1-1 伝説の桜 仙道さくら

 自分の名前と同じだからだろうか。桜の花、桜の季節に、涙がでるほどの愛着を感じる。愛着という言葉とはちょっと違うかな。魂をゆさぶられるんだ。

 蕾が日に日に大きくなり、小さな小さな花が開く。暖かい穏やかな日の三分咲き、冷たい小雨が滴る五分咲き、期待ワクワクの八分咲きから、世界が一気に桜色に染まる満開へ。

 どこまでも続く河原の桜並木。少し細い道にかかる桜のトンネル。風がざわめく。花びらが舞う。急に風雨が強くなり、薄紅色の水たまりができる。川面が花びらで埋まり、ゆっくりと流れゆく。

 瞬く間に過ぎゆく季節。その緩やかで目まぐるしい一日一日が愛おしく、咲く花、散る花、舞う花に心揺さぶられる。


 入学式が終わり、ようやく新しい生活に慣れ始めた頃、会津の桜は満開を迎える。伝説の桜があるという、ここ会津桜木高校の桜も、今がまさに満開だ。

 仙道さくらは、この春晴れて会津桜木高校の門をくぐった。県下でも有数の進学校。かといって特に何がしたいというわけでもない。ただ穏やかに毎日が過ごせれば、それでいい。望むべくは、何事もない、平穏な日々。

 だから部活にも入る気はなかった。ただでさえ運動神経が悪く、特に球技はまるでダメ。文化系にも興味はなかった。幸い、桜木高校の校風は勉強優先で部活動に積極的ではなかった。運動部は野球、サッカー、バスケ、軟式テニス、卓球だけ。文化系も美術部と吹奏楽部があるだけだった。どの部も目立った成績はあげておらず、県大会の予選で何回勝てるかといったところ。まもなく創立百周年を迎えるが、学校の屋上から「祝インターハイ出場○○部」の垂れ幕がかかっていたことなど、おそらく一度もないだろう。

 廊下や階段には「新入部員求む」の手作りポスターがところ狭しと貼られ、少し歪なテニスラケットやバスケットボールのイラストが自己主張する。トランペットやクラリネットなどたくさんの楽器が躍るのは吹奏楽部。桜の木のポスターは生徒会の募集のようだ。入学後の二週間は体験入部ということで、すべての部活を体験することができるのだが、帰宅部を決め込んでいるさくらにはまったく関係がなかった。チャイムがなり、ホームルームが終わり、何の迷いもなく、自転車で帰宅する。

 ただ、一年で唯一、この時期だけは特別だ。桜が咲き誇るこの季節だけ、さくらは一人「桜部」になる。一人「お花見同好会」といったほうがしっくりくるか。そして、この特別な季節のなかでも、更に特別なのが、今日、今、まさにこの瞬間だ。天気予報では、明日は春の嵐。この花々は満開にして、明日には散る。

「静心(しづこころ)なく 花の散るらむ」

 小倉百人一首の有名な句が、今のさくらのざわざわした心とシンクロする。

 千年も前から、人は桜を見て、同じようなことを思っていたのだろうか。


 金属バットのキーンという音や、「うーい、うーい」という低いかけ声を遠くに聞きながら、さくらは鞄を持ったまま学校の敷地内を散策した。一本一本の桜を愛でながら、学校で一番の桜を探す。この学校で一番古く、大きい、桜木高校を桜木高校たらしめている桜。この土地の主のような大樹がきっとあるはずだ。

 「さくら」という名前をつけてもらっただけあって、生まれたときから毎年、春になると家族でお花見をした。

 福島には桜の名所が数多くある。樹齢千年を超える日本三大桜のひとつ三春滝桜、その娘と言われる紅しだれ地蔵桜。SL列車のある喜多方のしだれ千本桜、鶴ヶ城公園、霞ヶ城公園。ソメイヨシノの寿命が約60年と言われるなか、開成山公園には樹齢約140年のソメイヨシノが現存するし、花見山公園は福島の桃源郷とも言われている。その他にも、10本の幹からなる石部桜や、笹原川、藤田川など、幾多の桜が美を競うように咲き乱れる。毎年毎年、涙がでるほど美しい桜を愛でながら、しかしさくらの父と祖母は、それでも一番は桜木高校の桜だと、毎年毎年口をそろえるのだった。

