断髪式と来訪者①

  ○ ○ ○






 ナダの暴走が収束するまで、数時間はかかった。

 夜明け頃に始まったそれは、太陽の動きに合わせるかのように植物を芽吹かせ、生長させ、赤土を緑に変えていった。まばらに低木の並び立つ林が豊かな森に変わったのを、地元の人たちが見過ごすはずがなかった。


 ガラクトの人たちが取り憑かれるはずだ、と得心がいった。その様は奇跡としか言いようがなかった。かつて戦争のあった土地で、いまだ爪痕の残る死の土地で、新しい命が次々と芽吹いていく。


 わたしは“ナダ”という人と知り合った後で能力を見た。だからナダは人間だと知っているし、人でいようと努めているのも知っている。

 だけれどもし、能力を先に見ていたらどうだったろうか。もしかするとナダを神様か何かと捉えてしまったかもしれない。ちょうどミズリルたちがそうであったように──そんなことを思いながら、ただ何もできずに突っ立って変異していく森を眺めていた。


 そしてベイも、森をじっと注視していた。ガラクト人は気配察知に優れているのか、はたまたベイの紛争経験値か、ナダが力を使う時の気配のようなものを感じ取れるらしかった。






 ベイは当たり前のように、刺客たちを撃退しながらナダを迎えに行った。傷一つ負わずに車に乗り込み、端的に行き先と道案内をし、わたしは言われるままに車を走らせた。

 着いた病院で何やら医師とやり取りを交わした末、気絶し傷だらけのナダは一般病棟ではなく個室を使わせてもらえることになった。ベイが武器を携行して見回ることも許可が出た。


「どんな手使ったの」

「真っ当な手段だよ。金だ」

「……真っ当ねえ」

「半分は口止め料にな。情報を外に漏らしたら、俺らより病院が酷い目に遭うだろ」

「まあそうだね」


 わたしとベイは休憩室をあてがわれた。ベッドと洗面台、それにトイレがついているから、しばらくの宿代わりになる。仮にナダが早く目覚めても、当分は休息が必要だろうとドクターは言っていた。


 ベイと二人、味気ない夕ご飯を飲み込んでわたしは眠る支度を始めた。時間が過ぎ去るのがとても速い。時計はもう十時過ぎを指している。


(全然眠くないなあ)


 ベイは見回りに出かけてしばらく戻ってこない。「ミズリルたちがいなくなったとはいえ気が抜けねえ」と神経を尖らせている。たしかに、“オホロ”に魅せられた土地のど真ん中で、ナダという爆弾を抱えているわけで、警戒するのも当然のことだ。

 久々に一人になった気がする。手ごろな部屋に果てしない広さを感じながら、パジャマに着替えて、歯を磨こうと洗面台に立つ。


「……髪、伸びたな」


 広い鏡に、映るのはわたし一人。

 茶髪とブロンドの中間、とても中途半端な色の髪を、ナダは綺麗だとほめてくれる。わたしがほったらかしにしてボサボサにしたのを梳いてくれる。

 ナダと出会う前までは、常に肩に届くギリギリの長さを保っていた。美容師をやっているアリカ叔母ちゃんに頻繫に切ってもらっていたのだ。

 それが、鏡の中に映るわたしの髪は、櫛で梳かすと胸元まで伸びている。


 ここ最近は何故か切る気が起きなかった。

 梳かしてくれる白い手が、思いのほか心地よかったみたいだ。


 『だって思い出さない? 小さい頃のことをさ』


 背後で声がして、勢いよく振り返った。

 誰もいない。ああ、でも、


 『どうしてわたしは髪を切るようになったんだっけ? わざと手入れしないで、ボサボサのまま大きいキャップ被って、服だってテキトーなのを選んで、男か女か分かんないようにして』


 息ができない。振り向いたまま動けない。

 鏡の方を向きたくなかった。意地悪く囁く“わたし”の声はどんどん絡みついてきて、耳元にまで登ってきた。


 『だって見てみなよ。髪伸ばしたわたしって、お母さんに超似てない?』


「……うるさい!」


 歯ブラシを鏡に投げつけた。カランという硬質な音が、わたしを一時現実に引き戻した。

 でもそれも気休めでしかなかった。すぐにまた、耳を膜で包んだように外界の音がくぐもって、ケタケタと高笑いが響いた。


 鏡のわたしが、血だらけのお母さんに変わる。

 わたしとそっくりな髪のお母さん。目の前で車に轢かれて、すぐに死ねず痛みにのたうち回っていたお母さん。ああ可哀そうに、額がざっくり割れて中身が見えたまま、青ざめた顔でふらふらと立っている。


