青と火花
灰銀に瞬く星屑たちの光が、夜空で擦れたようにくすんでいた。大地は水の粒を吐き出し、森の中は深い霧に包まれる。カモメたちは寝床に帰る途中なのか、オログ達の頭上を空高くゆっくりと旋回し、やがてぱっと花が弾けるようにどこかへ散らばった。
薄暮が迫る森の中では、人々の顔も容易に判別つかない。くすくす……くすくす……。ギュイ、ギュイ、ギュイ……。カモメの鳴き声とオログを取り囲む大人たちの忍び笑いが重なり合って反響している。息を切らしながら、オログは彼らの顔を窺った。彼らの口元には一様に三日月形の笑みが浮かんでいて、歯の白さがうっすらと浮き上がって見えるのだった。
ごつごつとした貝殻の木の根が蛇行する土の上を、つまずきもせず軽やかに皆ひたすら駆けていく。彼らの真珠色の髪には桃色や緑色の光沢が三日月型に浮かんでいて、走る度にくるくるりと忙しく回り続けていた。その三日月のわずかな光を頼りに、オログも彼らの背中を懸命に追いかけた。慣れない道。木の根に何度も足の指をぶつけた。色粉で染めた爪がぱきりとひび割れて痛かった。
闇は深くなる。景色が濃紫色に染まった頃、カモメはギュイ、と一際高く鳴いて空高く消えていった。森はしん、と静まり返る。その静けささえ面白いのか、大人たちはより一層声を押し殺し笑い続けた。
風の哭く音と白濁色の木の葉が揺れる微かな音。そこに、火花の爆ぜる音が加わる。銘々が腕に抱える銅の棒に火を灯して、互いに先端を擦り合わせ灯りを増やしていった。暗闇にはぽつぽつと鬼火のような青い炎が生まれ揺らめく。その後も足を止めることなく森を駆け下り、やがてオログたちは砂浜に辿りついた。
浜辺に突き出した殻の木の枝は
オログは木の根元で腰を屈め、紺碧の水面をじっと見つめた。心臓がけたたましく拍動している。走り続けたせいか、あるいは恐ろしさなのか――。不意にオログの頬を青い光の筋が照らした。眩しさに目を細め顔を上げれば、ひっつめ三つ編みの少女がにっこりと笑ってオログを見下ろしている。オログは眉をぎゅっとひそめ、わずかばかり後ずさった。
「……何、グイルデ」
グイルデは口元を隠してけらけらと笑った。
「やだぁ、そんなに警戒しないでよ。オログったらすっごくかたーい顔してるんだもの。もう少し力抜けばいいのに」
グイルデはオログの腕にさりげなく自分の腕を絡めてきた。彼女が右手に揺らす青い炎がうっとうしくて、オログは顔を背けた。
「何か用」
「用も何も~。特にないけど、でもあたし言われてるのよ。オログの傍に居てやりなさいってね? 初めてだから、不安だろうからってさ~」
「誰に」
オログは波打つ海の水面を睨んでいた。グイルデはオログの耳元に唇を寄せてくる。
「うーん? そりゃあ、まあ、色々?」
オログは深く息を吐いた。息と一緒に体の中の汚い感情が全部出ていってしまえばいいのに。
「僕はこの儀が終わったらテルネラとつがいになるんだよ。だからね、あまりべたべたしないでよ」
「やだ、べたべたなんかしてないよ。違うよ~。不安だろうからついてあげてるだけ。わかった? わかったらね、ほら、浜辺に出るんだよ。あたしも手伝ってあげるからさぁ」
「……なんであなたは、そんなに元気なんだよ」
「うーん? だって、コエナシを捕まえるの久しぶりだから楽しくって! 初めての捕まえたのはぁ、デルフィと、あたしと、シュークの儀の時だった。ね、やり方ちゃんと教えてあげる」
グイルデはそう言ってオログの腕を引いた。
浜辺にはデルフィにシュークヘルト、他にも年若い大人たちが座り込んでいる。デルフィがオログに気付いて手を振った。
「よぉ、大丈夫?」
デルフィはオログを覗き込む。
「何が」
オログは冷ややかな視線を返す。デルフィはどことなく寂しそうに苦笑して肩をすくめた。
「そっか。やっぱりオログは気概が違うねぇ……」
「おい、早くしろ」
シュークヘルトが焦れたように言った。オログは眉をひそめる。
「早くって。具体的に何をするんだよ」
