弔いの篝火

  ◇ ◇ ◇






 畳みかけの洗濯物。

 焼け焦げ跡の残る薄いラグ。

 タオルケットが乱雑に掛けられた、ハンモックや寝袋。

 酒瓶。屑籠。欠けた茶碗、コップ。


 あいつらの小屋ここでの生活の痕跡が、天井が抜けた今も残っていた。これほど生活感が色濃く漂っているのに、もう誰も帰ってくることなどないのだ。俺が殺したから。看取ったから。

 ジハルドはここに戻ることはないだろうなと、ラグの焦げ目を見つめて思った。仲間を失った今、より盲目的に能力に固執してエイモス社に身を下すだろう。



「ベイ。これ見て」



 イザベラが何か手渡してきた。そういえばラヒムもイザベラもいつの間にか“ベイ”と呼ぶようになっている。



「これ、彼女のじゃない?」

「……たぶんな。そうか、あいつ読み書きの練習したんだな」



 スケッチブックをパラパラとめくっていく。書かれていたのは絵ではなく文字だった。最初の方のページは歪な形をしているが、後に行くにつれ均整が取れてきている。



「『研究室がうんたらかんたら』って書いてあるね」



 肩越しにイコが覗き込んでいた。買い出しに行ったんじゃねえのか、と問うともう終えたらしい。



「やったじゃん。手がかりだ」

「……そうだな」

「でも全部見るのはベイに悪いね。こことかあの女の人のラブレターじゃね? ヒュー、モテ男め」



 顔が強張るのを感じる。

 ……イコが今度は俺の顔を窺ってきた。



「……薄々思ってたんだけどさ、ベイってもしかして字読めな──」

「よめる」



 よめる。

 ぜんぜんよめる。モンダイナイ。



「じゃあこれ。何て書いてあるか読み上げてみてよ」

「ラブレターとか言ったろ。嫌だね」

「あーれぇー? ここは別にラブレター部分じゃないんだけどなあ? やっぱ読めないんでしょ」

「よめる」

「ああー、合点がいったわ。初めて会ったお店で何も頼んでなかったの、あれメニュー表が読めなかったから……」

「読めるっつってんだろ! いいからそれ返せ!」

「お前ら何やってんだ」



 ナダが小屋に入ってきて、呆れたように息をついた。

 右手の包帯に血が滲んでいる。考えてみれば死体の処理だ、怪我人が一人で行うのは重労働だったかもしれない。イコも同じく思い至ったのか顔を曇らせた。



「ナダ、手の怪我ヤバいよ。ちょっと見せてみなよ」

「……あー……いや、その……」

「ていうかちゃんと治療してないじゃん。ジハルドに斬られたの?」



 すい、とナダの目線が横にずれた。



「そう。あいつ超つえェから──」

「自分で切ってたぜ。そこから草生やしてた」

「ちょ、ベイお前ッ……食らいやがれァアアア痛たタタタ、くそこの離せ!」



 ナダの飛び蹴りをすばやく躱して床にねじ伏せた。悔し気にジタバタしているが構うものか、さっき散々やられた仕返しだ。



「イコ、今のうちだ。包帯解いて診てやれ」

「グッジョブ。うぅーわぁー……えー、やっば……ザックリ切れてんじゃん。何、自分で切って? 草が生えたって何、ドユコト?」



 なかなか口を割ろうとしないナダは、“治療”と称してアルコール消毒で苛んだ結果、負けた。塩を塗られる直前で重い口がようやく滑り出した。イコの教育に悪いと判断したらしい。同感だ。



「あの……ほら、俺の記憶も絶対的なものじゃないって分かったろ。あんまりショックだと忘れちまうって」



 傷口を洗われるのを大人しく受け止め、ナダは力なく説明を始めた。それを満足げに眺めるイコはハンモックでふんぞり返って、先を促した。



「まあね。それで?」

「キースにいた頃教えてもらった記録法の一つに“痛覚”があってな。傷をつけながら記録したいことを反芻するんだ」

「そりゃ伝令兵も教わることだ。失血と負傷は命取りだってんで、よほど重要な時以外はやらねえぞ」



 諫める意味も込めて語気を強めてそう言うと、ナダは肩を竦めた。



「“よほど重要なこと”だからさ。キース以外で似た力を観測した、それなら詳細の情報も探っておきたかった。……ついでにジハルドに追い打ちをかけるを増やそうと思ったんで」

