第29話 初恋に、兄上に、彼らを取り巻く何もかもに久遠の呪いを
「ああ、ミストラル公爵、まったくもってあなたの言う通りだ。あの女は……ミレーヌは兄上を選んだ。あれだけ貢いで、下らない話に付き合ってやったというのに……あの女は俺よりずっと愚鈍な兄上を選んだんだ。結局は兄上の容姿に誑かされた、ってところだろうな」
ああ、下らない、と笑いながらオードラン伯爵は堰を切ったように続けた。
「兄上より優秀な俺が手にしたのは、フォートリエ侯爵領の半分にも満たない寂れた伯爵領だけ。しかも、婿という立場上、金遣いの荒い頭の悪い妻に頭が上がらない毎日だ。俺の才能は、ちっぽけな伯爵領の再興ごときで終わるようなものじゃないのに」
オードラン伯爵の豹変ぶりに、誰もが息を飲んで彼の言葉に耳を傾けることしか出来なかった。オードラン伯爵は、嘲笑に似た笑みを浮かべる。
「それなのに、兄上だけまともに幸せになるなんておかしな話だと思わないか? ミレーヌのお陰で侯爵になれたっていうのに、息子が一人生まれたら後はそっちのけで、自分は娼婦に入れ込む始末だ。ミレーヌも兄上を恨めばいいものを、甘い言葉一つ聞き入れず一途に兄上を待ち続けて……」
その言葉の節々に滲むフォートリエ侯爵夫人への感情が、憎悪だけではないと悟った者は恐らく私以外にもいただろう。呼び捨てにして、「あの女」呼ばわりするほどにフォートリエ侯爵夫人を恨んでいるのは確かなようだが、どうやらそれだけの単純な想いではなさそうだ。
ふと、フォートリエ侯爵領で夫人の傍に駆け寄ったオードラン伯爵の姿を思い返してみる。夫人は伯爵にフォートリエ侯爵の面影を見ていただけなのかもしれないが、二人はエリアスに関係を疑われるほどには仲睦まじかった。
……もしかすると、オードラン伯爵は、本気でレディ・ミレーヌに恋をしていたのかしら。
言葉でこそ語られなかったが、レディ・ミレーヌを口説き落とそうとしたのはフォートリエ侯爵家の継承権を譲り受けるためだけではなかったのだろう。きっと伯爵は真剣に、レディ・ミレーヌの心と向き合っていたのだ。
その想いを踏みにじられ、自分より能力の劣る兄に継承権も初恋の相手も奪われては、憎悪に近い感情を抱くのも自然なのかもしれない。しかも、その兄が初恋の人を蔑ろにしていると知れば尚更だ。
「だから、壊すことにしたんだよ、あの家を。忌々しいフォートリエ侯爵家を」
オードラン伯爵の瞳には歪んだ光が浮かんでいた。みすぼらしい姿をしていても、この場にいる何人かを怯ませるだけの力のある眼差しだった。
「ああ、あの女の一人息子が死んだときは最高だったな……。まさか気が触れるとは思わなかったが、居もしない息子に向かって延々と笑いかけるあの女の姿を見たときには、初めて心が満たされたものだ」
この文脈でセルジュお兄様の話題が上がるとは思ってもみなかった。それに、この言い方はまるで――。
「――オードラン伯爵、まさか、あなたはセルジュ殿まで……」
珍しく動揺を露わにしたお父様の言葉に、オードラン伯爵はただにやりと笑みを深めるばかりだった。皆まで言わなかったにもかかわらず、お父様の短い言葉で誰もが最悪の展開を想像したのか、礼拝堂の空気が凍りつく。
「さあね……ご想像にお任せしますよ」
私たちの動揺を面白がるようなオードラン伯爵の笑みを前に、私はただ震えていた。エリアスと繋いでいるはずの指先が冷たくなっていくのが分かる。
まさか、そんな、セルジュお兄様まで?
