「一杯のお茶」の意味
幸せっていうのは、出された一杯のお茶を美味しいと思えることだ。
これ、高校一年生で強制山籠りさせられたときに坊さんからいただいた言葉なんですけど、説明すんの忘れてました。
うちの高校は入学後すぐに研修とかいって山籠りをしていました。
いろいろ理由があったはずなんだけど、細かいことは忘れちった。
とにかく、確か2泊3日くらいで、山の中の研修施設に行ったのです。
その中でイベントとして、スケートだかなんだかと、座禅っていうのが組み込まれてました。
例によってわたしはそんなお利口なタイプではなかったので、最初からスケートの時間帯は腹が痛くなる予定にしていました。
ええまあ、あの、面倒だったので。
ひとりで楽しく携帯弄ってた気がします。
んで、座禅。
座ってるだけならまあいいかと思ってこちらは参加。
座禅だから、曹洞宗だったのかな、あまり詳しくないので断言はできませんが。
座禅は楽しかったです。
瞑想は馴れたもんですし。
その座禅のあとに、今さらだけど坊さん呼びで合ってんのかなあ、まあ面倒だから坊さんって呼ぶね、その方にお話しをいただきました。
その時に教えていただいたのが、上記の言葉です。
お茶って、よく飲みますよね。
コーヒーとかジュースよりも素朴。
そういった日常の中のありふれた素朴な味をちゃんと「美味しい」と思えること。
または、お茶って勝手に目の前にぽんって出てくるものではないわけです。
お茶を、自分のために淹れてくれる人がいるわけですよ。
自分のためにお茶を淹れて持ってきてくれる人がいる。
それをちゃんと理解できて、感謝できること。
それと、お茶っていうのは他の、たとえば目に見えないものにも置き換えることができるわけです。
人の、自分のために向けられた優しい気持ちとか、自分のためにしてくれたこととか、そういったことにきちんと気づくことができて、感謝をすることができる。
そういうこと。
そういった気持ちを「もつことができること」が、それすなわち幸せである、と。
そういったお話しでした。
その当時わたしは今よりも随分素直だったもんですから、その説明がとっても心に響きました。
以来ずっと大切にしています。
両の手のひらを合わせると、皺と皺が合わさって皺合わせで「しあわせ」。
手の甲同士を合わせると、節と節で節合わせになって「ふしあわせ」。
不自然な難しいことは必要ではないってことです。
素直に自然にしていることが大切。
そう教わりました。
あ、別に仏教に信心深いとかそういうわけじゃないよ、床の間を物置きにしてたくらいだからね。
通ってる幼稚園はカトリックだし、実家は神道です。
いろんな宗教の良いとこ取りができるのって、日本文化の素敵なところですよね。
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