記憶──孤児院──

  ■ ■ ■






 後に寝台のサイドテーブルに置く“明かり”だと知るそれを手に、おれは姿勢を屈めて威嚇していた。

 今おれの足が踏みしめているのは柔らかい布。床より一寸ちょっと高い寝台ベッドの上で臨戦態勢を取って、二人の男──異常に背の高い男と、黒い肌の男、その二人と対峙していた。


 目が覚めたら、“最後の記憶”とは別の空間が俺を囲んでいた。

 おれが覚えているのは白い壁と床の、無機質で巨大な部屋だったはず。それが次に目を開けてみればどうだ、木張りの床と落ち着いた色の壁紙、天井は温かみすら抱かせる木材が張り巡らされ、そこから妙な形の丸い何か(後に「照明」と知る)が吊るされている。


 あの白い部屋よりもずっと親しみのこもった、温かく安らぐ空間だ。

 それが尚、おれの焦燥パニックを引き立てる。


「貴様ら何だ! おれに何をした!」

「落ち着いて。私たちは君の敵じゃない」

「そんな訳あるか、おれは信じぬぞ。どうせあの白い服の奴らとグルなのだろ! おれを嵌めようったってそうはいかんぞ、捕まってたまるか、おれは、おれは……」


 喉が痛い。体が熱を持って怠い。叫ぶとふらつくが、警戒心と恐怖と焦燥だけで立っていた。


「おれは……ッ、捕まる……わけには……」


 しかしほどなくして体の方が限界を迎えた。ぐらりと脳が揺れ視界が回り、足の力が抜けた。体を支えて再び寝かせるその腕をはねのけることも叶わず、おれの意識は再び高熱の間に溶けていった。






 熱にうなされる間、たくさんの夢を見た。


 泣いている母さんに抱き着くと、薬草の匂いが鼻をつく。

 白い部屋でエリック兄さんに勉強を教えてもらう。

 同じ年頃の子たちとヘビを振り回したり、木に登ったりして遊ぶ。

 延々続く白い廊下をひたすらに走る。


 夢の合間に、誰かが体を拭ったり、変わった味の飲み物を飲ませた。飲み下せるよう、温めた匙に少しずつ飲み物をのせておれの喉に流し込むのだ。

 縋るようにうわごとを呟くと、低い声と共に大きな手が額を撫でた。その手に確かな安心感と──父さんのものではない感触に寂しさを抱き、また襲い来る夢に翻弄された。






 背の高い大男は桐生と名乗った。

 “コジイン”と“キョウカイ”で一番偉い人だと言った直後、黒い肌の銀縁眼鏡の男に紙束で叩かれた。へらりと笑ってそれをやり過ごした後、熊の唸りより低い声で尋ねてきた。


「アレルギーはあるか?」

「……は」


 おれの喉はまだ治っていなかった。だからようやく絞り出した声も掠れて息が混ざって、より情けないものになってしまった。

 何を訊かれると思ったら、アレルギー?


「いやさホラ。ここにいる以上、まず訊いとかなきゃならねえと思ってさ。食べたらマズい物とか、嫌いな食べ物とか。あ、好きな食べ物言ってくれても構わねえぜ」


 すっかり虚を突かれたおれはしばし言葉を失った。困ったように目線を彷徨わせるが、二人は辛抱強く待ってくれている。


「…………特に」


 ポツリ、と掠れ声が部屋に響いた。

 それだけで桐生の凶悪な顔が笑顔になった。嬉しそうに何度も何度も頷いた。


「そうかそうか。んじゃ粥はいけるな。しばらく口にしてねえから、まずは七分粥あたりから始めっか。パドフ、手配頼むわ」

「了解しました。点滴は」

「それはこの子にゃ辛かろう。食いもんでしっかり回復を促すべきだ。薬もナシ」


 黒人の男は一つ頷いて、俺に微笑みかけて部屋を出て行った。


「さあて。小言のうるさいパドフもいなくなったことだし……」

『聞こえてますよ桐生さん』

「おおっと、あとでまた叩かれるな。──てェわけなんで、お前さんはしばらくウチで預かることにした。ここには親なしやらワケアリやらの子供がわんさかいる、一人二人増えたところで変わんねえさ。不便があったらすぐ言ってくれ」


