俺が言えた言葉じゃない①
■ ■ ■
──目を開けてまず見えたのは、無機質な白い壁だった。
おれの手と同じように白い……雪よりも白く、雲のように影もなく、均一でまっさらな壁と床。それらが白い光に照らされて網膜を刺激する。
よく知る色なのに、何故か見たことのない色に見える。この白におれごと溶けてしまいそうだ。
怖くなって辺りを見回す。
白い景色に紛れるようにして、両親の姿が見える。
(母さん、具合悪そうだ)
父さんが母さんの背中をさすっている。母さんはあまり体が強い人ではない。大丈夫だろうか。
と、おれの肩に温かいものが触れた。隣を見上げると、仲良しの兄さんが心配そうにおれを見ていた。
そして思い出す。
おれは“色つき”の人たちに捕まってしまったのだと──
□ □ □
遠くの方で何か揉めているような声がする。くぐもっていてよく聞こえない。
寝ぼけたまま起き上がると、誰かに押し戻されて口を塞がれた。イコだ。シッ、と指を口に当てて、部屋のドアを親指で示す。
俺はベッドに横になっていた。話を終えたあの後、誤魔化せない疲労感が一気に襲ってきて、客間へ案内されたところまでは覚えている。気絶するようにベッドに倒れ込んだのだろう。
イコも別の部屋で眠ったようだが、今は俺の上に馬乗りになっている。……ちょっとやめてほしい。
ドアの外へ意識を向けると、イコの叔母アリカさんの声だとわかった。
ただし非常に不機嫌そうな声である。
『だから何度も言ってんじゃないのよ。夜通し緊張状態に置いといてまだコキ使おうなんて、子どもにやっていいことじゃないでしょどう考えても! ──うっさいわね、寝てるの、そりゃもうぐっすりね! 聞いた話じゃあの子夜勤だったんでしょ、深夜に働いてウチの姪っ子守りながら駆け回って、その上文句ひとつ言わずあたしらの朝食まで作ってくれて、あんないい子他にいないわよ? それをどんな大人の事情か知りませんけどね、今から起こして小難しい話させようってのは酷なんじゃないの?』
「……あっ、もしかして俺の通信機で話してる? ガヴェルと?」
ポケットに入れていたはずの通信機がない。イコは頷いた。
「何回か鳴ってたんで叔母ちゃんが出た」
「悪いことしたな、すぐ代わってもら──」
「ダメ」
「なんで」
「鏡見てみろって」
手鏡を突きつけられると、目の周りを青黒く縁どられた白い顔が映った。たしかに白いゾンビみたいだ。
しかしあまりのんびりもしていられない。カーテン越しに射し込む光が何だか怪しい色をしている、嫌な予感しかしない、俺が深夜シフトに入る日のような感覚がある。
「ねえイコ、訊いてもいいかな。……今何時?」
「四時ぐらいかな。夕方の」
「いや嘘だろ、何だよその時間。寝すぎ、さすがに寝すぎた。早いとここの町出ねえと……あっアパートに荷物取りに行かなきゃ、つーかその前にガヴェルと話だ」
「あっおいナダ、こンの……」
俺から降りてくれないイコに構わず体を起こし、体をぐるっと半回転させてイコと場所を入れ替わった。殴りかかりそうな勢いのイコを残し、アリカさんの声のする方──キッチンへ向かう。
「いー加減にしやがれこのくそじじい、融通のきかない老害が……あらやだちょっとカレシくん、ダメじゃないまだ寝てなきゃ」
「すんませんでしたアリカさん、いいんです寝てる場合じゃねえんだ。それ返してくれ。ちゃんと自分で話つけるから」
「黙らっしゃい。ガキは明日の朝まで寝てやがれ」
「そんなこと言ってらんねえんだよ! おいガヴェル、聞こえてんだろ、今起きたから……げぅっ」
腹に衝撃。見ると骨張った拳がめり込んでいる。
彼女の力は大したことないのだが、あの、そこは昨夜二回も蹴りだの拳だの食らったところなんだよ。シャワー浴びた時に見たら青痣出来てたんだよ。
「あばよじじい、二度とかけてくんな」
アリカさんが勝手に通信を切る。
何てことだ……目的が不透明とはいえ、貴重な援助者なのに。
「さてカレシくん。君はまだ自分が置かれた状況を理解していないようね」