「いちいち盾突く餓鬼だな……いいか、今からお前が海の中に入って、この青い火をちらつかせるんだよ。うまく誘いこめ。引っかかったら向こうからやってくる。それを俺たちみんなで捕まえるからな」
シュークヘルトはにやりと笑った。その顔が嫌で水面に視線を移す。デルフィは水面越しにオログを見つめているようだった。目が合う。
「何……」
「いや」
デルフィはへら、と笑った。
「いってらっしゃい」
肩をぽん、と叩かれる。そのぎこちなさに違和感を覚えながらも、オログはそっと海の波に足を浸してみた。踏みしめれば、爪と指の間に砂が詰まっていく。爪の割れ目から、つん、と塩がしみて痛い。
呼吸の仕方を忘れてしまいそうだ。震える足、重たい体。進む毎に水位が上がっていく。腰まで浸かる頃、ふと足の裏に違和感を覚えた。ころころとした丸い粒のような何かが指の間に挟まって、抜けていくのだ。なんだろう――足を止めて、水の中を覗き込みたい衝動に駆られた。俯いてじっと水面を見ていたら、後ろからシュークヘルトが怒鳴った。
「海に潜ったらだめなんだからな! 行きすぎるなよ! その辺りでいいぞ!」
「うるさいな……」
誰も傍で聞いていないのをいいことに、オログはぼそりと悪態をつく。
海の水はとても冷たかった。潮の香りがすん、と鼻腔をかすめる。この匂い、この冷たさ、この肌の息苦しさ。それらすべてがどことなく懐かしいと感じられた。先刻まで怖気づいていた心が安らいでいく。安心感。きっと、かつて海の生物だった本能が、嫌悪も恐怖も苛立ちも、全て海に溶かしてしまうのに違いない。ずるい、とオログは思う。本当は落ち着きたくなんてないのに、抗えない。
凪いだようで、微かにざわめく波のような心地。オログは右手に握りしめた銅の松明を空に掲げ、ゆらゆらと先端を揺らした。色と光の揺れ、身体を包み込む波の揺れ、寄せては返す潮の香の揺れ。網目の様な波の縁が火に照らされる様は、解れ絡まり合う薄荷色の糸のようだった。どれくらいそうしていただろう。ゆらゆら、ゆらゆら。風に飛ばされながら羽ばたく蝶になったような心地にもなる。意識がぼんやりと曇っていく。
やがて、波がかき分けられる不自然な音を耳に捉えた。ざり、ざわ、ざらら、ざわ、ばらら……。気づけばオログの周囲にも大人たちが集い、松明を銘々ばらばらに揺らしていたのだった。濃紺の世界に、たくさんの小さな青い光の粒が揺れる。それは不自然にも規則的に動く蛍の群れのようでもあって、遠くからはきっと薄荷色の霧にも見えるに違いない。
オログは僅かに口を開けて、小さく息を吐いた。これはなんて綺麗な景色だろう。この時間だけがずっと続けばいいのに。コエナシなんて来なければいい。このまま夜が明けてしまえばいいのに。オログは潮の香りに鼻をぐすっと鳴らした。ややあって。
「来たぞ」
誰かが舌なめずりした。オログははっとして、光の収束する海の深い場所――白んだ水平線を見た。
赤橙の光に包まれた、黒い逆三角形の影だ。それは灰色の霧の中からゆるく滲むように姿を見せた。遠目には測れないが、きっと大きい船だろう。小さな人の影たちが船の上辺で疎らに散らばっていた。やがてそこから粒のような小さな黒い影が落ちた。それは海面に浮かび、拙い動きでこちらへとゆっくり向かって来たのだった――コエナシたちが小さな舟を懸命に漕いでいるのである。
三匹か、と誰かが言って、舌打ちした。少ないな、いや、充分だ、あの大きな船に乗っているコエナシを食べたい、でも、わたしたちは海を泳いではいけないからさ――
密やかに交わされる言葉たちは、オログの意識を素通りして霞むように消えていくのだった。こちらへ向かってくる小舟の影やコエナシの姿さえ、オログにとっては滲む景色の一部だった。そのうち意識がはっきりとしてきたが、それもこめかみの辺りが再び疼き始めたせいだ。
現状を理解した途端、喉の奥から、ひゅう、という音が漏れた。オログはぎこちない動きで自分の周りを見回した。頭一つ高い、青に照らされた影達。その中にぽつんと佇む、幼い自分。そしてのこのこと食べられにくる餌。
「か、は」
