりを見上げながら、私はぼんやりとエリアスのことを想った。
本来ならば、もう結婚式も終わって、今頃ミストラル公爵家の皆とエリアスと共に、公爵領の屋敷で穏やかな休暇を過ごしているはずだった。朝はみんなで一緒に食事を摂って、昼間はセシルやアルベリクとお茶をしたりして、夕方にはエリアスと一緒に橙色に染まった海辺を歩く、そんな素敵な日々を過ごしているはずだった。
だが、花嫁である私が行方をくらましている今、当然結婚式も中止され、今頃ミストラル公爵家は騒然となっているだろう。私が海に身投げした、とリズが証言していたとしたら、エリアスや家族に与える衝撃は計り知れない。
「何を考えているの、ココ」
甘い声がすぐ後ろで囁いたかと思えば、天窓を見上げるようにして軽く仰け反っていた私の喉にセルジュお兄様の手があてがわれる。首を絞められているわけでもないのに息苦しさを感じて、私は思わずセルジュお兄様の手に触れた。
「……エリアスや、公爵家のみんなのことを」
ここに連れて来られた当初は、まともな言葉も話せないほどにセルジュお兄様に怯え、怒りを覚えていたが、心は次第に麻痺していくものらしい。むしろ、ろくな言葉も話さずに一日を過ごす方が気が滅入るので、訊かれたことには答えるようにしていた。
それに、私は信じている。セルジュお兄様は本当はお優しい方なのだと。足の腱を切られても、幽閉されても、それでも尚セルジュお兄様を信じようとする私は、ひょっとすると既にどこかおかしくなっているのかもしれないが、それでも、セルジュお兄様と分かり合うことを諦めたくなかった。
「案外、今頃君の葬儀が行われていたりしてね。海に身投げしたなんて証言があったら、遺体が見つからずとも君は死んだとみなす可能性は大いにあり得るよ」
セルジュお兄様の言う通りだった。あの夜、リズが見たのは恐らく私の姿だけ。それを考えると、私が身投げしたと考えるのは妥当だろう。
結婚式の前夜に、花嫁が身投げ。なんとも社交界を沸かせそうな醜聞だ。何より、この知らせを聞いた時にエリアスがどんな思いを抱いただろうかと思うと胸が痛くて仕方がない。
「僕の墓にだって、遺体は入っていないわけだしね。お揃いだね、ココ」
背後から私を抱きしめるセルジュお兄様は、どこか上機嫌にそう言い放った。お揃いだと喜ぶ彼は、絶命したときと同じ11歳の少年のような無邪気さも併せ持っていて、一方的に恨むには酷すぎる過去を持っているのだと思い知らされる。
「……この床は、ちょうど僕が死んだところと同じ場所だよ。あの時も、僕は君のことだけを考えていたんだ」
白い祭壇の前にへたり込んだ私を一層引き寄せながら、セルジュお兄様は御伽噺でも語るような口調で言った。
「ここに流れる水には毒が含まれているんだけど……喉の渇きを潤すためには、これを口にするしかなかった。味は普通の水と大して変わらないんだけどね、内臓が焼けるような感覚だったよ」
セルジュお兄様は私を抱きあげて水流の傍に近寄ると、背後から私の手を取って冷たい水に触らせた。傍目には、ただの清らかな水に見える。
当時11歳のセルジュお兄様が、喉の渇きの耐えかねて毒を呷るなんて、あまりに残酷な話だ。今、私を苛む張本人なのだと分かっていても、思わず涙が零れそうにある。そんな悲しくて苦しいことが、許されるはずがないのに。
「まあ、かなり濃度は薄いみたいで、ちょっと飲んだだけじゃ死なないんだけどね。おかげで苦しみが長引いたよ。じわじわと内臓が溶けていく感覚を味わいながらも死ねなかったあの数日間は本当に辛かったなあ……」
「っ……やめて、やめてください……!」
駄目だ。毒の水を口にするしかなかったセルジュお兄様の絶望と苦しみを思うと、耐えられない。今、私を苦しめるセルジュお兄様のこの病みすらも、そんな残酷な数日間の中で少しずつ培われていったのだと思うと、どうしようもないやるせなさを感じた。
「あははっ、まだ僕のために泣いてくれるの? ココは優しいなあ……。僕は君にたくさん酷いことしてるのに」
セルジュお兄様はそう笑いながら、生々しい傷跡が残る私の左足首にそっと触れる。傷口が塞がっていないせいで、軽く触れられるだけでも肩を震わせるほどの激痛が走った。余計に涙が零れ落ちていく。
「こんな僕のこともまだ憐れんでくれるんだから、やっぱり君を不幸にするためには君以外の人間を傷つけた方がいいのかもしれないね」
不穏なことを言うセルジュお兄様を、思わず振り返って縋るように見上げる。ここで睨むことが出来ない辺り、私は一度心を通わせた人を相手にすると弱いのだと思い知らされた。
「っ……駄目です、私の大切な人たちを傷つけないで……っ。一緒に、道を探しましょう? あなたが消えなくても済む方法を」