「蔓草で捕まえようって思ったわけか。だったら普通に地面から生やせばいいじゃん、何で手なんか切るのさ?」

「えーと」



 目が泳いだ。

 難しいことを説明する時の癖だと、前にイコが言っていた。



「アレですほら……手に直接生やすと、動かせるんだよ」

「えっ気持ち悪」

「気持ち悪いとか言うなよ。地面だとただ生やすだけになるんだよ。でも手に傷口を作れば、……エー、アー、触覚……じゃないけど……血を使って、そのー……」

「オーケー。サンキュ。火とか水みたいに自由に動かせるってわけね」



 イコのまとめにウンウン頷く。

 ……心配になってきた。そんな目で見んなよ、とナダはばつが悪そうに口を尖らせた。


 包帯の巻き直しも終わり、軽く水を飲んだ後でナダはケープを着込んだ。ずいぶん気に入ったようだが、どうもキース族の服に似ているらしい。これを着ているとあの頃に少しんだ、と白い唇が引き結ばれた。



「さて、始めるぞ。細かいところは適当にオリジナルでやるけど、いいよな」

「キース式の葬送ね。ベイがこだわらないならいいんじゃない」



 ラヒムを連れてきたイザベラが微笑んだ。微笑み返したナダに、ラヒムが神妙な顔で内緒話をするかのように顔を寄せた。



「なあ少年……あの“買い出し”の内容だけどさ……」

「何か問題でも?」

「やー、問題っつーか、それ以前の話っつーか……あれホントに必要なわけ?」

「必要だよ。葬式の後に出番があるから。ちゃんと揃えたんだろうな」



 そりゃあ揃えたけどよ、とラヒムが口ごもっている。そういえば買い出しに行かせたくせに、買った物を使おうとする素振りがない。

 ナダはただただ「気にするな」とラヒムの肩を叩き、外へ出るよう促した。











 小屋の廃材を使って簡素な祭壇が誂えられ、その上に布で包まれたフィーの遺体が横たわっていた。

 吹き曝しの葬式。だがこうしてきちんとした形で送られるのも、元少年兵にとっては贅沢なものだ。戦場では死体の山に適当に火を放って埋めるだけだったから。



「始めるぞ。……笑うなよ。見よう見まねなんだ」

「笑わないよ」



 イコは大人しい猫のようにイザベラの隣に立っている。

 カーキ色のケープが前に進み出ると風が一時凪いだ。涼やかな声が静かにことの始まりを紡いだ。



「生の苦しみ、死の絶望、数多あまたの苦難もあったろう。だが貴女はもう自由だ。貴女の体は炎に焼かれて塵とる。塵は風に乗りて遠くへ舞い、雲に溶けて雨を降らせ、地に降り注ぎ命の芽生えを助く。草木を獣が喰らい、獣は誰かのかてとなる」