猛烈な吐き気が込み上げて、オログはえずいた。食べたくない、という思いが鮮烈に浮かんだ。声にはならなかった。
誰かが様子のおかしいオログに声をかけてきた。けれどオログには届かなかった。オログは遠くコエナシの船を照らす赤い炎をただ見ていた。それがコエナシの血の色のようで、ただひたすらに恐ろしかった。今から捕食しなければいけない。あの赤と同じ色に自分の口を染め上げて。いやだ、いやだ、いやだと願う。どうにもならないことも知っている。頭痛は止まない。肩に置かれた手にびくりと震える。目だけで仰ぎ見れば、デルフィが感情の窺えない目でオログを見下ろしていた。デルフィはそっとオログの耳に口を寄せた。
「……ちょっとね、えぐいけど。大丈夫だよ、僕もね、ちょっと、本当はどうかあったんだよ。でもやらないと、だめだからさ……。さあ、あれの喉を、爪で切るんだよ。指で肉を……削いで。大丈夫……僕も、本当はあんまり好きじゃない」
囁き終えると、デルフィは内緒だというように唇に人差し指と中指を当てる。
そう、か。
オログの手から松明が落ちて海の底へ沈んでいった。たべる、ころす、殺す。奪う、切り裂く、噛みつく、咀嚼する。物言わぬ何かになる。赤錆色の何か。汚れる。殺す。ころす、ということ。そうだ、それが、捕食。おとなになるということ。あれは餌だ。食べなくても生きていけるはずの嗜好物。
オログは両の手の指を、自分の首に絡めて絞めつけた。頭が痛い。胸が痛い。苦しい。愛しい。体中が、痛い。
そうだ。指で、抉るのか。コエナシの首。赤い血を浴びて、嗤うのか。そうしなければ、これからテルネラを守れないから。
ごくりと喉を鳴らして、オログはより深い所へと足を踏み出した。ころころと丸い何かが足の裏に転がって、ふくらはぎに跳ねる。オログはただ、瞬きもしないで、捉えられた三人のコエナシを見つめていた。舟から引き摺り下ろされ、首を絞められ、怯えて泣き叫び続けるそれは、コワイ、コワイ、タスケテクレ、と叫んでいる。
近づけば近づくほど、周囲の音も声も遠ざかっていくようだった。コエナシの悲鳴も、誰かの声も、波の音さえよく聞こえない。ずきずきと拍動するこめかみの痛みだけが明瞭だ。目の奥に瞬く星の眩しさと熱さだけが鮮烈だ。
手を伸ばす。指先に触れたコエナシの皮膚は、熱かった。
「……っ、は、」
指を伸ばすごとに、頭痛は酷くなった。熱を持って、胃に不快感が押し寄せた。痛くて、煩くて、何も聞こえなくて、冷たくて、熱くて、吐き気がするよ。
「ごめ、んね」
オログは息の音だけでそう呟いた。唇での愛撫のごとく、指でコエナシの首筋をそっと掴む。力を込める毎に悲鳴が響き渡って波を揺らすけれど、オログには音が分からない。誰かが急かすように、もっと深く抉れ、と叫ぶ。オログは震える指でがむしゃらに穴を穿いた。誰かたちはもっと、もっと、早く、と責め立ててくる。息をするのも忘れ、言われるがままに引き千切る。言われるがままにそれを口に入れた。噛む。
音がざわり、と波打って帰ってきた。指先の赤。服の染み。肌にべたつく不快感。頭が熱を帯びて、意識が曇る。ぐちゃぐちゃという嫌な音が響いている。海の真ん中で皆ごちそうを食べていた。立ち込めるのは腐った魚のような生臭さ。薄荷色の海には、赤黒い染みが広がっていく。誰かが顔をあげて、にやにやと笑いながら口を手の甲で拭った。頬に広がった赤い血が、まるで化け物の化粧のようだ。それはオログに声をかけてくる。「おいしいね!」――グイルデは楽しそうに笑っている。
オログはそれからも、言われるがままに赤錆の味がする何かを口に入れ続けた。頭が痛い。もうこれ以上食べたくない。助けて。誰か、助けて――
ふらつく体を誰かが支えた。背中を撫でてくれる。デルフィだった。
「吐いちゃだめ」
穏やかな声を零すその口もまた、赤くぬらぬらと濡れている。
「我慢しなきゃ、だめ」
デルフィはそう言いながら、けほ、とせき込み小骨を吐いて捨てた。その体にしがみついて、オログは首を振り続けた。気持ちが悪いんだ。頭が痛い。痛い。痛い。痛い痛い、痛い、痛い、痛い、いたい――
