第30話 迷いでも恐怖でも何でもいい、一瞬でも僕の存在が君の心を満たしたのなら

 どれくらいの時間が経っただろう。


 オードラン伯爵の死を以て尋問会が終わり、エリアスと簡単な挨拶を交わしてから、お父様と一緒にミストラル邸に戻ってきたことはぼんやりと覚えているけれど、その後のことはまるで記憶になかった。


 ただ、随分長いこと、こうして窓の外を眺めているような気がする。窓に向かって椅子に腰かけた私の肩や膝には、いつの間にかブランケットがかけられていて、目の前のティーテーブルには冷めたハーブティーと甘い香りのクッキーが並べられていた。


 きっと、全部リズがやってくれたのだろう。私は彼女にちゃんと返事を返したかしら。それすらも覚えていない。


 私の手の中には、セルジュお兄様の形見のペンダントが握られていた。「星鏡の大樹」の葉を模った銀のチャームを、もう長いことずっとなぞっている気がする。冷たいはずの銀はとっくに私の体温で温かくなっていて、まるで人肌のようだった。


 食事を摂った記憶もないのに、あまりお腹も空いていなかった。ティーテーブルに飾られた青い薔薇をぼんやりと眺めては、薄暗い部屋の中で、膝の上で開いた生贄に関する書物に視線を落とした。これも、いつ用意したのか覚えていないのだが、もう何度も読み返している気がする。


 かつて生贄は、世界の安寧を祈って100年に一度捧げられていた。生贄を選ぶ基準は始めこそ志願した敬虔な信者であったのだが、時代を経るにつれ、お告げを受けた神官たちが民の中から選別する、という手法に変わっていったようだった。


 これを見たときには、思わず皮肉気な笑みが零れたものだ。セルジュお兄様の死の真相を知った後ならわかる。恐らく、お告げなんて言うのは建前に過ぎず、神官や貴族の都合によって生贄は選ばれていたのだろう。驚くほど人間に興味のない天使様が、わざわざ民の中から一人を指名するなんて面倒な真似をなさるはずもない。


 オードラン伯爵には、きっと、ベルモン神官の他にも関わりの深い神官がいるのだ。セルジュお兄様が生贄に選ばれた、という「お告げ」を捏造することが出来るほどの、ある程度高位な神官が数人、といったところだろうか。そのあたりは今後追及されていくだろうが、当のオードラン伯爵はもう亡くなってしまっているのでどこまで明らかになるかは不透明だ。


 これはまさに、生贄という大義名分を負った、暗殺というべき凶行だ。どんなに力の強い貴族でも、神官たちの命に逆らえるはずがない。表立ってそんなことをしようものなら、「星影の大樹」への不信感を抱いているとみなされ、貴族としての地位を失うかもしれないのだから。


 きっと、生贄を捧げてきた家は、保身のために我が子の命を諦めざるを得なかったのだ。酷い、あまりにも醜い世界だ。


 ぽたり、と一粒の涙が古びた書物に吸い込まれて消えていく。もう何度も目の当たりにした現実だというのに、悲しくて、悔しくてならないのだ。


 私は滲む視界の中、震える指でもう一度セルジュお兄様の形見のペンダントを握りしめた。


 セルジュお兄様が亡くなったのは、私が8歳のころ、セルジュお兄様は11歳だった。


 お兄様は、その幼さで生贄になったというのだろうか。天使様は生贄の存在すら明言されていなかったけれど、今まで「星鏡の大樹」に捧げられた生贄が誰一人として帰ってきていない現状を考えれば、生贄には命を落とすようなお役目があるということだ。


 生贄の最期は、一体どんなものなのだろう。苦しいのだろうか、痛いのだろうか。11歳という幼さで、セルジュお兄様は一体どんな辛い目に遭ったのだろうか。


 セルジュお兄様は、私の中でとうに思い出の中の人になっていたというのに、彼の死が悲惨なものであったかもしれないと考えると、やりきれない思いで一杯だった。ただ強く強くセルジュお兄様の形見のペンダントを握りしめてしまう。掌に僅かに痛みが走るような気がしたが、それでも離すことは出来なかった。

 

 声もなくただただ涙を流しながら、セルジュお兄様のペンダントを両手で握りしめ、祈るように指を組む。こんなに残酷な真実が隠されていたというのに、のうのうとセルジュお兄様の思い出を語っていた今までの私が恐ろしくてならない。何をしても許されないような気がしてしまった。


 不意にがたがたと、バルコニーのガラスの扉が揺れる音が響いたかと思えば、冬の冷たい夜風が吹き込んできた。ああ、きっと今夜も天使様がいらしたのだ。それを頭の中で分かってはいても、いつものように彼の元へ駆け寄る元気は残されていなかった。


 どんなときだって天使様とお会いできるのは嬉しかったけれど、今夜だけは複雑な想いを抱く私がいた。星鏡の天使である彼が、生贄に捧げられたセルジュお兄様のことを知らないはずがない。知っていて、ずっと黙っていたのだ。


