魚と紫

 悍ましいあの夜から、あの時から数年が経った。

 力の強かったセルネウとその一族が死んだから、ウルリヒが実質的に民を率いて村を少しずつ復興していった。木々はほとんど燃やしてしまったから、それで生活を賄うことは難しかった。ウルリヒが目を付けたのは漁獲と塩業。船をもっと大きく網を丈夫にして、よりたくさんの魚を引き揚げた。精製した塩と魚の干物を内陸部に流通させる。王様たちとの交易交渉はウルリヒが自分の足で出向いて行った。この数年で以前よりははるかに友好な関係を築けていると思う。

 だが、村を国の一部にすることだけは了承しなかった。本当はいっそ保護してもらった方が暮らしも楽になることはわかっている。内陸部では農作が発達していて、食べ物にも困らないのだ。衣服だってもっと上等だ。生きることにばかり必死な村と違って、娯楽だってある。それでもウルリヒが独立した自治を望んだのは、ひとえに村が貝の一族のための人身御供スケープゴートの場所であり続けるべきだったからだ。

 実際に貝の一族の被害に遭って、この目で見てわかったのだ。人間があの恐ろしい種族にとってどんな取るに足らない存在でしかないか。知能が同程度で意思の疎通ができる。会話ができる。姿かたちは瓜二つである。それでもあれは捕食者で、こちらはその獲物でしかない。人間が魚や獣を狩猟するのとはわけがちがう。あれらは人間を生きるために食べる必要すらないのだから。

 村人を危険にさらすことも、内陸から罪人を引き受けて生贄として貝の一族に引き渡すのだって、本当はいやだ。それでもウルリヒは決意した。人間があれに滅ぼされることがあってはならない。人間が築いてきた生活が、文化が、あれらの酔狂で悪質なのせいで脅かされることがあってはならないのだ。ウルリヒは村の民であると同時に人類の希望だった。そういうふうに育てられた。ならば、たとえ冷徹であっても自分は世界を俯瞰しなければならない。表面上は良き隣人の顔をし続けながら、供犠の村の長である自覚を忘れなかった。

 それでも、策は講じた。焼け野原になった大地を切り崩し、石を詰んで新しい港を作った。港の柱には、船が直接縄で括り付けられ、錨も下ろされた。道は舗装し砂浜を全て石で埋め立てさせた。海に直接丸太を突き刺し、板を括り付けて地面を一段上にあげた。これが次の貝の一族の来襲時に、村人が少しでも遠くまで逃げるための時間稼ぎになればいいと願いながら。

 漁には必ずウルリヒも同行する。船員たちに指示を出し、ちっぽけな村での王者であると民の意識に刷り込み続ける。【碧眼の子】は人柱ではないと、文字通りの意味で人間の希望であると長い時間をかけて理解させていかなければいけない。それがいつかウルリヒの後に生まれるだろう同じ碧眼の子に残せるただ一つの救いだ。犠牲にもっともらしい高潔な理由づけを許してはいけない。ウルリヒは餌になるつもりはなかった。人とは違う育てられ方をしたからこそ見える世界がある。自覚できることがある。この重い役目は、ただ生まれ育っただけの子供が背負うものではないのだ。

 碧眼の恩恵は他にもあった。ウルリヒは他よりも動体視力が高かったので、船に乗り始めてから間もなく魚の動きや網の動きを正確に把握した。ウルリヒが漁に携わるようになってから、漁獲の効率は格段に上がったのである。

 その日も船尾壁にもたれて、ウルリヒは男たちが漁獲用の網を張る作業を眺めていた。魚を壺に入れることも、餌をばら撒くことも、舵を取ることもせず、潮風に目を細めながら。

 船でただ一人の子供が、大人たちの行動を監視して佇んでいる――それは異様な光景だ。けれどそうしなければ、ウルリヒの言葉は意味を持たない。これが必要な距離、正しい距離だった。

「ウルリヒぃ、どの辺に網落とす?」

 男の一人が声をかけてきたので、ウルリヒは改めて海面を見つめた。左前方に暗い影が見えたのを見逃さない――魚の群れが海中を巡っているのだ。次の魚の動きを予測して、ウルリヒは指示を出す。