 ようやく耳に慣れてきた口調に、おれも頷いた。頭がスッキリと落ち着いて、自分が置かれている状況も何となく飲み込み始めていた。


「ところでよ。まだ名前聞いてねんだけど、何て呼んだらいいかね」


 ごくごく軽い口調で桐生が聞いてくる。

 すんなりと口から名前が飛び出た。


「ナダ」

「ほう。変わった名前だな。まあ俺やパドフが言えたことじゃねえがな! わはは」

「…………」

「俺もあいつも珍しい見た目だろ? 黄色人種はそれなりに多いし、褐色もよくいるが、あいつのような黒人は見かけねえ。何でも南大陸出身の先祖がいるって話だぜ。超レア」

「…………」

「俺、東の方出身なんだけどさ。この辺来た時もうビックリよ、雨は降らねえわ雪も降らねえわ、乾燥しまくり。まあガラクト地方よりかはマシだけどよ。あーガラクトといえば最近難民で溢れ返ってるってなあ、やっとこさ争いにケリがついたとか何とか──」

「き、キリュウ」

「おう。何だ」


 乾いた喉を生唾で潤し、一言こういった。


「……そんなに違う色の肌の人がいるのか?」






 後で聞いた話によれば、俺は一週間以上も高熱を出していたのだという。

 幾分思考と気持ちの整理がついた俺は、桐生にゆっくりと時間をかけていろいろと聞いた。


 ここは北大陸南西部、“エルノイ州”であること。

 南大陸にほど近い位置であるからか、時折パドフのような肌の黒い人(「黒人」と桐生は言った)が隔世遺伝か何かで生まれること。

 この孤児院には、身寄りのない子供だけでなく、特殊な事情を抱えた子供たちも多くいること。だから戸を開けたら子供がぽつんと立っていた、ということもなのだと桐生は笑った。苦そうな笑みだった。


 週に二、三度物資を運んでくる「トラック」という乗り物の荷台に、いつの間にか俺が紛れ込んでいたという話だ。孤児院に到着して荷の積み降ろしをしていたら、薄着のまま気絶して丸まっているおれを運転手が発見した。

 その時既に熱を出していて、慌てて看病しようとしたらおれが一時的に目を覚まして暴れた。──それは薄っすら記憶に残っている。


「何があったか無理に聞こうとは思わねえよ」


 ある日外におれを連れ出し、庭で煙草を一服しながら桐生は言った。

 細く立ち上る煙が宙に消えていく様を目で追う。


「成人迎える十八歳までは面倒みてやらァ。問答無用で放り出すぞ、ウチは。覚悟しとけ、それまでにいろいろ身につけるこったな」

「……“おとなは十五歳”じゃないのか?」

「お前ンとこは早えな。こっちは十八なんだぜ」

「ふうん……」


 それまでのおれの常識が覆されていった。

 ここでは“おとなは十八歳”。それまではほとんどの子供が仕事をしないし、勉強や遊びがもっぱらの中心だということだ。欲しいものは“店”で“金”と交換するし、狩りに行かなくても店に行けば食べ物が手に入る。というか、自分で食糧を調達しに森や川へ行かない。専用の取り扱い店に行けば何かしらが調達できるからだ。


 木があっても登らない。言葉はパドフさんの口調あたりが平均。

 文字はに発音する。おれが今まで使っていた文字は「古代文字」「古文」と位置付けられるもので、大学で研究をしている専門家くらいしか読めないものらしい。しかも、研究には政府からの許可が必要だというから、読める者は本当にごく一部に限られるということだ。


 生活様式もガラリと一転した。

 火を熾さなくても暖を取れる。機械で涼むこともできる。風の出てくる機械、取っ手を捻ると水が出てくるパイプ、明かりの灯る照明、遠い地の出来事を告げる箱……。


 すべてが新しくて、はだんだん自分がどこから来たのか分からなくなった。二、三ヵ月が経った頃、俺はとうとう桐生に自分の身の上を洗いざらい話した。




 ワイユの町よりもずっと寒い場所に住んでいたこと。

 今はまだ皮膚や髪に色が残っているが、成長するにつれどんどん白くなっていくこと。それは俺の故郷人皆がそうであること。

 寿命が短いこと。きっと俺もよくて五十手前くらいまでだろう、ということ。


 俺たちが住んでいた土地の近くの森に、ある日“機械”が現れて攫われたこと。

 “機械”の持ち主──初めて見る色を残したままの大人に毎日体中を調べられていたこと。

 ……彼らの目的が、俺たちの持つ能力であろう、ということも。


 何日も時間をかけて、夜から朝まで、昼から夜まで、頭のよくない俺の要領を得ない話を桐生はじっくりと聞いてくれた。孤児院の大人たちはみんな俺を大切に、丁寧に扱ってくれる、その姿勢に俺も氷を融かすように心を開いていった。



