水苔と洞(一)

 藤棚の奥には白い煙が淀んで漂い、藤の甘い匂いを台無しにしている。鼻腔に侵入してきた煙を押し出すように鼻を鳴らせば、切株に座っていた老齢の男が振り返った。

 長老ベレグラは、オログの姿を濁った眼でじろりと観察した。髭で覆われた口元が、歪んで吊り上がる。その節くれだった指が葉巻の束を握り直したので、灰がぼたぼたと落ちていった。生い茂った髭の中から小さな熊蜂が飛び出して、ぶん、と唸る。オログは不快そうに顔を歪めた。

「なんだ、黒真珠の子」

 ベレグラは、聞き取り辛いしゃがれ声で言った。

「オログです。……テルネラとつがいになるお許しをいただきに来ました。僕を――僕たちを、早く大人にしてください」

 ベレグラの細い眼が、微かに見開かれた。ベレグラは葉巻を咥えて、煙をくちゃくちゃと食むように吐き出した。オログは口を引き結んだままきゅっと眉根を寄せ、手を握り締める。

「また、どうして」

 ずいぶんと間をあけた後、ベレグラは口元を歪ませるとそう言った。歌うような声だ。

「僕が、もう我慢できないから」

「ふん」

 ベレグラは葉巻を指で打ちながら、視線をオログの右の耳に寄せた。

「その真珠は?」

「テルネラのものです」

「ほう。いつ吐いた」

「夜明けのころ。散歩をしていたら吐き出しました。体は怠いみたいで、今は寝ています」

 ベレグラの瞳が鈍く光ったように見えた。

「そうか……あの娘、コエナシモドキではなかったか」

 辺りを飛び交う熊蜂がオログの耳飾りにがつん、がつん、とぶつかっていく。それを払いのけたい衝動に駆られながらも、オログは努めて不思議そうに首を傾げた。ベレグラは再び葉巻を口に咥え、鼻を鳴らした。

「あの娘、ろくに水も飲まぬ、木も食まぬ。あれでは丈夫な子は産めまい。お前はそれでよいのか」

「構いませんが。僕がそれでいいと言っているのに、何か問題でも?」

 オログはにこりと笑った。

「生意気な子供だ」

 ベレグラもまた、並びの悪い黄ばんだ歯を見せて笑った。

「ふむ……【黒真珠の子】に、嫁」

 ベレグラはぶつぶつと呟いている。

「【黒真珠の子】は村で最も尊き存在なんでしょう。それなら、僕が早々に嫁を貰ったところで何の不都合もないですよね? いつかは僕がこの村を支えていくのだとおっしゃったではありませんか。僕は早く大人にならなければいけないんだ。長老殿は死に急ぎたくてその葉巻を毎日のように吸っていらっしゃるから」

 嫌味を込めて言うと、ベレグラはわざとらしく時間をかけて、煙をオログの顔に吐きかけた。口の匂いも相まって最悪だ。けれどオログは、努めて笑顔を装った。ベレグラは巻貝の殻の上に葉巻を置き、顎の髭を手慰んで考え込む素振りをする。

「ふむ。村を支える、か……間違ってはおらんが、な」

「何か?」

 オログは眉根を寄せた。ベレグラは揶揄するように目を細める。

「【黒真珠の子】のつがいがあれでは、心許ないな……グイルデはどうだ? あれは気立てもよく、美しい真珠を産む娘だが」

「出来のいい娘は願い下げです」

 喉の奥から、焼けるような熱がせり上がってくる。ぽろり、とあっけなく黒真珠が零れて、ベレグラの足元に転がった。続けて三粒、ころころと零れ落ちた。大きさは疎らだった。それを見遣ると、オログは急くように言葉を吐き出した。

「そもそも、テルネラを貴方がたからするところの【出来の悪い娘】に仕立て上げたのは、ほかでもない僕なんですよ。そうすれば誰も、あの子を欲しいだなんて思わないでしょう? 僕以外は。あの子に、執着したりしないでしょう。だのに僕がもらってやらなかったら、あの子がかわいそうだ」