エリアスを助けることに必死で、セルジュお兄様まで命を狙われていた可能性については考えたことも無かった。
確かにセルジュお兄様の死の知らせはとても急だった。セルジュお兄様はもともと病がちだったから、このような不運もあるのだろうと受け入れていたけれど、暗殺と言われればそれはそれで不自然ではないほどの急な死だったのだ。
ぽたり、と涙が一粒頬を伝って零れ落ちていく。セルジュお兄様はご病気で亡くなったのだから仕方がない、と、そう諦めることでお兄様の死を受け入れていた部分が大きかった。
それなのに、セルジュお兄様は実は殺されていたのだとしたら。私は、この理不尽に耐えられない。あの優しいお兄様が、伯爵の下らない復讐のために命を落としたなんて、許せるはずがない。
「っ……コレット」
私の涙に気づいたのか、エリアスがひどく心配そうな声音で私の名を呼んだ。世界で一番愛しい人の声にも、今だけはどうしても心を動かされない。
「このまま壊れ続けるフォートリエ侯爵家を特等席で眺めてやろうと、そう思っていたんだがな……。まさか、兄上とあの娼婦の間に息子がいたなんて知らなかったよ、なあ、エリアス君」
肩を抱くようにして、私を落ち着かせようとしてくれるエリアスの手が止まる。彼は、私を軽く抱きしめたまま、睨むようにオードラン伯爵を見やった。
「君は妙に運のいい子だったなあ、エリアス君。7年前に馬車に細工したときも、あっさり生き延びていたし、今回だって聖女様に救われる始末だ。ミストラル公爵家の失敗作に手を出すなんて、兄上譲りの悪趣味だと思っていたが……結果的にその子に命を救われているんだ。本当に運がいい」
「貴様……コレットを侮辱するのか……」
先ほどまで温厚に話を進めていたお父様が席から立ち上がり、オードラン伯爵を睨みつける。オードラン伯爵は罪人とはいえ、まだ国王陛下からの処分は言い渡されていない身だ。お父様の周りの者は、オードラン伯爵につかみかかりそうなお父様を宥めるのに必死な様子だった。
「あはは……誰も彼もが馬鹿みたいだな。この世は本当に下らない。愛だとか神様だとか天使だとか、ありもしないものに縋って楽しいのかね? 俺もそんな子供だましの御伽噺に酔えるような頭に生まれていれば、もう少し楽しく生きられたのかもしれないがな……」
ぽろぽろと、ただ涙が零れて行く。どの口が不幸を嘆いているのだ。なぜここまでのことをしでかして幸福に生きられると思っているのだ。
これほどまでに、誰かを憎いと思ったことは生まれて初めてだ。私は涙を流しながらも、気づけばぽつりと言葉を零していた。
「あなたさえ、生まれなければ……」
ここまで静寂を保っていた私の言葉に、礼拝堂中の視線が集まるのを感じる。オードラン伯爵も例外ではなかった。
「あなたさえ生まれなければ、セルジュお兄様も侯爵夫人もエリアスも……幸せに生きていられたのに。あなたさえ……いなければ……っ」
呪いのような言葉を吐けば、自分の心まで黒く醜く染まっていくような気がした。でも、それでも私は言わねばならなかった。私の大切な人たちを踏みにじった人を前に、ただ黙っていることは出来なかったのだ。
「生まれて来なければ、ね。随分苛烈な聖女様もあったものだ」
オードラン伯爵は、軽く咳き込みながらにやりと笑った。伯爵の虚ろな眼差しが、真っ直ぐに私に向けられる。
「仮に天使なんてものがいたとして……その天使とやらが大切な大切な『セルジュお兄様』を殺したって聞いたら、聖女様はどうなさるのかな?」
あまりに突拍子もない話に、頭がついていかない。
天使様がセルジュお兄様を殺す? 何を言っているのだろう。私はただ、目を見開いてオードラン伯爵に視線で問いかけることしか出来なかった。
「ははは、聡明だと謳われる割に、鈍い聖女様だ。……分からないか? 聖女様ともあろうお方が、生贄の話を聞いたことがないとは思えないんだが……」
「生、贄……?」
その言葉に、息が止まるような衝撃を覚える。オードラン伯爵は哄笑しながら、過去に酔いしれるように隈のある目を細めた。
「生贄、という言葉は本当に強大だよ。特に、敬虔な信者であるミレーヌの前ではなあ……。セルジュが生贄に選ばれたと告げ、彼を迎えに行ったときのミレーヌの表情は忘れられない……」
くすくすと笑いながら、オードラン伯爵は続けた。
「星鏡の大樹を讃えておきながら、いざ自分の息子が生贄に選ばれたら抗うんだから、信仰心なんてものは大したことないよな。信仰も何もかも放り投げて、必死に息子の命乞いをするミレーヌの姿は見ものだった……。ミレーヌにとってはセルジュだけが兄上との繋がりの証だもんな」
違う、そんな計算の上での愛じゃない。私の知っているフォートリエ侯爵夫人は、無条件にセルジュお兄様を愛する、世の優しい母親たちと何も変わらない方だった。セルジュお兄様が笑えば、これ以上の幸せはないとでも言うように、顔を綻ばせる慈愛に満ちた方だった。
そんな優しい母親から、一人息子を突然「生贄」として取り上げるなんて。
狂わない、訳がない。フォートリエ侯爵夫人のあの病みは、セルジュお兄様を何の前触れもなく、「生贄」として奪われたことによるものだったのだ。敬虔な信者である夫人が、星鏡の大樹への信仰を投げだしてでもセルジュお兄様を守ろうとなさったのに、オードラン伯爵は無惨にも親子を引き裂いたのだ。
オードラン伯爵は不意に口を噤むと、胸のあたりを押さえて一瞬痛みに耐えるような表情をした。やがて、何かを悟ったように意味ありげに微笑むと、今一度私に虚ろな眼差しを向けてくる。
「ああ、もう時間だな。……お望み通り、私はそろそろお暇させていただこうか。聖女様、良ければあなたの天使にこう尋ねてみてくれないか――」
その刹那、ごふ、と口から真っ赤な血を噴き出しながらオードラン伯爵はさも可笑しそうに笑った。
「――私の用意した生贄のお味は、如何でしたか、ってね」
それを最後にその場に倒れ込むオードラン伯爵に、慌てて騎士たちが駆け寄った。「毒だ」「なぜ隙を与えた!?」なんて言葉が飛び交う中で、私は目の前が真っ暗になるような絶望を味わっていた。
オードラン伯爵の用意した生贄の味?