「うううううううぅぁあああああああああああああああああああああああああっ……」
痛みに耐えかねて吐き出した声はまるで獣の咆哮だった。足が滑って水中に体が沈む。涙が滲んで潮の中に溶けていった。オログは籠る音、泡の音、揺らめく紺と水色の光の中で、赤に滲んだ水底にぎっしりと埋もれる乳白色の輝きを見た。真珠、真珠、真珠。白く輝く真珠がごろごろと石を敷き詰めるように散らばって、水底の砂を覆い隠していたのだった。きっとそれは、捕食を進める同胞たちが零してきたそれなのだろう。
オログの喉からもまた、ぼろぼろ、と黒い真珠が落ちるのだった。それは怪しい緑の光沢を浮かべながら白い絨毯を汚していった。真珠は吐いても吐いても止まらなかった。ぼろぼろぼろぼろ。絶え間なく零れて、オログの足もとを汚物のような黒で埋めつくす。腰を強く引かれて、引き揚げられた。人々が何事かに息を呑むその音が耳障りだ。髪の先から水が垂れそぼる。頭痛が少しずつ引いていくのを感じた。黒真珠はなおも口から零れ続ける。ぼたぼた、ぼたぼた。閉めきらない口から垂れる唾液は塩の味だった。力が入らず、担ぎ上げられ運ばれる。食い荒らされたぐちゃぐちゃの死骸も別の大人に担がれていた。いつの間にか青い炎は消え、周囲は真っ暗だ。回収された黒ずんだ銅の棒のぶつかり合う音を聞きながら、オログは泣いた。
一同は森の中を抜け、村の中心、漆黒の闇の中で爛々と燃え続ける焚火の前に集った。
焚き火を背に長老はにやりと口を歪めている。長老の隣に立つ影を認めて、霞んでいた意識はさっと晴れた。体中をどす黒い怒りが駆け巡った。どうしてここに、テルネラが――。睨む。歯がガチガチと音を立てていた。
テルネラの掌には大きな二枚貝の空の殻があった。テルネラの唇は薄青の貝の血で汚れている。腹の奥が焼けたように痛み、オログは地面を殴った。テルネラと言えば、オログを見て固まっていた。オログの怒りに怯えているわけではなさそうだった。テルネラは、オログを見ていた。
「……っ、見な――で」
「オログ……」
悲痛な声は、喉から零れた黒真珠に遮られる。テルネラは貝の殻をぼとりと取り落とした。オログの傍に駆けより、その頬に細い指先で触れた。
テルネラは、オログの目尻に滲んだ涙を指でそっと拭った。オログはぐちゃぐちゃの気持ちのまま、縋るようにテルネラの手に頬をすり寄せた。テルネラはそのままオログのこめかみに手を這わせた。ざり、と嫌な音がした。テルネラが触れたその何かの感触に、オログはぎょっとして目を開けた。皮膚が引きつるような感覚だった。
反射的にテルネラの手を振り払い、オログは自らそこにおそるおそる触れてみた。
ざらついた感触。七色の光沢をもつ灰銀色の粉が、ぱらぱらと零れ落ちた――似たものをよく知っている。殻の木だ。
殻の木の枝が、己の両のこめかみから、生えているのだ。紛うことなき角だった。テルネラはもう一度オログに手を伸ばした。オログの頬を包み込み、額を合わせあって、小さく肩を震わせて。テルネラはぎゅっと目を瞑っている。涙をこらえている。赤い炎に照らされたテルネラの頬と、じわりと濡れ桃色に輝く真珠色の睫毛を、オログは呆然として見つめることしかできない。
「ふむ。ようやっとか」
ベレグラの耳障りな皺枯れ声が、闇夜の静けさに朗々と響くのだった。他に聞こえるのは、火花のはじけるぱちぱちという音だけだ。
「黒真珠の子。お前は成人の儀を以て、女神の贄となった。その角は贄の証よ。その身、わが一族の繁栄の礎と捧げよ」
火花が視界にちらつく。瞬きするのも痛いくらいに、涙も枯れた。
テルネラが耐え忍ぶように唇を噛んでいる。だめだよ、唇が切れてしまうといいたいのに、声は出なかった。祝う様な歓声が巻き上がって、炎の勢いを増す。もう夜なのに。灯りを消して、寝る時間なのに。炎が燃え盛る。燃え盛って、漆黒の夜空に血のような火花を巻き上げる。
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