 『人が死んだねえ、目の前で。頭が割れて、そこから中身がたくさん溢れ出て。髪が伸びたお前はお母さんそっくりだねえ。まるで生き写しじゃん。お母さんはとっくの昔に死んでるのに! アハハ!』


「やめて……やめて、黙れよ……」


 目を逸らせない。どうしたらこの血だらけのお母さんは消えてくれるだろう。

 ナダなら、ナダがいれば、あの白い手があれば、こんなものなんか簡単に消え失せるのに。お母さんから血が出てくることなんてないのに。




 だけど今、ナダはいない。




 金縛りにあったまま目だけを動かして、鏡から視線を外した。ハサミがあった。そんなもの置いたっけ、そういえばパンの袋が開けられなくて、さっき使ったんだ。

 ハサミに向かって手が吸い込まれるように動いた。この幻覚を消す方法を思いついた。絶えずケラケラ笑い続ける声を、



 ジョキン。


「うるさい」


 ジャキン。


「消えろ」


 ジョリ、パチン。

 ジャキジャキ、ショリン、ジョキン。


「黙れ、うるさい、消えろ、消えろ消えろ消えろ、いなくなれ、どっか行け、消え──」


「イコ!」


 突然ものすごい力がわたしを捕えて、腕の自由が利かなくなった。ハサミが手から取り上げられていった。視界から鏡が消えた。体ごと何かに引き寄せられて、目元を手で塞がれたせいだと遅れて気がつく。

 わたしは今どんな体勢をしているんだろう。ガラクトは暑いのに、体の隅々まで冷え切って、存在感が朧気になっている気がした。



「イコ。ゆっくり息吐け。吸うんじゃなく吐け。ゆっくりな」

「ぁ……、ぅ、フゥー……ッヒ、ヒ、ハ、」

「吸うことは考えんな。とにかく吐け、途中で吸ってもいいから吐ききれ。この前ナダにやってもらってたろ、あれ思い出してみろ」


 ナダ。白い手が、肩を抱いて落ち着くのを待ってくれたんだった。

 必死に瞼の裏に白い姿を映し出しながら、いつの間にやら暴れまわっていた呼吸を落ち着ける。


「う、フゥー……ッ、フ、ゥー……」

「吐ききったな。じゃあ力抜け。もう大丈夫だ」


 強張っていた力を抜くと、一気に体の感覚が戻って来て重力に逆らえなくなった。

 ぐにゃりと力の抜けたわたしを、ベイが背後から抱きすくめる形で受け止めていた。少しもブレない腕に安心感を覚える。


「わたし、どんな顔してる?」


 部屋の外から数人分の慌ただしい足音が聞こえてくる。

 ベイが呼んでくれたのかな、とぼんやりと考えた。


「疲れたんだよ、お前。いろいろあったからな」

「そうだね。疲れたね……」


 ポンポンと撫でてくれる武骨な手はナダより数段熱い。実はこの男、顔に似合わず頭を撫でるのが上手で、わたしもナダも時々撫でて貰っては安心感を得ていたのだけど、今回ばかりは物足りない。


「……ナダ、早く起きてくれないかなあ……」


 瞼を閉じると、目尻から涙が流れていくのを感じた。






  □ □ □






「『俺のせいだ』とか言うなよな」


 両手で顔を覆うベイに、そう呼びかけた。

 イコの心労の要因は、たしかにベイが占めるところは大きいだろう。俺の制止を振り切ってミズリルたちを殺し、そのまま何の説明もなく去ってしまったのだから。

 だがきっとそれだけではないのだ。あの事件はただの引き金で、本当はもっとずっと前から蓄積していたものが、堰を切ったように溢れて止まらなくなってしまったのだと思う。


「……目、離すべきじゃなかった」

「それでもだよ。言っちまえばみんなに少しずつ責任があって、誰にも非はない。そういうのは責められないだろ」

「お前ホントに十八かよ」


 空が白んできていた。月明かりが薄れ、先ほどよりも少しばかり暗く感じる。

 廊下から静かな足音と、点滴棒が転がる音がする。それはこの部屋の前で止まり、スゥッとスライドドアが動いた。


 首半分くらいでザンバラ髪になった、無残な姿のイコがいた。

 イコは俺を見るなり、ぱあっと顔を晴らした。


「起きてる!」


 一瞬喉が詰まったが、咳払いして誤魔化して笑みをつくった。


「うん。おはよう」

「あはは、声めっちゃかすれてんじゃん。水飲んだら?」

「飲んだよ。だいぶマシになったんだよ、これでも……あいたたた」


 大暗黒の顔色をしたベイが空けた椅子には座らず、イコはベッドの端に腰かけた。近くで見ると余計に痛々しい。切り口のバラバラな毛先に、首元に包帯が巻かれている。イコも俺と同じ入院着を身につけていた。