パチン、と小粋に指が鳴らされると同時、後ろから羽交い締めにされた。頬に猫っ毛の感触、イコだ。
……俺を締め上げる力に怒気がこもっている。
「イコ痛い」
「嘘つけそんなに痛くないくせに。さっき押し倒してきた仕返しだ」
「……押し倒した?」
アリカさんの瞳に剣呑な光が宿る。慌てて首を振ったが、顔に影の増えたアリカさんの前には虚しい。
「違う違う誤解だ! イコが俺の上から降りないから!」
「上に乗ってたのかい、あんた」
「起き上がれないようにしようと思って。でもあんなバカ力出るとか思わないじゃん?」
「お前ね、そうほいほい男の上に乗るんじゃねえよ。俺だからまあ……いやよくはねんだけどさ、その辺そろそろ気にした方がいいぞ」
「ふん。お父さんみたいなこと言いやがって」
「なあ放せって。悪かったよ、逃亡計画練り直すから。な? そーうそういい子だから力弱めてくれな、ちょ、痛いいたいイタイ関節、関節キメんなって、洒落ンなんねえから痛いたいたい!」
□ □ □
強気の女性二人を相手取って交渉した結果、渋々といった感じだが俺が勝った。
何故に交渉かというと、二人は俺をあの家に軟禁するつもりだったらしい。
あの後俺は大量の「ひるめし」を強制的に食べさせられ(腹は減っていたのでありがたくいただいた)、下手に逃げ回るより行方不明の方がいい、演技しているとは言え荒んだ家庭に匿われているなど思わないだろう、と説得された。
それでは何も解決しない。昨晩俺のバイト先で強盗があったばかりだ、店長は俺を絶対庇うだろうが、連中が俺に罪を被せて指名手配でもするかもしれない。手配犯を匿っていることが漏れでもしたら、二人は言い逃れが出来なくなってしまう。
「そもそも俺の先祖が……キース族発祥の切っ掛けに当時の政府が絡んでるんだぞ? 今の統括政府の前身だぞ、俺を捕まえて追ってる奴らは政府の息が掛かってると思う。指名手配くらいやりかねない」
「じゃあどうすんのさ。ナダ一人で逃げ回ったっておんなじだろ?」
「それをガヴェルと相談しようと思ってたのによ。ガヴェルの──何だっけ? “警備会社”とかいうのに匿ってもらうとか、いっそ社員扱いしてもらって雲隠れするか、じいさんなりに悪知恵働くだろうよ」
「信用できないじゃん、あんな顔も知らないじじい。あしながおじさんがそう簡単に現れるわけない」
俺とて信用したわけではない。
ただ、一時の縋る藁にはしてもいいと思う。
俺がキース族の住んでいた土地から攫われたのは八年ほど前だ。
目が覚めたら白い部屋に俺含め五人が閉じ込められていた。
いうなれば「研究施設」という言葉が正しい場所だと思う。
昼夜の分からぬ閉ざされた空間で定期的に飯が提供され、いろんな機械に体ごと通される。腕に針を刺されて血を抜かれたり、目を開けたり閉じたりさせられる。そんな場所。
目的の分からない行為を、初めて目にする人工物だらけの環境で延々と繰り返される――そんな環境はゆっくりじわじわと、俺の精神を蝕んでいった。
だがそれは、幼かった俺に限ったことではなく、大人たちも例外ではなかった。こういう時はむしろ大人の方がやせ我慢をする。ましてや子供のいる前では余計にそうなのだろう。
糸はある日、ふっつりと切られた。
俺が施設を脱出する糸口になったその出来事を、実はあまりよく覚えていない。ストレスの高い環境で幼い精神がもたなかったのか、精神の防御反応か、とにかくベールがかかったような景色を断片的にしか思い出せない。
その散り散りになった記憶の中に、たしかに昨夜聞いた老人の声がある。温かい手も、足裏に伝わる冷たい床も、頬を伝う涙も。
だから今は、ガヴェルが敵だと疑うことができない。
俺を助けるのにどんな目的があって、後で裏切るのだとしても、後ろ盾のない俺は手を借りるべきだと思うのだ。
「この町に居続けても誰も得しない。連中の思う壺だ。それにイコ、お前の父さんが残したデータの傍に、俺はいない方がいいだろ」
イコは何とも言えない表情になった。元々気まぐれで何を考えているか分かりにくい性質だが、今の顔はもっと読めない。
