第40話 叶うなら、いつまでも君の傍でその笑顔を見守っていたい
その夜、私は神殿に宛てた何枚目かもわからない嘆願書を纏め終えると、ふう、と一息をついた。
一月後に控えた結婚式のせいで、このところは何かと忙しくしている。神殿との連絡を絶つわけにもいかないし、結婚式にまつわる細々とした確認に追われる毎日だ。
もっとも、あと一月でミストラル公爵家を出ていくことになるので、家族と過ごす時間は今まで以上に大切にしていた。このところはずっと、家族と共に朝食と夕食を摂っている。これも以前の時間軸には無かった、幸せな姿だ。
私の婚約の話が持ち上がったときにはあれだけ寂し気な表情をなさっていたお父様も、このところは私の結婚式に前向きな姿勢を見せている。幸いなことに、お父様とエリアスの関係も良好なようで、私がエリアスに会いに行くときには何かと手土産を持たせてくださるほどだ。
社交界デビューしたばかりのクリスティナとフィリップは、やはり「対の人形のように美しい双子」として社交界の注目を浴びており、フィリップに至ってはこのところ、人目のある場所に出かける度にげんなりとした顔をして帰ってくる。婚約者がまだ決まっていないから、あらゆる未婚のご令嬢に追いかけまわされているのだろう。
クリスティナが傍にいる場合は、美しい彼女がフィリップを庇ってあげているようだが、クリスティナはクリスティナで交友関係がある。四六時中兄のフィリップにくっついているわけにはいかないのだ。
そんなクリスティナは、次期騎士団長と呼び声高い青年と懇意にしているらしい。以前の時間軸ではクリスティナの恋愛事情に気を配る暇がなかったが、今回は話が別だ。お節介かもしれないが、姉として力になれることがあれば何でもしたかった。
「私も、お姉様とお義兄様のような恋がしたいですわ……」
私とエリアスの婚約が決まってからというもの、すっかり口癖になってしまったその言葉を晩餐の席で呟いては、お母様の顔を綻ばせ、お父様に酷く寂し気な表情をさせるという罪作りな妹だ。
いつも笑いの絶えないそんな光景とも、もうすぐお別れかと思うとどこか寂しく思ってしまうが、感傷に浸るのは一人の時にしようと決めていた。それに、エリアスのもとに嫁いだからと言って二度と会えないわけではないのだ。今のエリアスなら、ちょっとした休暇に私が実家に帰ることも気軽に許してくれるだろう。それがただただ嬉しかった。
嘆願書をまとめていた私のためにリズが用意してくれたハーブティーを口にしながら、私はぼんやりと窓の外を眺めた。もうじき、夏が来る。初夏の気配に満ちた星空は、いつまでも見ていられるほど美しかった。
三日に一度は天使様がお顔を見せてくださることを考えれば、今夜あたりいらっしゃってもおかしくない。エリアスとの婚約が決まってから切ないやり取りが増えた天使様だけれども、いつでも私を優しく見守ってくれる彼に会いたい気持ちは変わらなかった。
深い星空の中に純白の翼が見えることを期待して星空を眺めていると、嬉しいことに天使様がバルコニーに舞い降りる姿が視界に入った。私は飲みかけのハーブティーを置いて、早速バルコニーの方へ駆け寄る。
「天使様!」
バルコニーのガラスの扉を開け放って天使様を迎え入れれば、彼は今日も包帯で目元を隠したまま、穏やかで優しい微笑みを見せた。
「やあ、コレット。いい夜だね」
「ええ。私、今ちょうど天使様のことを考えていました。今夜あたり、いらっしゃるといいな、って」
天使様を室内に招き入れ、ガラスの扉を軽く締めれば、彼は頬を緩めたまま軽く私の頭を撫でた。
「嬉しいことを言ってくれるね。今日やるべきことはもう終わったの?」
「はい、先ほど、嘆願書も書き終えましたし……」
天使様が室内を見渡していることに気が付いて、私は慌てて机の上に広がった書き損じの書類や羊皮紙類をまとめた。お見苦しいところを見せてしまったかもしれない。
「上手く行かないことの方が多いだろうに……諦めずに取り組んで偉いね、コレットは」
天使様は机の上から完成したばかりの嘆願書を拾い上げると、目を通すように顔を傾けた。目元が包帯で隠れているせいで目の動きが分からないため、実際のところは定かではないが、多分、読んでくださっているのだと思う。