「ふむ。なかなかに策略的だ」

 微笑むオログを見遣り、ベレグラはくつくつと喉を鳴らして笑った。

「ならば、成人の儀を二人執り行うか? 大人の真似事をする覚悟が、確かにあると言うならば、それを赦そう」

 オログはようやく息をついた。

「ありがとうございます。それで……結局成人の儀では何をするのですか? 準備は……」

「必要ないぞ」

 ベレグラは、貝殻の隙間に積もった灰の粉を、指で手慰んだ。

「コエナシの肉を食べる。ただそれだけだ。それが儀式。我らの習い」

「……貴方がたは、コエナシを食べて大人になったのですか」

 オログは、声が震えないように、必死で平静を装いながら呟いた。熊蜂が再びオログの頭上をぶん、と飛んだ。

「……どうしてそれが成人の儀なのか、聞いてもいいですか?」

「何故だね」

 ベレグラはオログの瞳を見つめながら纏わりつく蜂を手で払う。

「儀式の意味を理解しないまま、大人になりたくはないからです」

「ふん」

 ベレグラは笑った。

「稚児と大人の違いは何か……肉を、即ち【命】を奪うことが出来るか否かに尽きる。かつて我ら貝の一族は卑しくも人間の姿を女神に乞い、人形ひとがたを得た。人形なれば、より下等な生命を奪い、生命を繋ぐが生きる定め。故に我々は肉を食らう。浅ましきコエナシの肉を食べ、我らこそ真の人形とならんがため」

 蜂の羽音が耳につく。オログは胸の奥に気持ちの悪さを覚えながら、口の端を釣り上げた。

「子供は肉を食べられないと仰いましたね? それは何故ですか」

「真珠を吐く以前の子供は――」

 ベレグラは顎の髭を撫で続ける。

「――肉を消化する能力が乏しく、故に生き物の肉は体の毒となる。稚児のうちにそれを食むれば、以後真珠の作れぬ体となるのだ……そう、伝わっている。だが、お前は誰よりも早く真珠を零した子供。然れば儀を早めて障りはあるまい。だが、テルネラは、昨日の今日で、さすがにコエナシの肉は体にきつかろう。あれには貝の肉を食わせよう。かつては我が同胞であり、今では我々より下等な生物……コエナシの代わりとして、貝肉ならば不足も無かろうよ」

「そんなことをして、テルネラが今後真珠を吐けなくなるなんてことはありませんか」

 オログは震えを悟られないよう声を潜めた。

「ふむ。そうさな、吐く数は減るやもしれぬ。何せ真珠を吐いてから一日と経っておらぬのだから」

 ベレグラはにやりと笑う。

「だが、真に真珠を零したのであれば、今後全く吐けぬなどあるはずもない。我々貝の末裔は肉を食えば食うほどに上質な真珠を生み出せる生き物なのだからな」

 ベレグラはにやりと笑った。

「わかりました。ではそのように伝えます」

 耳元で煩い熊蜂を手で払い、オログは頭を垂れた。

「コエナシの肉は……どうするのですか」

「ふむ。普段は干した肉を食ませるが、黒真珠の子、お前は特別だ」

 ベレグラは口を歪ませた。

「今夜、みなを狩りに向かわせよう。祭りだ。お前はお前の食むコエナシを己が爪で捉えるが良い」

 オログは笑った。

 噎せ返るような藤の蜜の香りに、鼻の奥が爛れるようで、吐き気がした。



 水じみた唾液が次から次へと込み上げる。オログは震える唇の端から、それをだらだらと零し続けた。こめかみはずきずきと疼き、目蓋の裏では赤銅色がちらついている。気持ちが悪い。僕はあれを食べるのか。食べなければ、テルネラを、守れないのか。

「ああ、テルネラに、なんて言おう」

 オログは熱を持った頭でのろのろと考えていた。まるで内側から肉を抉るかのように、こめかみが疼き続ける。オログはやがてうずくまった。草は湿り気をまとって頬に貼りつき、切り傷を付けてくる。青い血の滴がぽたりと零れて土に染み入る。オログは頬をそっと指でなぞった。爪の間に血が潜りこむ。視界の端では、ぼやけた青紫色が揺れていた――露草が、咲いている。