 そんな恰好をしながら屈託なく笑うものだから、より悲痛だ。


「重症だねえ」

「っつうー……人のこと言えんのかよ、何だよその断頭台帰りみたいな恰好。どうした?」

「お、そこ触れちゃう? いいでしょ斬新なスタイルで。時代の最先端だよ。女子の変化に気付けるとは、ナダも中々……あっごめん、仮にも自分のカレシに何ということを……」

「もうそのカレシネタ飽きたから。せめて後で、床屋行って整えてもらえよ」


 すっかり短くなってしまった砂色の髪に触れる。柔らかい。

 イコは笑いながら首を振った。


「嫌だよ。ナダにやってもらうんだ」

「ええー? 俺、床屋じゃないんだけど」

「そこそこ器用じゃん。料理上手いし。いけるって」

「いやいや。髪はマジで専門外だ。ちゃんとした人に──」

「ナダがいい」


 キッパリとそう断った。

 気圧されて、返事に一呼吸を要した。


「……もうちょっと動けるようになってからな」

「うん。予約済みだからね、絶対だよ」

「分かった」


 安心しきったように笑みが深まったと思うと、イコの体から力がふっと抜けて布団の上に倒れ込んだ。

 気絶したように見えるが眠っているようだ。目の下にはくっきりと隈が出来ている。


「ベイ」

「ん?」

「俺、ちゃんと……」


 せっかく止まった涙がまた流れてきた。

 一度は乾いた薄緑の袖が再び濡れていく。


「男だよ、お前は」


 日が射し込んできた。朝がやってきた。






  □ □ □






 回診にやってきた医者は、目を覚ました俺を見てにっこり笑った。


「よし。もう一週間入院」

「えっ」

「『えっ』じゃねえ。まる十日意識不明、絶食で点滴してた患者をホイホイ娑婆シャバに戻せるか、アホぅ」


 面食らった。片眼に眼帯、大きくはだけたシャツの襟、浅黒い肌に白衣が翻る。

 どうして俺を診てくれる医者はガラの悪い人しかいないんだろう。闇医者じゃなかろうな。


「若いっつっても養生せんとな。二、三日ぐらい粥で慣らして、その間怪我も回復させる。いいな」

「ええー……粥じゃ全然足らん……」

「返事は?」

「……はい」


 圧が凄い。こんな人を相手にどうやって入院をねじ込めたんだろう?

 ……まあベイならできても不思議ではない。


「そんで、そこで爆睡こいてるお嬢ちゃんだが」


 ドクターの隻眼が俺からイコに映った。明け方とは逆で、俺がベッドの端に座り、イコが布団をかけて眠っている。これだけ騒がしくても起きる気配がない。


「派手に包帯巻いちまってるが、怪我自体は大したことねえ。ハサミがちょっと首に当たっちまっただけだ。問題のメンタルもまあ大丈夫だろ、カレシも目ェ覚めたことだし、そもそも俺ァ精神科は専門外だ」