「君がここで不幸になってくれればそれでいいんだよ?」
小首を傾げて小さく微笑むセルジュお兄様には、私の嘆願など届いていないようだった。その表情は確かに私の大好きなセルジュお兄様ものだが、その瞳に宿る翳りが彼の病みの深さを物語っている。
「セルジュお兄様は、本当にそれで……」
いいのですか、と最後まで聞けなかった。私はさらさらと流れていく水に手を浸したまま、ぼんやりと、セルジュお兄様をここまで歪ませてしまったあらゆる理不尽に思いを馳せた。
オードラン伯爵の思惑、この毒の水、一度目の人生の私の最期。セルジュお兄様を苛んだものを挙げればきりがないのだろう。
エリアスとの結婚式前夜に攫われ、痛みを与えられていることに対して怒りを覚え続けるべきなのに、どうしたってセルジュお兄様の背負う悲しい過去が、一方的に彼を恨むことに歯止めをかけていた。
私は、どこまでも甘いのかもしれない。エリアスを愛しているならば、彼の許へ帰るために他の何も気にかけることなく努力するべきなのに、切り捨てられないものが多すぎる。
自分の中途半端な心を誤魔化すように、そっと片手で透明な冷たい水をすくってみる。これに毒が含まれているなんて傍目には信じられない。顔の高さまで手を挙げて観察してみるも、不純物一つない綺麗な水に見えた。
でもこれが、セルジュお兄様の命を奪ったのだ。綺麗な見た目とは裏腹に、おぞましい代物だ、とぽたぽたと零れ落ちていく水を眺めていると、不意にセルジュお兄様の手が、水をすくっていた私の手を払った。
殆ど叩くような強さだったので、驚いてセルジュお兄様の方を見たのも束の間、そのまま勢いよく床に押し倒される。軽く頭を打ったが、だんだんと痛みに鈍くなっているこの頃では気にならない程度だった。
「何を考えているんだ」
足の腱を切るときも、穏やかな口調を崩さなかったセルジュお兄様が睨むように私を見下ろしていた。彼らしからぬ低い声音に、緊張感が走る。
「……その水を飲んで死のうとでも思った? 確かに、そうすれば僕の許から逃げられるし、もう痛い思いもしなくて済むからね」
「……まさか、誤解です」
以前の時間軸ではともかく、今の人生で自死を試みたことは一度も無い。もちろん、今だって。
だが、セルジュお兄様から見れば、私は毒の入った水を呷ろうとしているように見えたのだろうか。そう誤解されても無理はない行動だったな、と思いつつも、セルジュお兄様の豹変ぶりに戸惑う私がいた。
「君が死んだら許さない。絶対に、絶対にだ。もしも君が自殺なんてしたら、君の知人を全員殺すからね。君の家族も、君の友人も……ミストラル公爵家やフォートリエ侯爵家の使用人まで、全員だ。必ず殺す」
物騒な言葉とは裏腹に、セルジュお兄様の紺碧の瞳は酷く悲しげなものだった。まるで縋るような、切実な視線に絡めとられ、私はそっと彼の頬に手を伸ばす。私の大切な人を傷つけようとするその言葉には怒りを覚えるし、エリアスのもとへ帰りたい想いは少しも薄れていないが、ああ、やっぱり私はこの人を見捨てられないのだ、と心の奥底で思い知った。
私のその行動に、珍しくセルジュお兄様が戸惑ったような素振りを見せる。私が痛みに泣き叫んでも、苦しんでいても、端整な笑みを崩さなかったのに。
揺れる淡い紺碧の瞳は、翳っているけれどやはり物悲しいもので、目を逸らせない。言葉も出て来ない。
セルジュお兄様は目を逸らさない私に苛立つように、睨みつけるように軽く目を細めた。怒りを露わにするセルジュお兄様は珍しい。
「……どうして、君は僕にそんな顔が出来るんだ。こんなにも痛めつけて、脅しているのにっ……」
苦し気な声を上げるセルジュお兄様の頬を、そっと指先で撫でた。私たちは、どうすればいいのだろう。私に不幸になってほしいと言いながら、セルジュお兄様は少しも満ち足りた表情をなさらない。この状況が、お互いにとって好ましくないことは一目瞭然だった。
「早く……壊れてくれないかな、ココ。いつまでも理性を保っている君を傷つけるのは、正直僕も辛いんだ」
それは、この数日間で初めて聞いたセルジュお兄様の本音のような気がしていた。薄々分かっていたことではあったが、本来心優しいセルジュお兄様が、私を傷つけて平気でいられるはずがない。無意識の内に、セルジュお兄様の心が疲弊しているのは明らかだった。
「どうすればいい? どうしたら君は壊れて不幸になってくれる……?」
セルジュお兄様は私を押し倒したまま、壊れ物に触れるような手つきで私の頬を撫でる。一方で、軽く細められた紺碧の瞳の翳りが増した気がして、再び緊張感が走った。
「早く、この目の光を奪いたいな……。その綺麗な目で見つめられると、苦しくて仕方がないんだ」