「あの施設を抜け出したところ、んだ」


 言葉を徐々にに慣らしていくのだが、どうしてもたどたどしい口調になる。桐生もパドフさんも、寮母のメリアさんも、一緒に暮らす子供たちも、言葉が怪しくなると都度直してくれる。


「思い出そうとしても真っ暗でな。何も糸口が見当たらん……」

「“見当たらない”な。ムリに思い出すこたァねえさ。それだけ辛い記憶なんだろ。ただでさえ衰弱するぐれェだったんだ、そのまんまにして忘れッちまえ」

「だが……」

「思い出したくなったらまた頑張ればいい。今はまず目先のことだ。故郷に帰るにしろ、このままここで生きていくにしろ、こっちに慣れにゃならんぞ」






  ■ ■ ■






 俺が“普通”の生活になじみ、言葉が安定するのを待ってから、桐生は俺を学校に通わせてくれた。

 無戸籍でも問題ないのか心配だったが、意外とその辺りはルーズに出来ているらしい。州や地域によっては無戸籍者の割合の方が多いところもあるらしく、どこでも平等になるような法整備が整っていないのだ、とパドフさんが説明してくれた。


 俺が通ったのは中等部からだった。既にして十二歳になっていた。

 理系科目はさておき、故郷キースにいた頃に詰め込んだ知識は平均よりも多かったらしい。元々記憶力をあてにして算術よりも過去の記録の覚え込みの方を多く手ほどきを受けていたこともあるだろう。

 白化しきっていない肌と白髪混じりの髪、そして奇妙な言動の編入生は非常に目立った。気に入らなくて邪険にする奴もいた。それでよく気配を消して授業を抜け出したり、屋根や木に登ってやり過ごしたりしていた。

 友達もいるにはいた。しかし俺の余裕ゼロの学校生活はそんな日々だった。


 だからキースでの成人年齢を迎える頃、俺は孤児院を出て逃げ回ろうと考えた。

 ずっとワイユで世話になっていると、いつかこの場所が割れて追手が仕向けられるとも分からなくて、気が気でならなかった。建物に火が放たれたり、桐生たちや子供たちが殺されたりする悪夢も頻繁に見た。桐生もパドフさんもみんな口を揃えて「気にするな」と言ったが、俺は堪えられなかった。




 同じ不安は結局、孤児院を出てからも続いた。

 桐生が斡旋してくれた最初の就職先も数か月で辞めて町を出てしまった。何日もかけて別の町に辿り着き、そこでバイトを掛け持ちして食い繋いでも、金はいくらか貯まっても恐怖は消えなかった。

 そのうち短期間だけバイトをして、数か月で次の町に行く、というサイクルが出来上がった。町に出ず野山で過ごすこともあった。

 でも結局町に降りて仕事を探し、わざと体を酷使する作業を選んでいくようになった。


 ……体を疲労で一杯にすれば、追われていることを考えずに済んだ。

 不安を感じなくなった。目の前のことに集中していられた。楽だった、どんなに体が悲鳴を上げても、寂しさで心に穴が空いても、たった一人逃げているという事実を突きつけられるよりはずっとずっとマシだった。


 病んでいるとは思った。でも自分では止められなかった。

 ……あの町でイコと出会って、ようやく俺は向き合い始めることができたのだ、ようやく。











 俺の最初の“罪”はこれだ。

 いつかは向き合わねばならない問題から、目を背け続けたこと。


『逃げ続けてばかりの臆病者』と“おれ”が言ったのはこのことだろう。

 気づいていた。でも見たくなかった。それがいけなかった。

 俺一人ではどうしようもない、でもいつかはケリを付けねばならない問題だから──これは確かなる“俺の罪”なのだ。






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