 オログの体に潰された露草の花が、オログの指先にじわりと青を滲ませた。花の色はすぐに血と混ざってしまう。オログは濃い青に染まった指を震わせ、腰に手を伸ばした。小さな銅剣を鞘から抜き取り、草の間でうねる殻の木の根をがりがりと削って、口の中に放り込んだ。……当たり前だ、当たり前のことなんだ。食べる練習をしなきゃ。そうしなければ、僕がしっかりしなければ、テルネラが。

 木の根を伝ってのそのそと這い回る角突き虫が目障りだ。オログは目を瞑って頭を振った。顔の左側に垂らした三つ編みが木の根にぱしぱしとぶつかるのが今はうっとうしく思える。ぶん、と耳障りな羽音が響いて、遠くで小さく掻き消えた。

 口壁に貼りつくざりざりとした木の粉を、唾でごくりと呑み込んだ。湿り気を帯びた掌には、七色ににも輝く灰色の殻の粉が散らばって、砂のようにまとわりついている。それを不快な心地で眺めながら、オログはのろのろと立ち上がった。掌を服で拭って、焚火の前に戻る。紫色に霞む森で赤々と燃え盛る炎の輝き。煤の匂いがつんと鼻をついた。

 カーン、カーン、と澄んだ音が響いている。大人たちが、土の中から堀り出した鉱石を鉄の棒で砕いていた。その影の合間に、見知った顔を見つけて、オログは歩み寄る――シュークヘルトは、錆びた銅の塊を見慣れない黒色の棒で一心不乱に擦っていた。その隣に腰を下ろすと、シュークヘルトはうろんな眼差しを寄越した。

「あ? ……なんだよ、お前か」

 シュークヘルトは溜息をついた。オログは静かな声で尋ねる。

「何をしてるんですか?」

「お前の成人の儀のために、銅を磨いてやってんだよ。感謝しろ」

「どういうこと?」

 オログが首を傾げれば、シュークヘルトは鼻で笑った――そんなことも知らないのか、とでも言うようだ。

シュークヘルトは、錆の削ぎ落とされた銅塊を炎に掲げてみせた。

「これにな、火をつけると……青い輝きを放って燃えるんだ」

「それがどうかしたんですか」

「……お前、本当に何も知らないんだな? そもそも大人ってのはなあ、こういう知識を一通り教わってから成人の儀を終えるんだぜ。まあ、お前は黒真珠の子だし? 長に優遇されたんだろうけどな」

 シュークヘルトの呆れたような声に、オログはむっとして口を引き結んだ。ちょうどその時、後ろでがさがさと草を踏みしめる音がした。

「シューク、さっきから何をぶつぶつと――って、なんだ、オログかぁ」

 デルフィの声だ。ぼさぼさ頭が特徴的なこの青年は、シュークヘルトの幼馴染でもある。オログはあまり話したことはなかったが、いつもへらへらと笑っていて気が弱そうだという印象はあった。デルフィもまた、錆びた銅塊と真っ黒な棒を脇に抱えている。ふわぁ、と欠伸をしながらオログに笑いかける。

「成人するんだってな、おめでとう」

「うん……あの、その真っ黒いの、何?」

 オログは躊躇いがちに指差した。デルフィは黒ずんだ指先で頬を掻き、首を傾げる。そばかすだらけの青白い頬に、煤の線が引かれていった。

「ん? ああ、木炭のこと?」

 デルフィは黒い塊を軽く投げ上げ、再び掴んだ。

「これなあ、貴重なんだよ。この大陸にはないからさ」

 デルフィはのんびりと、歌うように言った。

「それって、どういうこと?」

 オログが眉をひそめると、シュークヘルトが嘆息気味に答えを引き継いだ。

「元はコエナシのいる陸にわんさか生えている木だとよ。それを時間と手間をかけて燃やして、炭にする。火をつけるとよく燃えてなあ、これが俺たちの焚火を支えているってわけだ。ついでに、錆びた銅もこれで磨けば元通り」