イコは何を思って俺を引き留めるのだろう? 俺が友達だからという、そんな単純な理由だろうか。
しかしイコはまだ学校も残っているし、アリカ叔母さんという家族もある。父親に託されたデータのせいで散々な目に遭っているのに、その上俺という厄介者を傍に置こうなどと、イコにしてはちぐはぐな行動だ。
「二人が何と言おうと、俺はあのボロアパートに荷物を取りに戻るし、今夜にも町を去る。考えは変わらない」
「……ま、そうでしょうね」
しばらく俺とイコのやり取りを静観していたアリカさんが、息をついて渋々頷いた。
「イコ、残念だけどカレシくんは諦めるんだね」
「その呼び方何とかしてほしいんだけど」
「あらいい響きじゃない。私は嫌いじゃないよ。さてさて、そうと決まれば、私たちは君があのくそじじいに連絡するのを止められないわけだけど……連絡してる間に、イコ、車の準備しな。最後くらい友達の足になっておやり」
「……ふん。くたばれバカナダ」
ベッ、と舌を俺に突き出して、イコは外に行ってしまった。
俺とアリカさんと、空になった大量の皿だけが残された。
「ふう。悪いね、付き合わせちまって。……あの子の本音を引き出す、いいチャンスだと思ったんだけどねえ」
「本音?」
物憂げに溜息をついて、アリカさんは頬杖をついた。
「……母親を殺されてるんだよ。あの子が復讐を考えないとでも?」
視線をテーブルの上に落とした。考えないわけがない、とは思う。
だが俺が知るイコは、復讐のような苛烈な感情を秘めているようには思えなかった。俺をからかったり、一緒にふざけたり、頻繁に飯に誘ってくれたり……俺の知るイコという人間はそういう奴だ。
そう口にすると、アリカさんは苦く笑った。
「そりゃ君は最近のあの子しか見てないからね。君と出会って、イコは少しずつ変わってきた……前はそれこそ、ナイフみたいに尖ってたから。本当よ?」
アリカさんは皿を重ねて立ち上がり、流しに下げて戻ってきた。
髪を解くと、イコとよく似た猫っ毛が肩に広がった。
「君のことを話すのが増えて、だんだん年頃の子みたいに戻ってきた頃にこれだもの……君なら私のかわいい姪っ子を“普通の子供”に戻してやれるんじゃないかって。今も思ってる」
「俺にそんなことはできないよ。こんな身の上だし、出来た人間じゃないしさ。それにこういうのはやっぱり家族とか、身近な人が一番だと思う」
「そうかしら。あたしは所詮養い親でしかないから。育てている立場としては、間違った道に進むのを窘める義務と責任があるのよ、もちろんね。けれどね……心を変えるのは“親”だけでは足りないのよ」
向かいに座るイコの叔母は居ずまいを正した。
俺の目を真っ直ぐに見つめ、頭を下げた。
「君がこの町に留まるのはよくないことは分かってる。でも一人の子を預かる身として、どうかあの子の傍にいてやれないだろうか」
そうは言われても、という呟きは、アリカさんに届いただろうか。
部屋は静かだった。もっといろんな音で満ちてくれていたらいいのに、と思った。頭を上げてほしい。頭を下げられる資格は、俺にはこれっぽっちもないのに。
二人とも何も言わないでいた。
遠くから俺を呼ぶ声がする。車の準備ができたと、イコの声が不機嫌に告げる。
「……もう行くよ。ガヴェルにいろいろ話しておく。俺のことだけじゃなくて、二人の安全も確保できないかどうか」
「あたしもあの子も安全を求めてるわけじゃない。欲しいのは平穏よ」
「それは俺と一番遠いものだ。俺だって、何もできなくて悪いと思ってる……ごめんなさい」
アリカさんの顔を見ることができなくて、俯いたままキッチンを後にした。
最後に玄関ドアを閉めると、荒れ果てた装いの家が俺を追いだした。
「悪い、待たせた。……頼むな」
「へっ。ガンガンに飛ばしてやる」
ドアを閉める前にシートベルトをつければよかったと、少し後悔した。
□ □ □
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