攻防戦・第二ラウンド
かわいらしい丸太小屋を狼の群れが取り囲んでいる。
まだ目視で確認できていないが、十中八九間違いない。
「狼は頭がいい生き物だ。人間が思っている以上に賢く、社会的だ。群れのリーダーは基本的に一番強い奴がなるけど、参謀役を他の個体に任せる奴もたまにいる。今回はどうかな……やり方を間違えると、ボスを叩いても終わらない可能性もある」
「へえ。詳しいな」
ガナンが感心したように唸った。
キース族は狩猟民族だ。農地を持たないから採集や狩猟で食糧を得ている。幼少期から、狩猟専門のチームの人に基本的な知識や知恵を教え込まれているので、これまで問題なく野宿生活を送ることができた。
だがそのことはガナンにあまり教えたくない。与える情報はなるべく少ない方がいい。だから肩を竦めてこう答えた。
「そりゃ、一人で放浪生活送ってたら詳しくもなるさ」
「なるほど。それでどうする? 幸い、銃や弾薬の備えはある」
眉を寄せてガナンを睨んだ。当の本人は隈の浮いた顔をへらりと緩めている。
「あんた指示役の
「たまには他人の指揮を見て勉強したいんだよ」
「指揮官とかそういうタイプじゃねえんだけどなあ……」
「大丈夫だいじょうぶ、あの“魔女”の弟子なんだろう?」
“魔女の弟子”。
スイッチが入った。あまり入れたくないスイッチが。
「ふざけんじゃねえよガナン、テメエあとで缶詰食わす」
「なんで急に不良みたいに!?」
「それだナダ」
と、イコがぽんと手を叩いた。
「缶詰。使おう」
「お前ら、用意はいいか?」
全員と繋いだ通信機に呼び掛ける。それぞれ応答があったのを確かめ、作戦のおさらいを始めた。
「俺とガナンでブツをバラ撒き、ローズとベイがそれを撃って穴をあける。イコは見張り。ラッドは外で囮」
『なんでェ!?』
「話聞いてみりゃお前、群れの斥候を殺したらしいな。そりゃ狙われるわけだ。狼は生き物の中でも“報復”ができる種族だ」
社会性を持った生き物で、群れの内部の上下関係もきっちりしている。逆を言えば、突く場所を間違えば報復や復讐をしにやってくる生き物でもある。
やらかしたラッドが割を食うのも必然。というか、狼の目当てはラッドなので、奴には外にいて貰わなければ話にならない。
「とはいえかなり大きな群れだ、あまり殺しすぎると山の生態系が崩れかねない。俺らに手出しができないと悟らせ、諦めて帰ってもらうのがこっち側の勝利条件。そこ、各自理解してるな?」
『分かったわ』
俺はガナンと一緒に屋根に上がった。夜闇に紛れて既に相当な数の狼がログハウスを取り囲んでいる。
「行くぞ……3、2、1──始め!」
合図を出すと同時、缶詰を地面に向かって次々と放り投げた。狼が吼え始める。が、警戒しているのか、輪を狭めることはない。
「いいぞ。ベイ、ローズ、撃て」
『了解』
小屋の窓から銃弾が放たれる。地面で跳弾する音、ガキンという破壊音が立て続けに響き渡る。
『オッケー。缶詰、全部穴あいたよ』
「サンキュ、イコ。さあて効果はどうかな」
狼は嗅覚が鋭い。人間の何十倍とかいう話だ。
そんな鼻で、世界二大悪臭食物の臭いがばら撒かれるとどうだ。文字通り鼻が曲がり、獲物を追いかけるのも諦めるかもしれない。
狙い通り、狼たちは可哀そうな鳴き声を上げながら撤退していった。外にいるラッドが地面に倒れ込んだ。通信で呼びかけたが反応がない。まあ悪臭ごときで死にはしないだろう。
(……まだいるな)
群れが引いて行った林の奥で、動かない気配をいくつか感じる。
群れのリーダーか、もしくは頭のいい奴だ。
「ちょっと行ってくる。ガナン、少しここを頼む」
「どこに行くんだ?」