セルジュお兄様の指先が、目の際をそっと撫でた。くすぐったいような、怖いような気持ちで思わず目を瞑ると、ふ、と、セルジュお兄様が笑うのが分かった。
「やっぱり、あいつの存在なのかな……。あいつが、君の心の拠り所になってるんだよね……。君が、自分の命を投げ打ってでも幸せにしたい人なんだから、それも当然か。愛しい人が生きているだけで充分だって思う気持ち、分かるよ。僕にとってのココがそういう存在だからね」
突然に穏やかになったセルジュお兄様の声は、却って不穏な響きを伴っていて、私は訝し気に彼を見上げた。セルジュお兄様は、私をここに捕らえたときのような、甘い笑みで私を見下ろしている。
「僕らは似た者同士だよね、ココ。愛しい人の幸せが、自分の幸せ。重くて報われない、ある意味ではこの上なく純粋な想いだ」
不穏な雰囲気のまま、セルジュお兄様はもう一度私の頬を撫でた。掠めるような指の感触に、軽く肌が粟立つのを感じる。
「だから、やっぱり心の拠り所から壊すことにするよ。君を不幸にするには、それしかないみたいだから。……いつ教えてあげようかと思ってたんだけど、そろそろ頃合いかな」
「セルジュお兄様……?」
セルジュお兄様は私に覆いかぶさるような姿勢から、ようやく体を起こすと、どこか晴れ晴れとした表情を見せた。私を誘拐し、不幸にすると決めたあの夜に見せた吹っ切れた顔とよく似たものだった。
どくん、と心臓が跳ねるのが分かった。それをきっかけに早さを増していく鼓動に、思わず私はセルジュお兄様に手を伸ばす。
「心の拠り所を壊す、って……。駄目です、セルジュお兄様、エリアスを傷つけないで……っ!」
駄目だ、エリアスは、エリアスだけは。彼だけは傷つけてはいけない。誰より愛おしい、あの人だけは。
縋るようにセルジュお兄様を見つめるも、彼は整った微笑みを崩さない。そして、私の懇願を嘲笑うかのように、彼は淡々と言い放った。
「あはは、もう遅いよ。だって、もう随分前に、あいつは僕が殺しちゃったもん」
そう言って、セルジュお兄様は私の目の前に、銀色のナイフを投げつけた。ナイフにこびりついた、茶色く変色した血は、明らかに私の足の腱を切ったときよりも多い。その光景に、すっと心の奥が冷え切っていくのが分かる。
あまりの衝撃に、私は床に崩れ落ちるようにして、血の付いたナイフに触れた。
「これで、壊れてくれるよね、可愛いかわいい、僕だけのココ」
いつものように甘い言葉を囁きながら、床に蹲る私の頭をセルジュお兄様の手が撫でた。だが、その感覚すらまともに認識できないほどに、私は目の前のナイフに釘付けになっていた。
これが、エリアスの血かどうかなんてわからない。分からないけれど、絶対にエリアスのものではないとも言い切れない。
もし、もしも本当にエリアスが、殺されていたとしたら。あの綺麗な紺碧の瞳が光を失って、あの口元が二度と微笑むことも、あの落ち着いた声が私の名前を呼ぶことも無くて、私を安心させてくれるあの温もりまでもが既に失われたものだとしたら。
考えただけで、息が早くなる。床に蹲ったまま、私は自分の胸を必死に抑えた。
エリアスが、私の愛しいあの人が、既にこの世の人でないかもしれないなんて。
その不確定な現実は、私の心を蝕むには充分だった。
セルジュお兄様は、やると言ったらやり遂げる人のような気がしてならない。悪い想像がどんどんと広がっていった。エリアスの死を信じたわけではないが、絶対に嘘だと言い切れるほどの気力も私には残されていなかったのだ。
多分、セルジュお兄様にとってもそれでいいのだろう。目的は、エリアスを殺すことじゃない。私の心を壊すことなのだから。
それを悟っていながらも、エリアスが既に亡くなっているかもしれないと考えるだけで、私はもう限界だった。声もなく溢れ出した私の涙を見て、セルジュお兄様がどこか満足そうに笑みを深めるのが分かる。
……もう、いいかしら、いいわよね。
ぼろぼろと涙を零しながら、私をあやすように頭を撫で、私の体を抱きしめるセルジュお兄様に力なく寄りかかる。
ごめんなさい、エリアス。強くあれなくてごめんなさい。
この世にあるのかどうかも分からない愛しい人に、私は心の中で何度も何度も謝った。ごめんなさい、ごめんなさいエリアス、ごめんなさい。
「たくさん泣いていいんだよ、ココ。怒りも悲しみも喜びも何もかも、溶けてなくなってしまうまで、ずっとそうしておいで」
甘い熱を帯びたセルジュお兄様の囁きが、耳朶に触れる。もう、いい。どうなってもいい。エリアスとの再会を許されない人生ならば、もう、どうだって。
「……いい子だね、ココ。早く壊れて、不幸になってね」
この日、私は確かに、自分の心が壊れていく音を聞いたのだった。
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