 それに、生贄の最期に天使様が関わっているのだとしたら――もっと言えば、生贄の命を奪うのが本当に天使様なのだとしたら、私は今までのように天使様と向き合えるだろうか。天使様には天使様の役目があると分かってはいても、大切なセルジュお兄様が関わっているとなれば、今は素直に受け入れられそうにもない。私はずるい人間だ。


「……コレット」


 天使様は私の傍に歩み寄り、浮かない表情で私を見下ろしていた。きっと、今日の尋問会の一部始終を見ていたのだろう。何か言うべきだと分かっているのに、涙ばかりが零れて言葉が出て来ない。


「コレット」


 膝をつくようにして私と距離を詰めた天使様が、そっと私に手を伸ばす。何度も優しく私を撫でてくれたその温かい手が、もしかするとセルジュお兄様の命を奪ったのかもしれない。そう思うと、思わずびくりと肩を揺らしてしまった。


「っ……」


 瞳は見えずとも、明らかに傷ついたような表情を見せる天使様を見て、私の心も酷く痛んだ気がした。分かっている、天使様が悪いわけじゃない。悪いのはオードラン伯爵、あの人だというのに、今はどうにも自分の感情を制御できなかった。


「……ごめん、無闇に触れようとしてしまって。ただ、コレットが心配で……。窓際は冷えるよ、眠れないくてもいいからベッドに移動しよう?」


 普段通りの優しい言葉が、余計に私の心の中を惑わせる気がした。私は今、天使様にどんな表情を向ければよいのだろう。天使様の純白の翼をぼんやりと眺めながら、気づけば私はぽつりと呟いていた。


「……天使様、一つだけ、お伺いしたいことがあるのです」

 

 数時間ぶりに発した声はとてもか細くて、震えていた。今も流れ続ける涙が頬を伝って唇に触れる。


「『星鏡の大樹』に捧げられた生贄の最期は……一体どのようなものなのですか?」


 天使様を責めるようなつもりはないのに、彼はどこか苦し気に唇を引き結んだ。目元を隠す包帯が無ければ、きっと視線は泳いでいただろう。その動揺は、生贄の最期の残酷さを物語っているのだろうか。


「お答えください、天使様……。それを知らなければ私は……あなたに、どのような表情を向ければよいのか分かりません」


 天使様に命を救って頂いた身で、何とおこがましいことを言っているのだろうと自分でも分かっている。それを分かっていても尚、聞かずにはいられなかった。このまま疑念を押し殺して、今まで通りの私を演じることは簡単だが、天使様は必ず私の変化に気づくはずだ。余計なすれ違いを生むよりは、ここで決着を着けたかった。


 天使様、あなたは、セルジュお兄様を殺したの? 


 はっきりとした言葉にはできなかったが、私が気にしているのはその一点に尽きる。尋問会の一部始終を見ていたであろう天使様にも伝わっているはずだ。私は両目に涙を溜めながら、じっと天使様を見つめ続けた。セルジュお兄様の形見のペンダントを握る手が震える。


「……僕が殺した、って言ったら、君はもう二度と僕と会ってくれなくなるのかな」


 そう言いながら自嘲気味な笑みを浮かべた天使様に、思わず怯えるような眼差しを向けてしまう。天使様はそんな私に構うことも無く立ち上がると、私の座る椅子の背もたれに腕を伸ばし、逃げ道を塞ぐように私を見下ろした。


「僕と会わないのが君の幸せだって言うなら、君の前に姿を現さないようにすることは簡単だけど……このまま逃がすのは何だか惜しいな……」


 天使様の手が私の頬に添えられた。先ほどまでの優しさはどこへ消えたのか。彼の手が私の顔を上向かせた拍子に、また一粒、涙が零れ落ちて行った。


「……はぐらかさないでください。私はあなたを嫌いになったわけではありません。ただ……セルジュお兄様の最期を知りたいのです。知らなければ、受け止めることもできませんから」


「仮に僕が生贄を殺していたとしたら? それでも僕のこと、嫌いにならないって言えるの?」


 天使様の問いに、言葉に詰まってしまった。どうだろうか。もしもこの優しい天使様がセルジュお兄様の命を手にかけていたとしたら、私は今まで通りこの人に笑いかけることが出来るのだろうか。


 仮に天使様のお役目が生贄の処理だったとしても、私がそれを咎めるような立場にないことは分かっている。だからこそ、きっぱりと「嫌いになるはずない」と答えるべきなのに、どうしても遠い記憶の中のセルジュお兄様の笑顔がちらつくのだ。


 あらゆる感情が混ざり合って、一瞬、もう何もかも分からなくなりたい、と思ってしまった。頬に添えられた天使様の手に身を預けながら、僅かに瞼を伏せる。途端に狭くなった視界の隅で、天使様がどこか満足そうに端整な笑みを浮かべるのが分かった。