「散歩」
ガナンの制止を聞き流して屋根から飛び降りた。ラッドの屍を通り過ぎ、明かりの差し込まない林へ足を踏み入れた。
寒い。だけど、キース族はもっと寒いところで生きていた。マフラーを巻き直して暗闇に目を凝らす。
キュウンと仔犬のような鳴き声。
足元で丸まっている狼がいた。よく見れば、草陰や木陰にも何匹かいる。
それを眺めていると、一匹が足音もなく寄ってきた。こいつは鼻をやられていないらしい──側近の狼だ。
「案内してくれるのか」
黙ってこちらに背を向け、奥へと歩き出した。俺も後を追う。
人間を物珍し気に観察する、警戒を滲ませた視線を幾つも感じる。だから俺はわざと足音を立てながら歩く。「戦いに来たのではない」というせめてもの意思表示だ。
しばらく行くと開けたところに出た。古くなった大木が倒れ、草原ができている。
その倒木の上で空を見上げて匂いを嗅ぐ狼がいた。他とは違い、どこか凛とした佇まいでいる。あるいは差し込む月光がそう見せているのかもしれない。
側近の狼が立ち止まった。黙って俺を見上げている。「行け」ということか。
一歩、前へ進み出て呼び掛けた。
「こんばんは。いい夜だ」
空気を嗅ぐ鼻の動きを止め、ゆっくりとこちらを振り返った。
若くはない。そして小屋へ攻め込んできた狼たちよりも落ち着きを感じる。それでいて、奥深くに鋭さと狡猾さも秘めている。
間違いない。
群れの長だ。
「招いてくれたこと、先ずは感謝を。貴方の配下の者を、こちら側の者が殺したと聞いた。あ奴に代わり詫びさせてくれ。すまなかった」
抑えた声でそう言うと、長は倒木を降りてこちらへ歩み寄ってきた。
体が大きい。月明かりを跳ね返す見事な毛並みが、動きに合わせてゆらゆらと揺れている。
片膝をついて目線を合わせた。獣の目が俺を品定めする。
その目を見つめ返していると、根拠のない結論が胸の内に閃いた。
「……俺か。貴方の目的は」
言葉が通じているのかいないのか、反応はない。だが確信した。
この群れはラッドへ報復に来たのではない。生物の理から外れた人間、つまり俺を調べに来たのだ。自然界に生きる狼たちだから、俺の内に自然現象の一端があることを見抜き、警戒したのだ。
やはり野宿中に感じた視線は狼のものだった。俺はずっと見張られていた。一度は人里へ降りたのに、またも山へ戻ってきたから、奇襲をかけた。こういうことだろう。
「貴方はここら一帯の山の
堂々たる立ち振る舞いは生物の頂点にある者のそれだ。俺を山にとってあだなす者か、自身の目で見定めに来た。
聡い生き物だ。誠意を差し出すべき生き物だ。
「俺はたしかに、山の理を変え得る力を持っている。しかし無闇にそれを振るうつもりはない。貴方たちの敵ではない。今夜のうちには山を下り、明日月が昇る頃までにはこの地を去ろう。それで構わないか」
手を差し出すと、鼻を擦り付けてきた。濡れた感触がして少し笑ってしまった。
成立だ。俺は立ちあがった。先ほどの側近の狼と、他にも数匹が近くへ寄ってきた。
「主よ、貴方に敬意を。賢いあなたがその座にある限り、この山は栄えよう」
□ □ □
狼たちに護られて林から出ると、意識を取り戻したラッドが腰を抜かした。
ベイとローズがすかさず銃を構える。二人ともいい護衛だ。
「大丈夫。もう襲わない」
「どう……なってるの……」
片手を挙げて制すると、ローズはおろおろと銃を下ろした。無理もない。普通、野生動物と和解など成立しない。
この狼たちはリーダーに恵まれている。聡明で賢いから、こちらの誠意と言葉の大筋が伝わった。時たま、頭のいい生き物は人間の意思を感じ取ることがある。