「南西四十三度、射角は……三十二、三度でやってみろ」

「おーい、角度調節してくれ!」

 ウルリヒの言葉に、男たちは火薬に火をつけ、網を大砲で海に飛ばす。

「左回旋、ゆっくりめで。そうだな、昨日の半分くらいの遅さでいい」

 ウルリヒはよく通る声で言い放つ。その言葉に船首で舵を取る男が頷き、船は左に少しずつ傾いていった。網が飛沫を立てることなく沈み込む。水面に透ける黒い網の目を見つめながら、ウルリヒは口角を吊り上げた。碧眼が透けて見える程に日の光が眩く輝いている。

 波が僅かに揺れて、海面が煌めいた。縄の影の一瞬の遷移。

「揚げろ!」

 ウルリヒは叫んだ。男たちは滑車を回して網を引き揚げる。男たちは掛け声をあげていく。男たちの体は後ろに大きく傾いて力強く壁を蹴る。網の重さで魚の重さがわかるのだろう、心なしか彼らの表情は晴れ晴れとしていた。今日も大漁だ。

 ……しかし、彼らの顔は数刻後に恐怖で強張ることとなった。網には白い何かが――人間がぶら下がっていた。真珠のように淡く煌めく白髪の子供だった。貝殻のような角が生えている。ウルリヒもまた眉根を寄せ、網が甲板に上がると同時に歩み寄った。

 床にぶちまけられた赤い魚たち、悲鳴を上げる男たち。そして網の中に囚われた貝の一族の少女と、網の外から彼女に縋りつく角つきの少年。少女の方はひどく咽ながら咳き込んでいた。角つきの方は少女の方ばかりを気にかけて、周囲の人間たちに意識が向いていない様子だった。それにウルリヒは僅かな苛立ちを覚える。船員が一人震えながら腰の短剣を投げつけ、角つきの子供が網の中の子供を庇って怪我をした。船の縁に刺さった剣からは青い血が滴り落ちている。子どもの手首からも、青い血がどろりと漏れ出す。男たちはさらにぎょっとして慄いた。網の中の子供が「オログ!」と悲鳴を上げる。

 こいつら、血が青いのか――

 ウルリヒにとって新しい発見だった。知らなくてもいい知識だったが、知ったことで少し胸がすくような思いがした。そうか、こいつら、人間とそっくりなくせして血の色は違うのか。

 貝の一族を、初めて日の当たる昼間に見た。その肌は自分たちと比べればはるかに白かった。貝肉の色に似ていると思った。そして時折こちらでも生まれる白子症の人間ともよく似ていた。白子症の瞳は光の下で見ると目の血管を透かして赤や紫色に見える。目の前の二人の目も、色合いの差異はあれ紫色だ。血が青くて色素が薄いせいなのだろうと思う。

 眩く光を反射する二人の姿は、神々しくさえあった。

 少しだけ、ウルリヒは躊躇した。貝の一族の姿にあてられていた。目の前にいるのは憎い仇で、外敵でしかないはずだった。だのに、少しだけ情が湧いたのだった。美しかったから。

「う、ウルリヒ……貝だ、貝の一族が、紛れ込みやがった……」

 腰を抜かして座り込んだ男が股間と尻をびっしょりと濡らし、怯えた表情でウルリヒを見あげた。ウルリヒは深く嘆息し応える。

「見ればわかる」

 ウルリヒは改めて二人の貝の子供をまっすぐに見据えた。網の中の子供は反抗的な眼差しでウルリヒを見上げている。黒真珠の耳飾りをつけていた。角を生やし、怪我をした少年は白真珠の耳飾りをつけている。

 ――贄の子供、か?

 そう思ってしまったのがさらに良くなかった。ウルリヒは確かにこの角つきの少年に、二人に興味を持ってしまった。自分と同じとは限らないのに。

 セルネウから飽きるほど聞かされた伝承を思い出す。


『浜辺に、白い髪、白い肌を持つ美しい少年が現れた。彼は朝日に濡れる藤の花のような、美しい紫色の瞳を持っていた。黒髪の人間たちは、その美しさに目を奪われた。少年の肩甲骨からは、翼のような銀色の角が生えている。

 少年は、言葉を紡ぐたびに黒い真珠を零した。彼は己のことを、真珠貝だと答えた。

 人々はぞっとした。自分たちが食べてきた貝が、人の姿を取り、人間に復讐を果たしに来たのかもしれない。

 人々の恐れに、少年は頭を振った。

 少年はこれから、海底樹になる。そして、人の生きる大地を支えるのだと。そうしなければ、人間の生きる大地はすぐに海に沈んでしまう。だから、今までも、これからも、ずっとそうして、貝の一族は生きているのだ――』


 ――本当に?