ぞわり、と背筋が粟立つのを感じる。
ああ、天使様は生贄をどうするっておっしゃっていたっけ? 食べてしまうわけじゃなかったはずだけれど、ああ、でも、セルジュお兄様は――。
「コレットっ!!」
エリアスの言葉にはっと我に返れば、どうしてか息が苦しくてならなかった。沢山息をしているはずなのに、妙に胸が痛む。苦しくなれば苦しくなるほどに何度も息を吸ってしまう。肺に溜まった空気を吐き出したいのに、体が言うことを聞いてくれなかった。脈が信じられないほどに早まっている。
「っ……ここを出よう、コレット」
エリアスは涙を流しながら呼吸を早めるばかりの私を抱き上げると、礼拝堂の中の騒動を気に留めることも無く歩き出した。普段よりいくらか乱暴な仕草で礼拝堂の扉を開けると、そのまま冬の冷たい庭へと私を連れ出す。
涙で滲んだ視界の中には、真っ白な雪が舞っていた。頬に冷たい雪が舞い下りれば、たちまち涙に溶けて行く。肺を刺すような冷たい空気には痛みを覚えたが、その刺激が却って私を落ち着かせているような気がした。
エリアスは庭の中にある東屋で雪を凌ぐと、用意されていた椅子に腰かけながら私を彼の膝の上に降ろした。普段なら恥ずかしくて抗うところだが、今はとてもそんな気力も体力もない。ただ、エリアスに縋ったまま醜く喘いで泣き続けることしか出来なかった。
エリアスは、何も言わずに私を抱きしめ、ゆっくりと髪を梳いていた。冬はどうしてこんなにも静かなのだろう。この世界に、エリアスと二人きりになったような錯覚を覚える。
ああ、本当に、私とエリアスと二人だけだったら。それならばどんなに平穏で美しい世界なのかしら。今はもう、何も見たくなかった。考えたくなかった。ただ、傍にあるエリアスの温もりだけが、私をこの世界に留めているような気がしていた。
「っ……セルジュ、お兄様っ……」
息も絶え絶えに、ようやく口に出来たのはセルジュお兄様の名前だけだった。優しいセルジュお兄様は、こんな理不尽に巻き込まれて命を落としてもいいような人ではなかったのに。それなのに、どうして。
「――大丈夫だよ、ココ。大丈夫、だいじょうぶ」
エリアスは、私を抱きしめながら酷く優しい声音でそう呟いた。それは、確かにセルジュお兄様を彷彿とさせるには充分な演技で、余計に涙が溢れてしまう。
エリアスにセルジュお兄様を演じさせるなんて残酷な真似、二度とするまいと思っていたのに。私のこの弱さが、エリアスに自分を殺させる道を選ばせているのか。
それが情けなくて、私はただ首を横に振りながら泣き続けることしか出来なかった。
違う、私はエリアスにセルジュお兄様の面影を求めているわけではない。それなのに、今だけは「やめて」と言えない自分が嫌で嫌で仕方がなかった。
雪が降りしきる庭で、エリアスはただただ私を抱きしめ続けた。時折私を「ココ」と呼んでは灰色の髪を梳く彼の優しさがあまりにも苦しくて、残酷な現実から目を逸らすように、いつの間にか私は夢の中へと誘われていたのだった。
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