 シュークヘルトは艶やかな赤銅色をもう一度炎にかざして笑った。オログはますます眉間に皺を寄せた。

「よくわからないんだけど……つまり、コエナシの陸に降りてわざわざその木を採ってきてるの?」

「ああー……そうじゃない。コエナシの陸は海を隔てた向こう側にあるだろ。容易に行けるものでもねえしな。こういう祝い事がある時に、この銅を使ってコエナシを誘き寄せる。するとコエナシは木でできた船に乗ってほいほいやってくるんだ。コエナシを捕まえたついでに、船をばらして、乾かすだろ。それを炭にしてるってだけ」

 シュークヘルトは、額を手の甲で擦った。デルフィも頷きながら苦笑する。

「舟が僕たちにも作れればいいんだけどね、試してはみたけど、殻の木じゃうまく作れないんだよね。だから僕たちは、実際にこの木を見たことはないんだ。もしかしたら、木以外にもコエナシの陸には役立つものがいっぱいあるのかもしれないけど……あそこには殻の木がないから、僕たちは生きていけないしね。うまく共栄できたら、いいはずなんだけどな」

 デルフィは、小さな声でそう言った。シュークヘルトがデルフィをじろりと睨みつける。

「はあ? お前まだそんなこと言ってんの? だからさあ、なんでコエナシなんかと共栄しなきゃいけねえんだよ。木が役に立つってのには同意だけどな。あんな下等生物とだなんてぞっとする」

「……あんまりばかにしてると、いつか足元すくわれるよ」

 デルフィの声は思いのほか仄暗い。シュークヘルトの顔は見る見るうちに険しくなった。

「あ?」

「……ごめん、悪かった。怒らないで。……でもさ、あんな船作るんだよ、コエナシは。僕らが思ってるほどばかじゃないかもしれないじゃないか」

 シュークヘルトはその顔に嘲笑を浮かべた。沈黙が続いた。

 ややあって、オログは口を開いた。

「それで、その磨いた銅は、何に使うの?」

 二人が振り返る。デルフィは眉尻を下げて微笑んだ。

「燃えると青い炎になるんだよ」

 意味を図りかねて、オログは眉根を寄せた。デルフィはくすりと笑って鼻を掻き――鼻まで黒く染まってしまった。

「えっとね、コエナシの木は容易く燃えて灰になるけれど、僕らの殻の木はただの火、つまり赤い炎じゃ燃えないんだ。でも、青い炎……この陸一帯を包み込むような青い炎なら、燃えて灰に帰る、っていう古い伝説があってね。だからコエナシは、コエナシを食べる怖い怖い僕らを滅ぼすために、青い炎が欲しいんだと思う」

「そうそう。だけどな、銅を燃やして得られる火なんて、殻の木を炭にするわけでもなし、ただの色つき炎ってだけだ。青く燃えるのなんて別に銅に限った話じゃねえだろ? すずや鉛燃やしたら紫色の炎が出るしさ。ほんとにただ色がついてるだけなんだよ。だけどコエナシはそんなこと知らねえの。あいつらは金属の加工技術なんて持っちゃいねえからな。だから、こんなおもちゃみたいな青い炎をちらつかせるだけで簡単に釣られてのこのこやってくる。それがばかでなくてなんだっつうんだよ。とにかくな、これは、そういう【餌】用に、一度燃やした銅を磨いて綺麗にしてるってわけ」

 得意げに語るシュークヘルトの横で、デルフィが灰の香りにくしゅん、とくしゃみをした。シュークヘルトは気を削がれたのか不機嫌そうに鼻を鳴らしたが、デルフィは素知らぬ顔で座り込み、銅を磨く作業に戻った。不器用なのか、適当なのか、顔やら腕やら、肌のあちこちに汚れを広げながら――シュークヘルトは指先以外ほとんど汚れていないというのに。

 オログは静かに立ち上がり、ふらりと歩き出した。シュークヘルトはちらと一瞥しただけで、後は黙々と作業を続ける。しばらくして振り返ると、なぜかデルフィが、いつまでもオログの姿を見送っていた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る