記憶──悲しいこと①
■ ■ ■
ガラクトではたくさん人が死ぬのを見た。元ミズリル兵が三人だ。
目の前で殺されゆくのを止めることができなかった。俺が手を下したんじゃないから余計に悔いが深い。
だが、命を助けたところで、結局苦しみを長らえさせるだけだったのではないかとも思う。
……そんな考えに及ぶ自分に嫌気がさす。
人が死ぬのは嫌いだ。
キース族では“外”よりも人死にが多い。三百年前の書物から医療の知識はそれなりに得ているも、環境と機材がないばかりに、大したことのない病や怪我で命を落とす者も少なくない。
打ち所が悪かった上に適切な処置が出来ず、骨折をきっかけとした感染症で死んでしまった若者がいて、それが初めて体験した“死”だった。
葬式で涙を流していいのは、遺体を焼く時までと決まっている。
族長か副族長が祭祀を執り、遺体を灰にして風に乗せてばら撒く。それが済むまでにひとしきり泣いてしまって、あとは故人の楽しい思い出話に花を咲かせる。
隠れ暮らしている俺たちは普段騒ぐことを禁じられているが、代わりに葬式の時はその禁も解かれる。でも初めての葬式で俺はいつまで経っても涙を止められなかった。
そんな俺を父さんは隅の方に呼び寄せて、泣き続ける俺にゆっくり付き合ってくれた。
「悲しいな、ナダ。その心は大切なものだ。死の気配と常に隣り合う我らは、その感情が鈍りがちだ。目を背けなければやっておれん。だから今のうちに良く向き
「……父さんは悲しくないの」
「悲しくないと言えば嘘になる。ううむ……悲しいというより“悔しい”という方が正しかろうな。いくら救う術を知り得ても、キースにはそれを可能にする環境、機材、そういった持ち合わせがない。ああ何と歯がゆい!
父さんは一族の長だった。二十歳の頃にはもうお役目を頂いて、双子の兄ジルと共にキース族を率いてきた。
小さい頃の俺はそれがとても誇らしかった。俺は頭が良くないから、長になることなど少しも考えなかったけれど、今振り返っても父さんは静かながら圧倒的なカリスマ性を持ち合わせていた。
だが時折こうして、苦悩の欠片のようなものがこぼれ落ちることがあって、その度心配になった。いつか押し潰されてしまうのではないか、と。
……同時に仄かな安心感も覚えていた。
父さんは長として完璧で、一片の綻びもなくて、時々本当に同じ人間だろうかと疑っていたから。
そんな父さんは母さんが大好きだった。
それはもう溺愛、周囲の人間が引くくらいに愛していた。
息子である俺のこともまた然り、チラとでも視界に入ろうものなら電光石火の如く飛んできて、二人まとめて抱き締めてくるのだ。俺が一人でいる時は「高い高い」のオプション付き。七つくらいの俺を抱き上げて腰を痛めてからようやくハグに留まるようになった。
それくらいオンオフの激しい人だったが、むべなるかなと思うところもある。
俺には、本当は兄と姉がいるはずだった。
母さんは体の弱い人で、兄は腹の中で死んで流れ、姉は未熟児で生まれた直後に死んでしまった。ようやく成熟児として生まれた俺も最初産声を上げなかったから、それはもう肝を冷やしたと、俺を取り上げた産婆さんが言っていた。
ようやく息子を授かったと思いきや、産後の肥立ちが悪かったのか今度は妻の体がますます弱くなってしまった。床に臥せりがちでどんどん痩せていく大切な人を、しかし自分は何もできないと奥歯を噛むしかない。
苦しみは取って代われない。だから父さんは長として出来る限りのことをと、医療班の体制強化や衛生管理整備に努めた。
母さんは母さんで、具合が悪かろうがやつれていようが、いつもニコニコと笑んでいる人だった。
だけれど時折、何かを堪えるように動かなくなることがあった。昼間はじっと耐えて、夜に一人で枕を濡らすのだ。そう、父さんが族長の用事で帰りが遅い時などは決まって泣いていた。
「母親はね、子ができたら子がすべてになるのよ」
父方の伯母さんは母さんと仲良しだったから、時々俺にそう言い聞かせた。ナダのことが見えてないわけじゃない、でも見失うくらい悲しいことなのだと。
でも普段はとても優しくて明るい人だったから、あまり寂しい気はしなかったように思う。何より父さんと同じくらいに家族を大切にしていた。手先が器用で、細い指で紐を編み、父さんと俺に髪紐や腕飾りをよく作ってくれた。
「まじないを籠めてあるのよ。怪我をせぬよう、災いに行き合わぬよう、人との和を保てるよう」
「でもおれ、この前転んだよ」
「ふふ、子どもは沢山転んで丈夫になるんだよ。大怪我をしなくてよかったじゃない」
「でもとても痛かったぞ。血もいっぱい出て……笑うなよぅ……」
堪えきれず吹き出した母さんを、口を尖らせて見上げる。……ああ、これはたしか五つの頃の記憶だ。母さんが布団の上で体を起こして座っていて、おれはその膝を枕にしているのだ。
母さんは不思議な匂いがする。優しい匂い、弱った人間の匂い、それらを覆い包む煎じ薬のツンと鼻をつく匂い。その向こうでおかしそうに声を転がす母さんは、骨張った手で俺の髪を撫でてくれた。
「それは痛かったねえ。だけどね、ナダ、おまえの肉を裂いた石も悪気があったのではないの。ナダは手も足もあって、自由気ままに走り回れるね。でも石は足がないから、落ちてくるおまえを避けたくても避けられなかったのよ。あまり悪く言うと可哀そう」
「……うん」