「天使様に宣言した手前、やめることなんてできません。それに……セルジュお兄様や、今まで生贄として命を散らしてきた方々のことを思うと……放り出すわけにはいきませんから」
「何年経っても、君の心には『セルジュお兄様』が住んでいるんだね……」
天使様は穏やかに微笑みながらも、切なさを交えた声でぽつりと呟いた。思えば、天使様にしっかりとセルジュお兄様のことをお話したことは無かったかもしれない。
「それはもう、私の大切な方ですから。会うたびに幼い私に合わせて遊んでくださいましたし……セルジュお兄様に読んでいただいた詩も物語も全部、私の中では宝物なんです。あの優しい紺碧の瞳を忘れることは、一生ないと思います」
セルジュお兄様のことを思うとどうしたって切なさがつきまとうけれど、それ以上に温かい気持ちになるのも確かだった。セルジュお兄様は星空の中から、私とエリアスの結婚を祝福してくださるだろうか。
「……もしも、『セルジュお兄様』が生きていたら、君はあいつとその人のどちらを選んだのかな」
「難しい質問をなさいますね。もちろん、今の私はエリアスと即答いたしますが……」
もしもセルジュお兄様が生きていらっしゃったら。セルジュお兄様を失った悲しみが大きすぎて、そんな「もしも」はあまり考えたことが無かった。想像もできないくらい嬉しいことであるはずなのだが、上手く想像できない部分が大きい。
でもきっと、セルジュお兄様が生きていらっしゃったら、私はエリアスと出会うことも無かったのだろうし、そんな迷いとは無縁の穏やかな人生を送っていたのだと思う。
エリアスと出会った今では、それはとても寂しいことだと思ってしまうけれど、そもそもそんな「もしも」があり得たならば、私はその寂しさにすら巡り会えなかったことになる。
「そうですね……もしもセルジュお兄様が生きていらして、エリアスと出会うことも無いままに二人で過ごしていたら……私はきっといつかお兄様に恋をしたのでしょうし、二人で未来を歩んだかもしれませんね」
エリアスと出会っていなければ、私がセルジュお兄様の手を取っていたことは想像に難くない。まともに考えれば、それが自然な成り行きであったのだろうし、周りからも祝福される関係になったに違いない。
「でも……エリアスにもセルジュお兄様にも出会っていたら……そうしたら、私はきっとエリアスを選ぶのだと思います。何度やり直したって、私はきっと、エリアスの瞳に宿った寂しさを見逃せなかったでしょうし、彼に寄り添いたいと強く願うはずですから」
なんて、全部もしものお話ですけれどね、と微笑んで隣に立つ天使様を見上げれば、彼は何とも言えない複雑な表情をしていた。苦しんでいるような、ほっとしているような、相反する感情がいくつも混ざっているように見えて、とてもじゃないがその感情を推し量ることは出来ない。
私が戸惑っていることに気が付いたのか、天使様は私に顔を向けると、どこか寂し気に微笑まれた。視線でどうしたのかと問いかければ、天使様は冗談めかして小さく笑う。
「いや、君の選択肢に入ることが出来るあいつと『セルジュお兄様』とやらが羨ましいな、って思っていたんだよ。天使なんて身の上じゃ、論外だもんなあ……」
「ふふ、天使様も私を花嫁にご所望なんですか?」
冗談めかした天使様の言葉に乗って、彼の表情を覗き込むように見上げれば、彼はどこか困ったように笑った。
「どうだろう。そんなこと望んだって、君が幸せになれないのは明白だしね」
またそれだ。確かに天使様に嫁ぐなんてどこか非現実的なこと、私も考えたことはなかったけれど、彼がやたらと繰り返す「僕と一緒に来ても君は幸せになれない」という言葉に含まれた影がどうしても気になってしまう。
「……でも、君の傍にいたいな。出来ることなら、いつまでもいつまでも……ずっと」
「……天使様がそう思ってくださるなら、これからも是非そうしてくださいませ。そうです、行く行くは私の子どもに名前を付けてくださったら嬉しいですわ。天使様から与えられた名前なら、きっと幸せな人生を歩めるでしょう?」
天使様に名付け親になって頂くなんて、この上ない贅沢だ。祝福どころの騒ぎではないが、天使様なら私のこんな我儘も聞いてくださる気がした。
だが、やはり天使様の表情はどこか浮かないもので、遠い幸福を夢見るような曖昧な笑みを見せる。