 逡巡している間にも、背中にはたくさんの視線を強く感じる。ウルリヒは胸の内の動揺を押し殺して、貝の子供たちに声をかけた。

「よお、貝の一族様。こんなところまでおでましか? よっぽどおれらの肉に飢えてんだなあ?」

「ち、違うよ!」

 少女の方が震える声で言い返す。その様はまるで、大切な子供を守ろうとする獣の母のようだった。先刻からの反抗的な視線の意味に気づいてしまえば、少しだけ笑えた。まさか貝の一族から威嚇される日が来るなんて思ってもみなかった。

「あ? 何が違うって?」

「う、ウルリヒぃ……こんな化け物と仲良くくっちゃべってんなよ」

 早く何とかしてくれ――言外にそんな悲痛な声を感じる。けれどウルリヒは無視した。ウルリヒは今、少しは話せそうな彼らとをしてみたかった。

 だから少女の答えを待っていた。けれど、先に声を振り絞ったのは角つきの少年の方だった。

「殺さ、ないで」

 縋るような、擦れた声だった。

「僕のことは殺してもいいから、テルネラは殺さないでください」

 ――馬鹿じゃねえの。

 喉元まで出かかった言葉をウルリヒは呑みこんだ。代わりに片眉を吊り上げる。苦々しい感情が胸に渦巻いた。

「餌にお願い事をするたぁ、頭湧いてんのな。何その角。お前ら貝の一族は、そんなところまで化け物ってわけ?」

 お前、贄になりたかったのかよ。殺してもいいからってなんだよ。違うだろうよ。死にたくないって言えよ。贄にもなりたくないって。その角、痛くないの。

 なんで自分よりその女なんだよ。なんなんだよ。愛か? いっちょまえに、化け物のくせに……。

 角つきの少年は少しだけ顔をこわばらせた。紫色の瞳に動揺の色がかげる。それでも少年は自分の意思で心を落ち着けたようだった。凪いだ眼差しで、純真に見つめ返されたのだった。

 心の中に小さな風穴が開いたような気がした。

 なんて空しいんだろう。この数年間、生贄にして海に流したたくさんの罪人たち。彼らですら殺さないでくれ、行きたくないと泣き喚いた。それをウルリヒは無慈悲を装って送り出してきた。本当は自分が行けば全て解決するのではないかという強迫観念と信仰心を捨てきれてなんていなかった。

 だから、多分ウルリヒは目の前の角つきに、噛みつかれたかったのだ。歯向かってほしかった。否定されたかった。けれど贄の子供にはその意思がないのだ。

 顔を近づけても、少年と同じように傷をつけ、血で濡れそぼった手を突き出して煽っても、貝の少年は不快そうに顔を歪めるばかりで襲い掛かっては来なかった。自分で傷つけた手首の傷はずきずきと疼いて痛かった。同じくらい痛いはずなのに泣きごと一つ言わない目の前の少年が憎らしく思えた。連れを殺さないでくれだなんて人間みたいなことを言うくせに、人間みたいにみっともなく自分の命にはしがみつかない。あまつさえ、ウルリヒの血を見て吐いて、黒い真珠を二粒零して、気を失った。

 負けたような気がしたし、拍子抜けもした。敵だとしても、こんな状態の彼を殺すことがためらわれた。ウルリヒにだってわかっていた。贄だか海底樹だか知らないが、伝説なんて今を生きている人間を救ってなんかくれない。だから今すぐにでもこの二人の貝の子供を殺すべきだった。こいつらが人に害を及ぼさないなんて保証がない。

 それでも、ウルリヒはできなかった。それが自分の弱さだと自覚してもなお、できなかった。自分の正しさが揺らぐ。人間を生贄にしておきながら、貝の子供を助けてしまう自分はひどく滑稽だと思えた。それでも、ウルリヒは歯を食いしばって、立ち上がった。貝の少年の傷の手当てを言いつける。大人たちは蒼白になって怯えたが、恫喝した。

「血を見て吐くようなできそこないの、どこが怖いんだ。こんなのにすら怯えてどうやってあいつらに対抗するんだ。しっかりしろ」

 カモメが、ギュイ、ギュイと鳴いている。潮風がウルリヒの吐息を攫って行く。テルネラと呼ばれた貝の少女は、警戒しながらもウルリヒの表情を窺っていた。ウルリヒは顔を歪めて、一度二人を縄で縛り上げた。テルネラからはまた睨みつかれて苛々した。


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