「カレシじゃねえです」

「そうかい。ま、気張れよ、男なら」


 聴診器を当てたり怪我の具合を見たりして、ドクターは満足げに看護師に二、三指示を出して病室を後にした。片脚が義足で、杖をつきながら歩いていた。


「紛争で衛生兵だったんだってよ」


 その様子を見送っていると、浅黒い肌の看護師は俺に体温計を突き出してそう言った。


「地雷で脚吹っ飛んで、片目に破片刺さって失明だとさ」

「うわぁ……」

「よく生きてたな。運が悪けりゃ内臓破裂して死んでた」

「生々しい話やめてくれ、ベイ。……なあ、ドクターは何も言わなかったけど、イコはここで寝たままでいいわけ?」

「いいんじゃない? 君も手ェ出したりしないでしょ。ヤるなら近所に迷惑かけないようにね、寝てる患者も多いから」

「出さねえです。そういう関係じゃないって今言ったばっかりだろ」

「たしかにその怪我じゃ無理だ」

「ねえ話きいて」


 あまり表情豊かとはいえない看護師だが、ノリが軽い人だ。テキパキと点滴の袋を付け替えて、カルテに記入を済ませた。


「ふうん……熱高いね。まあずっと布団にいたからでしょ」

「テキトーだなあ」

「じゃないとやってらんないっての。患者は君だけじゃないんだよ? 君若いし、怪我のほかは元気だし、何かあったらナースコール押してよ。そこのオレンジのボタンね。お兄さんが呼びに来てもいいんだけど……あんたもそこそこ重傷だったからねえ。火傷の調子、どう? 処置が良かったから跡は残らないだろうって、先生は言ってるけど」

「俺ァ平気だ」

「だろうね。あ、お嬢ちゃんの髪、君が整えるんだっけ? あとで道具持ってくるからー」


 ステンレスのワゴンと一緒に看護師のうしろ姿がドアの向こうへ消えた。

 よく喋る人だった。あっという間に静寂が戻ってきた。


「俺も出て行こうか?」

「お前まで悪ノリすんなよ……さて、これからどうするか考えよう」


 小さなテーブルにベイが地図を広げ、俺の座る方へ寄せてくれた。

 ベイがここ一週間ほどで集めた情報は、主に新聞やラジオによるものだというが、山が急に森を抱いたという話のほかは平穏なものだった。例えば身元不明の死体が三つ見つかっただとか、そういう話はないようだった。


(やっぱりミズリルの三人は……)


 死体を検体として持ち去られたとみていいだろう。フィーだけでも死体を処理できたのが救いだ。

 依然、盗賊の被害や失踪事件は一定数あるらしい。紛争が終わっただけでは平和が訪れることはないのだ。


「本当のところを言うと、ザンデラ山のルートはあまり採りたくねえんだ。ラヒムたちが使っちまったからな。仮にGHCが俺らの敵に回っていたとすると、待ち伏せの可能性がある」

「何、GHCって」

「俺らの会社名。……聞いてなかったのか?」

「初耳デス。そんな、落ちて割れた生卵見るような目しないでくれよ……じゃあどこからなら抜けられそうだ? 例えばこの山道、予定ルートの東側」


 小さくて分かりにくかったが、ザンデラ山の少し脇にも道があるようだ。

 ベイは顎をさすりながら唸った。あまり情報がないらしい。特に盗賊が出たなどという話がない以上、危険というわけでもないらしいが……。


「安全とも言い切れねえ。三人とも本調子じゃねえから、なるべく安全なルートを取りてえところなんだが……」

「他によさそうな道がないんだろ」


 十日も時間を費やして尚、ベイに提案がないということは、そういうことだ。

 待ち伏せ覚悟でザンデラ山をいくか、情報の少ない東の山道をいくか。

 悩んだ末、ベイの指が地図の一点を指した。


「ザンデラでいこう」

「待ち伏せは?」

「ラヒムたちは一度キャンプへ戻ると言っていた。俺らを待ち伏せするなら綿密に計画を練りたいはずだ。何せナダがいるからな」

「俺は怪獣か」

「似たようなもんだろ。ラヒムもああ見えておくびょ……な男だから、確実に取れる算段をつけてから臨みたいってのが本心だろう。指揮を執ってた俺の後釜はたぶんルアクになるはず、奴も慎重派だ。無茶な真似は絶対にしねえ」


 サラッと「臆病」と言いかけた。気持ちは分かるが、分からなくはないが、あまり言ってやると可哀そうだ。


「つまり待ち伏せするならもっと後の話になるって、そう言いたいのか?」

「そういうことだ。まあ希望的観測だがな」

「いや、十分だ。それにガナンたちを探すのに手間取ってるかもしれない。少しでも楽な道を行きたいしさ」


 ため息をついて右手を開いたり閉じたりした。“記録”のために傷つけた手のひらがもう塞がっている。たくさん寝たからだろう。

 便所に行こうと立ち上がった。手助けしてくれたベイを、ふと見上げて首を傾げた。


「ベイ、お前、背ェ縮んだか?」

「バカか。逆だろ。お前が伸びたんだろうが」

「へえ、この歳になっても伸びるものなんだなあ……」


 立ち上がった時に覚えた眩暈は、自分の身長がやや高くなったせいもあるのかもしれない。やはり睡眠は大事だなあと、軽くなった体をトイレへ向かわせながら俺は思ったのだった。

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