「いい子。ほら、バーバラと遊んでらっしゃいな。今日は風がよく遊ぶ日ね、一緒に遊んでくるといいわ。ああでも──あらエリック」
「リーシャさん、前のようなことにはならん、俺がちゃんと見とるから大丈夫。そう気を揉まれるとお体に障ります。ほらナダ、遊びに行こう」
父さんは大人だから、長だから、すごい人だから、出来ることが沢山ある。
でも子どもの俺は? 何も持っていない俺は母さんのために何もできない。「たくさん動き回って遊び疲れて帰ってくるナダを見るのが好きだ」と母さんは言ってくれるけれど、子供だった俺はもどかしくて仕方ない。
だからよく森へ入った。母さんの薬の材料や手順を盗み見て、覚えた形や匂いを元に薬草を探して回った。
一度、夢中になるあまり大人に捜索される騒ぎを起こしたことがあって、その日の夜母さんは俺を抱きしめて一晩中泣き喚いたものだから、無茶をしたのはそれきりだ。
その事件を起こしてからはエリックという兄さんが一緒について来てくれるようになった。
エリック兄さんは俺と八つ違いで、小さい頃に両親を土砂崩れで亡くしている。病や事故、それから暴走で人が亡くなるのはそう珍しいことではなかったけれど、「人が死ぬのは悲しいことだよ」と言った兄さんの、眉の下がった笑みに胸が苦しくなったのを、俺は忘れられないでいる。
ひどい暴走が起きたのを見たことがある。
俺が七つの頃だ。
皆が寝静まった夜半だった。突然非常事態の鐘が打ち鳴らされて、隣で寝ていた父さんが飛び起きた。
つられて俺と母さんが起き上がる頃には、父さんは寝間着の上から羽織を引っ掛けているところで、「二人は避難しなさい」とだけ言い残して出て行った。
家にしている天幕の外では炎が滅茶苦茶に暴れ回っていて、制御の効かない力が篝火を吸い取ってどんどん大きくなっていた。周囲の騒めく森が夜の闇を伸ばしているようだった。
この世の終わりがすぐそこにあるように思えて、ただただ怖くて、だけれど俺はなぜか「母さんを守らないと」とおかしな責任感が働いて細い手を握ったのだった。
でも、母さんは俺が守らずとも強かった。病弱な細身のどこにそんな力があったのか、俺とついでに逃げ遅れた女の子も抱き上げて走っていた。不安でたまらない俺たちの頬を撫でて、満面の笑みで癒してくれた。
「そんな顔をせずとも大丈夫。今に治まるからね」
「でも……でも母さん、力がめちゃくちゃに動いとるよ。一体誰がそんな風になってしまってるの、死んじまうよ」
母さんが抱えていた子はアドラーという女の子で、少し年下の泣き虫だ。今もぽろぽろと大粒の涙を止めどなく溢していて、見ているこちらまで泣きたくなってくる。
「わっ……わたしの、とうさんが……っ、きゅ、きゅうに……」
「……あれ、アドラーの父さんなのか」
「うん……うん……」
「大丈夫、大丈夫だから。あんな程度の暴走では死なない。今に動ける衆が鎮めてくれるよ。ね? ほら、そんなに泣きなさるなアドラー。水を飲みましょうか。とっておきの飴菓子があるのよ。ナダと二人で半分こするといいわ」
母さんはそう俺たちを宥めてくれたが、結末は惨憺たるものだった。アドラーの父は命を落とし、更にその暴走に巻き込まれた形で、死亡者が数人出た。負傷も多数。死者の中にはアドラーの母親も含まれていた。
キース族が孤立し、険しい地を彷徨うようになって三百年余り。
こういった事件は珍しいものではない。もっと被害が深刻だった事件も過去には起きている。
だが、一度にいくつもの遺体を弔ったその葬式で、悲しみを吹き飛ばそうと笑えるものは一人としていなかった。
だから……俺が“白い部屋”で目覚めて、母さんと父さん、それにエリック兄さんを見止めた時、きっとキース族はあの葬式のような空気になっているのだろうと思った。
深すぎる悲しみは重たい空気を連れてきて、涙が出て来なくなる。声が詰まって笑い方を忘れてしまう。
“外”へ出て気がついたことだが、キース族というのはどうも表情が薄いらしい。俺は腹の底から笑っているつもりでも、周りにはそう映らなかったりする。それはもしかして、俺たちキース族がずっと、絶え間なく、悲しい思いばかりして来たからではないかと──今になって思う。
──そうか、だから■■■さんは俺にわざわざ、笑い方を教えたのか。
(今のは……!?)
何かが腑に落ちたと同時、思考にノイズが走った。
しかしそれも刹那のうちに彼方へ消え去り、再び暗闇が降りてきた。そこへぼうっと扉が浮かび上がる。ドアノブを捻るとすんなり開いて、向こうへと俺を
怖かった。
この扉の向こうからはねっとりと昏い臭いが立ち込めている。今の今まで“死”にまつわる記憶を覗いていたというのに、それ以上に深いものがあるというのか。
それでも見つめるしかない。“おれ”に暴走のことを丸投げして、ここでも背を向ける訳にはいかないのだ。
意を決して、闇へ一歩踏み入れた。俺の脚を、体を、薄黒いものが絡め捕るのを感じた。
■ ■ ■
「ナダってさ」
──イコだ。何だ、わりと最近の記憶じゃないか。
安心したのも束の間、重たいものがズシリと落ちてきたような感覚に陥った。
「ナダを捕まえてた奴らのこと、恨んだりはしないわけ?」
少し陰の差し込んでいるところで、イコの薄茶の目だけが凄みを帯びて光っていた。
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