 両手から火が溢れ出て、遺体を包んで天高く空を舐め上げた。



「貴女の生は終わっても、貴女の死は誰かの今になる。貴女の存在は誰かの道になる」



 燃えていく。煙と共に塵が吹き上がる。両手を大きく広げたナダから風が渦を巻いて、塵を上空へと巻き上げている。



「心配召さるるな、貴女は世界の一つ、永久とわことわりの種。貴女の誰かを想う優しさが消えることはない」



 ──その時だった。



 頬を何かが濡らした。



「雨だ」



 イコの呟きに、ラヒムとイザベラが手を差し出す。

 浅黒いその肌にも次々と水滴が落ちた。



「そんな……ガラクトに雨なんて……」

「珍しいの?」

「珍しいなんてもんじゃないよ。オホロのある“リ=ヤラカ”州はよく雨が降るけど、この辺りは一年で数えられるくらいしか降らないのよ。なのに……」



 だが、現に雨が降っている。

 雨雲もかかっていない晴天下で、奇跡の雨が。


 遺体を燃やし上げる炎を見て、ふと言葉が転がり出た。



「…………フィー、お前か?」



 そう口にした瞬間、強い陽射しを映した雨粒が金色の光を帯びて、俺たちにシャワーのように降り注いだ。

 虹が見えた。青空に微かな虹がかかっていた。それに向かって手を伸ばすと、フィーの細い指を、子どもたちの小さな手を、感じた気がした。


 雨粒ではない熱い何かが両目から溢れ出た。止まらない、堰がまるで役立たない。



「長い旅、ご苦労様でした。──どうか安らかに」



 ナダが締め括ると、最後にひと際大きく炎が立ち上がり、次いで風が塵を四散させ、静寂が訪れた。

 祭壇も遺体と一緒に燃えて、あとには僅かに湿った砂だけがそこにあった。なのに不思議と空虚さは感じない。いつも感じていた渇きも、もう残っていない。膝をついて空を仰ぐと、残りの雨と涙が頬を撫でていった。



「──これがキースの送り方か」



 ラヒムが湿った声で言った。



「なんつーか……ガラクトの宗教ってどれも、死んだら魂があの世へ行くって教えてるんだが、違うのか。世界中に魂が満ちるのか」

「どうだろうな。魂うんぬんを信じてない人もわりと多かった。少なくとも体内に残ってるベルゲニウムが飛散して、自然の一部になるのは間違いないって……」

「なんじゃそりゃ、ロマンがねえなあ。死生観にリアルを持ち込むもんじゃねえよ」

「はは。でも、俺は魂が世界中を巡るんだと思ってるよ」



 腕まくりをしながらナダは目を伏せて小さく笑った。



「だから、誰も一人で生きてなんていないのさ」

「いいこと言ってる風だけど、少年、おじさんちょーっと嫌な予感がするんだよね。ねえアレ、もしかして今からやるわけ?」



 ──ことが終わったのに、たしかになぜ、ナダは腕をまくって力仕事の準備をしているのだろうか。



「キース式でって言ったろ。はーい全員ちゅーもーく」



 白い手がパンッと打ち鳴らされた。一瞬痛みにしかめた顔を、すぐさまキリリと引き締めて、ナダは告げた。



「これから宴を始めます」



 宴──うたげ、ウタゲ。宴会。



「「「はい?」」」

「よっしゃぁぁぁあああ待ってましたァ!」




 ガラクト人三人分の声が揃った。

 ただ一人、イコだけがガッツポーズを決めている。



「ねえラヒム。そういやあんたたち、一体何の買い出ししてきたのよ?」

「……聞いて驚くな。肉だ」



 肉。

 そして少年と少女は嬉々として炭火焼きの準備に取り掛かっている。手際がいい、動きが違う、戦闘時よりもてきぱき動いて……じゃねえだろ。ラヒムが悲鳴を上げた。



「死体焼いた後で焼肉って正気の沙汰じゃねえ! 少年、おいナダ、やめてくれ、おじさんさすがにヘヴィーすぎて無理むりムリ、ねえ無理だから!」

「じゃあラヒムは野菜だけな」

「そおおおいうこと言っちゃうぅ!? そうじゃねえだろぉ!」



 長い付き合いの中で、これほどラヒムの声が裏返ったのは初めてだ。

 ナダはどこ吹く風で、何なら舌舐めずりすらしながら、コンロの中に炭を組み上げている。



「俺も貧血だし、イコも精神的に結構ギリギリだし、ベイなんかは二日もジハルド追っかけてたんだぜ。ここらで精のつくもの食わねえと死んじまう。それにキースじゃ、死人を送った後は宴と決まってるんだ」



 口を動かしながらも、準備は着々と進んでいく。

 ナダ曰く、『いつまでも泣いて死人に心配をかけるより、楽しく過ごして心置きなく現世を後にしてもらう』という名目で葬儀の後に盛大な宴を開くらしい。

 最後に小声で「隠れ住んでる民族が騒げる数少ない機会なんだよ」と零していた。その限られた機会が葬式とは、闇が深い。



「な、ベイ。食うだろ肉」



 当然のように話を振られてしばし戸惑ったが、



「…………食うわ」

「よしきた。お前には特別に酒も用意したからな。今日くらい飲め」



 ラヒムは無言で天を仰いだ。イザベラは愉快そうに笑っていた。

 腹が減っていた。タレにつけ込んだ肉の焼ける香ばしい匂いには勝てなかった。イコとナダの特上カルビ争奪戦を横目に漁夫の利をかっさらうのは、思いのほか楽しいものだった。

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