第12話 追章
「もうすぐ10月だってのにまだまだ暑いわねぇ」
「ホントホント。ウチのダンナなんて放っておくとまだエアコン付けんのよぉ」
中年の主婦が早朝から住宅街の路地で井戸端会議に興じている。
ゴミ捨て場の前であるにしても、日本中どこででも見られるありふれた光景。
夏の盛りほどではないにしても、時折蝉の鳴き声が聞こえてくるほど暑さが残っている。
事実、この住宅街もどこにでもあるような中堅都市の近郊にある、なんの変哲もないところだ。
「そうそう、聞いた? 東中学の2年の秋山先生、異動するんですって」
「えぇ~、こんな時期に?」
「なんかぁ、下関の繁華街でぇ、女子高生と援助交際してたんですってぇ」
「ホントにぃ?! でも、結構イケメンの先生じゃなかった?」
「そうなのよ! それで…あ、白河さん、おはようございますぅ」
「……おはようございます」
可燃物の入った地域指定のゴミ袋を手に近づいてきた女性に、話し込んでいた女性が挨拶をする。
「白河さんのところ、大変だったんですってぇ? もう落ち着いたのぉ?」
愛想のない返事を気にした様子もなく、さらに話しかける。
言葉の内容そのものは相手を心配する体をとってはいるが、その声音と表情は好奇の色が多分に含まれていた。
「……その節は色々とお世話になりました。何とか落ち着きましたから。それじゃあ失礼します」
白河と呼ばれた女性は一瞬表情を歪ませたものの、すぐに取り繕うように愛想笑いを浮かべると会釈をして立ち去っていった。
「ねえねえ、白河さんって、この間立て続けに娘さんが亡くなったってお家?」
「そうなのよぉ。あそこのお宅って、上の娘さんがさっきの奥さんのこと嫌ってて、高校卒業してから一度も帰ってこなかったのよねぇ」
「そうなの? そういえば私一度もお姉さんの方は見たことないかも」
「ああ、あなた引っ越してきたの10年くらい前だっけ? じゃあ知らないかぁ。あのね、あの奥さん病的なくらい教育熱心でさぁ。上の子が幼稚園の時からいくつも塾に通わせてて、勉強以外一切何も許さなかったらしいのよぉ。クラスの子と遊んだ事なんて一度もなかったんですって」
「うそぉ! それって虐待じゃないの? 確か教育虐待とか言うのよね?」
「そうそう! 可愛い顔してたのに人形みたいに無表情になっちゃって」
「あれ? でも、下の娘さんはすっごく派手な格好して遊び歩いてなかった? うちの子が有名なビッチだとか言ってたわよ?」
「反動じゃない? とにかく上の子は東京の一流国立大学に現役合格したんだけど、それから一度も帰ってないらしいのよ。そ・れ・に、下の子の方は痴情の縺れで殺されたって話だけどぉ、上の子も実は事故じゃなくて殺されたんだってぇ。まだ犯人も捕まってないらしいわよ」
「やだ、本当?」
「ホントホント。あ、そういえば捕まってないといえばさぁ、先週2丁目で空き巣があったんだって。それでね……」
バタン。
郵便受けから新聞と郵便物を取り出し、玄関に入った久美子は大きく溜め息を吐く。
どうせ今頃はさっきの主婦達の話のネタにされているだろう。
(人の気も知らないで!)
怒鳴り散らしたいという思いもないわけではないが、そんな苛立ちもすぐに萎む。
自分が精一杯の愛情を注いだ紗理奈が死に、全ての情熱を注いで教育してきた理恵も自分に反抗したまま死んでしまった。
警察から連絡があってから、何が起こっているのかまったく分からないまま親族の力を借りて葬儀を行い、つい先日四十九日の法要も済ませた。
やるべき事が終わった後は、何一つする気力が湧かず。
一日のほとんどをぼんやりと過ごしている。
リビングに入ると朝食を終えた夫がカバンを手に立ち上がったところだった。
「もう出るの?」
「ああ、今日は多分遅くなる。食事はいらないから先に休んでてくれ」
「……そう」
久美子の方を見もせずに素っ気なく言い放つ夫に、久美子もまた言葉少なに返した。
ここ数年、夫ともほとんど会話をしていない。
熟年夫婦であればさほど珍しくはないのかもしれないが、東京の大学に進学した理恵に続き、こちらで問題を起こし、逃げるように紗理奈が逃げるように出て行ってからこんな状態が続いているのだ。
自分の人生はいったい何だったのだろうか。
このところ毎日のように久美子は考えてしまう。
自分は精一杯やってきたはずだ。
理恵に勉強を強制したことだって、確かに自分のコンプレックスの裏返しという面もあったかもしれないが、自分のように辛い思いをさせたくないと考えてのことだ。理恵に対する愛情がなかったわけではない。
理恵はそれができる娘だと思っていたし、実際その努力が実って一流大学に進学し、大手企業に就職できたのだ。
紗理奈は、自由にさせすぎたという反省はある。しかし、それも理恵にしてやれなかった分、せめて紗理奈には自由にさせてやりたいと考えたからだ。
理恵にしても紗理奈にしても、少々いきすぎた面はあるとは思うが、自分なりに娘達の事を考えた末にしてきたことなのだ。
久美子には自分がどこで間違ったのか理解できなかった。
虐待には2つのタイプがあるという。
ひとつは、自分の行動が虐待だと認識していながら少しずつエスカレートしていくタイプ。
もうひとつは、子供のためという建前を自分でも信じ込んでいて、虐待しているという客観的な判断が出来ないタイプだ。
久美子は後者といえるだろう。
夫もまた久美子が感情的になるのを忌避するあまり妻が嫌う行動を避け続けた。その結果が理恵と紗理奈であり、その2人が家から居なくなったことで決定的にバランスが崩れてしまっていた。
夫の居なくなったリビングで久美子は癖になってしまった溜め息を吐くと、テーブルを片付け始めた。
食器をまとめて流しに持っていき、台拭きでテーブルを拭く。
「あら?」
と、先程新聞受けから取り出した物の中から一枚の封書が覗いているのに気がつく。
「はぁ。また入ってたのね」
それは、理恵が亡くなった日の前後からポストに投函されるようになった、宛名の書かれていない封筒と中に入っている白紙のコピー用紙だった。
「誰の悪戯かしら? 本当に趣味の悪い」
忌々しげにそう呟く久美子の後ろ、リビングのチェストに置かれた鏡には覗き込むような”目”があった。
白い手紙 月夜乃 古狸 @tyuio
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