膝をついて、護衛してくれた狼たちの頭を撫でてやった。満足すると、側近を先頭に再び林の闇へ姿を溶かして消えた。
「話をつけてきた。俺たちは明日には町を出なきゃならない」
「え、待って。話ってどういうこと? 狼と話し合い? 町を出るって何?」
「頭のいい生き物は言葉が通じるんだよ」
「ちょっと何言ってるか分からないんだけど」
まあそうだよな。
せっかく起きたのに再び地面に倒れたラッドを見て、やれやれと溜息をついた。
「──ということだ。悪いが早急に出て行かなきゃならない」
林での出来事を共有すると、皆一様に目を白黒させた。
ちょっと面白いと思ったのは秘密だ。
「山の主との取り決めだ。破ると何が起こるか分からない」
「えーっと……君、なに、獣を統べる能力もあるの?」
「ガナン、お前何言ってんだ。そんなわけねえだろ」
「それは僕のセリフだよ?」
傍目に不思議なことを言っている自覚もあるが、事実だ。野山や谷は獣たちが統べる世界、その頂点に立つ者は主となり、生き物たちの調整役を担う。人間が介入しえない不思議な仕組みだ。
郷に入っては郷に従えとは、必ずしも人間の関係性の話に限らない。人間界には人間界の掟やルールがあるように、自然界の掟には従わねば、淘汰されるのはこちらだ。
「ナダ。それって、私たちも出て行かなきゃならないかしら」
ダイニングテーブルでガナンの隣に座るローズが首を傾げた。栗色の長い髪の毛が揺れる。
俺は首を振ってみせた。
「主が警戒していたのはラッドじゃない、俺だ。キースの能力を感じ取ったらしい。二人は俺たちが来るよりずっと前からここにいた。引き続きここで生活しても問題はないと思う。まあ、使いの狼が来たら、その時に対応すればいい」
「誰もがあなたみたいに動物と仲よくできる訳じゃないのよ。けど、ひとまずそうね、分かったわ。ボスには振られたって伝えておく」
……嘘をついているようには見えない。
視線を送っていると、ローズはふっと笑んだ。
「何よ。信じられない?」
「こっそり俺らを監視するんじゃないか」
「ストレートに聞かれて正直に答えると思う? 正直なところ、他にも仕事があるのよ。あなたたちの監視なんて骨が折れそうだし、肩の荷が下りてせいせいしたわ。それにガナンも休ませなきゃね」
「休んでるでしょ」
「全然足りない。今のあなたに課せられた仕事は“休息”よ、分かってるんでしょうね」
ローズは一体どんな“休ませ方”をしているんだろう。気になるが、世の中知らない方が吉と出ることもある。
イコとベイに声をかけて、席から立ちあがった。これ以上ボロを出す前に退散したい。頭がいいフリなんかするものじゃない、こめかみがズキズキと疼いて仕方がない。
「そうそう、ナダ」
玄関の戸が閉まる直前、ガナンの声が追いかけてきた。
「ジゼル殿によろしく」
──パタン。
足の裏が地面に縫い留められたようだ。
渇いた喉を潤そうと生唾を飲み込む。あまり効果はなかった。ただ粘つきを増しただけだった。
動かない俺を、ベイとイコが怪訝そうに振り返る。二人は何も問わない。銀色の光を冷たい風が、ただ揺らす。
「車の中で話そう、ナダ」
武骨な手が俺の肩を揺らした。車の助手席に押し込まれた。
「あんまり動揺すんな。こうやって揺さぶりを掛けんのはガナンの常套手段だ」
「でも……だけど、ベイ」
助手席から見える景色からどんどん色が失われていく。
最初から世界に色なんてなかったかのように。
「あいつ、まるで俺が故郷に帰るのを知ってるみたいじゃないか」
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