「へえ……あれだけあいつに一途なコレットも、僕のために迷ったりしてくれるんだね。そんな虚ろな瞳になるくらい悩んでくれているの? コレットは本当に可愛いね」


 どこか愉し気にくすくすと笑うと、天使様は星空を遮るように私に影を落とし、そのまま私の瞼に口付けた。瞼を閉じた拍子に、瞳に溜まっていた涙が頬を伝って落ちて行く。瞼越しに眼球に加わる僅かな重みが妙な感覚だ。慈しまれているのか、私を傷つけたいのかよく分からない行動に動揺は広がるばかりだった。


「……ちょっと意地悪な質問だったかな」


 軽く私の髪を撫でながら天使様は穏やかに微笑むと、再び私の前に屈みこんで、膝の上で組まれた私の手を大きな温かい手で包んだ。


「そんなに悩ませてごめんね、コレット。でも大丈夫、僕は生贄を殺したりしていないよ。……星鏡の天使が、生贄と関わることはまず無いからね」


 天使様はにこりと笑うと、頬を伝う私の涙を拭った。泣きつかれた私にはその感触すらも曖昧で、やはりぼんやりと天使様を見つめ返すことしか出来ない。


「コレットが気になる、って言うなら教えてあげるよ、生贄の最期。あんまりご令嬢に聞かせる話でもないと思うけどね……」


 それくらい、残酷な話ということだろうか。思わず不安げに天使様を見つめれば、彼は慈しむように私の手を撫でた。


「簡単に言えば、生贄は最後は毒で死ぬんだよ。『星鏡の大樹』の御許で、毒を煽って眠るんだ」


「……毒、ですか」


「『星影の大樹』の根元には、生贄を幽閉するための神殿があってね……最期の日々はそこで過ごすんだ。とても綺麗な場所だよ。……忌々しいくらいにね」


 最後の言葉はどこか皮肉気な響きを伴ったものだった。生贄とは関わりを持たないと仰っていた天使様だったが、心優しい彼のことだから、この生贄という制度自体良く思っていないのかもしれない。

 

「……生贄の死は、この世界の安寧のために必要なものなのですか?」 


 躊躇いがちにそう尋ねれば、天使様は一瞬口を噤み、やがてどこか諦めたように微笑んだ。


「正直に言ってしまえば……必要ないよ。生贄なんて仕組みは、全部人間側の勝手なんだ」


「そんな……っ」


 別に、セルジュお兄様の死がこの世界の安寧のために役立っていたからと言って心が安らぐわけでもないけれど、無意味だと言われるよりはマシだったはずだ。それに、かつて自ら志願して生贄になったという人々のことを考えると、胸が痛むのも確かだった。


 やり場のない怒りに、一瞬塞ぎこんでしまいそうになる。いや、きっと以前の時間軸の私であれば感情を閉ざしていたかもしれない。


 でも、天使様に与えられた二度目のこの生で、逃げ出すなんてことはしたくないのだ。セルジュお兄様の形見のペンダントをぎゅっと握りしめ、私は心の中である決意を固めた。


「まあ、でも、コレットが気にするようなことじゃ――」


「――天使様、私……いつか必ず、生贄なんていう仕組みを無くしてみせます」


 涙に滲んだままの視界で、私はまっすぐに天使様を見つめて告げた。突然の宣言に天使様は多少戸惑っているようだったが、構わず私は続けた。


「絶対に、セルジュお兄様のような悲しい死を繰り返させはしない。この先、誰かの醜い思惑に、『星鏡の大樹』が利用されることのないように力を尽くします」


 幸いにも、「聖女」と呼ばれる私にはある程度の影響力があるはずだ。時間がかかるかもしれないが、私は必ず生贄なんていう残酷な制度に終止符を打とう。


 強い意思を込めて天使様を見つめれば、彼はやがて小さく声を上げて笑い出した。決して私を馬鹿にしているわけではなく、どこか気の抜けるような、穏やかな笑みだった。


「はははっ……そうか、生贄を無くすのか……。うん、いいんじゃないかな。コレットならきっとできるよ」


「……そう言って頂けると嬉しいですわ」


「あーあ……あんな虚ろな目をしたかと思えば君はすぐに前を向くんだから……。僕が心配することなんて、何もないのかもしれないなあ……」


 くすくすと笑いながら、天使様は改めて私の手をそっと包み込んだ。


「君は本当に強くて美しい人だね。僕はそういうところに惹かれてるのかもなあ……」


 普段の甘い言葉を囁く調子ではなく、ごく自然な調子でそんなことを言われると、何だか照れてしまいそうだ。頬に熱が帯びるのを感じながら、思わず天使様から視線を逸らしてしまった。


「そう、ですか……。私などには、身に余る光栄ですわ……」


 天使様の言葉に戸惑うなんて、いつもの私らしくもない。どこか満足そうな天使様の穏やかな笑い声を聞きながら、静かな冬の夜が更けていく気配を感じたのだった。

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