「君の、子どもか……可愛いんだろうな。あいつの黒髪を継いだらなんか癪だから、コレットと同じ淡い灰色の髪だとなお愛らしいだろうな……」
天使様のエリアス嫌いは相変わらずだ。以前は自分の子どもが灰色の髪だなんて、想像しただけで申し訳なくて鬱々とした気分になったところだが、今では天使様に愛された自慢の灰色の髪が継がれるなら、素敵なことだと思える私がいた。
「ふふ、もしそうならば、瞳はエリアスと同じ紺碧だと嬉しいですわ」
「君の赤い瞳の方が鮮やかで素敵だと思うけどね。……ああ、でも、どんな色を持っていてもいいから、一目見てみたいな」
「ご安心ください、生まれたらちゃんとご報告いたしますわ。まだ、何年も先のことだと思いますけれど……」
幸せな、少し先の未来を想像すると自然と頬が緩む。部屋の中に少しずつ増えていく花嫁衣裳の細々とした品が、この幸福感に現実味を与えてくれた。
「……うん、そうだね、楽しみにしてる」
言葉のわりに妙に暗い声音だったことが気にかかって、思わず天使様を見上げてしまう。彼は相変わらず寂し気に微笑んだまま、結婚式に向けて備えられた品々に視線を送っているようだった。
「君の結婚式まで、あと一月か……」
「ええ、これから少し忙しくなりそうです」
結婚式は、ミストラル公爵領の海の見える教会で行う。珊瑚や螺鈿の飾りが美しい教会で、令嬢たちの話題にもよく上がる素敵な場所だった。
ミストラル公爵領には、結婚式の一週間ほど前にエリアスと共に向かうことになっている。その旅路も、私の楽しみの一つだった。
「そうか、早いなあ……。もうあと一か月なんだね」
天使様は泣き出しそうな声でそう言ったかと思うと、ふと、私の頬に触れて笑った。普段通りの表情を取り繕おうとしているのが痛いほどに伝わる、とても寂しい笑みだった。
エリアスと結婚したからと言って、私と天使様の関係が変わることは無い。それなのに、彼はどうしてここまで悲しくて、寂しい表情をするのだろう。幼少期のエリアスを彷彿とさせるような痛切な表情に、私の胸も痛くなってしまう。
天使様は長い指で私の頬を撫でると、そのまま指先を灰色の髪に絡めながら言った。
「僕からも……結婚のお祝いをあげなくちゃね」
「まあ、何をくださるんですか?」
「今はまだ内緒。あと一月、君と穏やかに過ごしたいから」
贈り物だというのに、受け取ったら私が平静ではいられなくなるようなもの、ということだろうか。
「それだけ聞くと、何だか天使様が私に意地悪をなさるみたいですわ」
「あはは、当たらずとも遠からず、って感じかな。意地悪だって君は泣くかもね」
天使様はくすくすと笑ったかと思うと、まるで子供にするように私の頭をぽんぽんと撫でた。泣くほどの意地悪なんて、本当に心当たりがない。
「私の結婚を祝ってくださるというのなら、そろそろ天使様が私を気にかけてくださる理由を教えてくださってもいいのですよ?」
どうせ今夜もはぐらかされるのだろうと、気軽に口にした質問だった。だが、天使様の口からは、この10年間で初めての言葉が返ってくる。
「そうだなあ……いいよ。頃合いだろうしね」
思わず目を見開いて天使様を見上げてしまう。天使様から見た私は、今、とても間抜けな表情をしているのだろう。もしかすると私の一生がかかっても解明されない謎なのではないか、と覚悟し始めていただけに、久しぶりに茫然としてしまった。
「……いいのですか? あんなに隠していたのに?」
「言わなくてもいいなら言わないでおくけど」
「いえ、気になります! 是非教えてくださいませ!」
食い気味に天使様に詰め寄れば、彼はどこか愉しそうに笑って私を軽く抱きしめた。やはり、天使様はこんな風に穏やかに笑ってくださる方がずっといい。
「分かった、分かったよ。君に結婚祝いを贈るときにきっと教えてあげるから」
「約束ですよ! 天使様」
「うん、約束だ」
そう言うと、天使様は私の右手を掴み、指先に触れるだけの口付けを落とした。まるで盛大な誓いでもするようなその仕草に、不覚にも戸惑ってしまう。
結婚式まで、あと一か月。穏やかで、どこか切ない夜が静かに更けていく気配を感じたのだった。
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