 さくらの父と祖母は共に桜木高校のOBだった。三世代続けて同じ高校に通うなんて、地元でもなかなかないことだろう。国の天然記念物になってもおかしくないほどの桜なのに、学校のエリア内にあるため、一般の人は立ち入り禁止で見ることができず、さらに、校内でも目立たない場所にあるため、桜木高校の関係者以外には、その桜の存在はほとんど知られていなかった。在校生でさえ、一度も見ないまま卒業する者も少なくないようだ。

 桜木高校はさくらの家から一番近く、偏差値も高い、申し分なく第一志望の高校だったが、偏差値よりも、家からの距離よりも、子供の頃から聞いてきた桜の木を自分の目で見てみたい、というささやかな願望が、実は一番の志望動機だった。受験勉強に行き詰ると、まだ見ぬ桜の木に妄想を膨らませた。

 しかし、入学して一週間経つというのに、まだこれという桜には出会っていなかった。

 自転車置き場、体育館、校舎、プール、グラウンドと、30分ほどかけて校内を一周したが、しかし、それらしい大樹は見当たらなかった。枝ぶりが大きく横に拡がった、降ってきそうなソメイヨシノは何本かあったけれど、それでもこの一本と呼ぶには何かが足りない気がした。

 こんなにいい季節なのに、花見をしている生徒はほとんどいなかった。あまりいけていないカップルが、舞い落ちる花びらを掴もうと、ふざけあっている。男が手を伸ばすが、花びらにかすりもしない。両手で挟み込もうとしたり、ボクシングのまねをしたり、ジャンプをしたり、しかし花びらを掴める気配はまるでない。その姿は、なんというか、あまりにもいけてなくて、見てはいけないというか、見たくないというか、失笑するしかなかった。


 さくらがはじめて高遠彩(サヤカ)に出会ったのは、目的の大樹が見つからず、半ばあきらめかけてもう帰ろうか迷っているときだった。

 彼女は一人、頭上の桜を見あげていた。170㎝を越えているであろうスラリとした長身に、黒のロングヘアー。勝ち気で自信のありそうな強い目。女性ファッション誌のトップモデルとしても十分通用しそうな、凛と背筋を伸ばした立ち姿に、さくらは思わず息を飲んだ。距離は10メートルほどだろうか。別に隠れているわけではないのだが、彼女は誰をも寄せ付けないオーラを発していて、木陰からひっそりと見守る形となった。

 桜を見上げていた顔を正面に戻すと、サヤカは目を閉じ、ふーっと長く息を吐きだした。右足を小さく一歩踏み出すと同時に、左手をへその前、右手はみぞおちのあたりにゆっくりと動かす。両の手のひらはパーの形で軽く開いている。目を開く。背筋が更に一段伸びる。

 空気が変わり、何かが始まる、と思った瞬間、彼女はクルリと回転した。右足を軸に地面にコンパスで円を描くように回転する。チェック柄のスカートがひらりとなびき、地面の花びらが宙を舞う。

 ピタッときれいに静止したとき、目があった。

 木陰からひっそりと見守っていたのに、残念・・・目があってしまった。

 二人とも固まった。

 出鼻を挫くというか、水をさすというか、すいません、完全にお邪魔でしたよね。。。

 固まった筋肉をほぐすように、サヤカはふいに手首をクネクネと動かし、肩と首とを左右に揺さぶった。そして、1回2回と、上半身だけテニスの素振りのような仕草をしたかと思うと、さくらの存在などなかったかのように鞄を持ち、踵を返して反対方向へ行ってしまった。

 グラウンドのまんなかを突っ切るサヤカを目で追う。野球部もサッカー部も関係なく、まるでそこが自分専用の道であるかのように、サヤカはグラウンドの真ん中を歩く。なぜだかさくらはサヤカを追いかけた。グラウンドを突っ切る勇気はさすがになく、歩道を歩きながらサヤカの向かう先を追う。

「テニス部?」

 グラウンドの奥にあるテニスコートにサヤカはまっすぐに向かっていく。

 そのとき唐突に、その桜が目に飛び込んできた。テニスコートの奥に明らかに一回り大きい桜が見えた。

「あの木!?」

 大きく揺れる桜の木にひかれるようにテニスコートに近づき、遠目から桜を見つめた。どうやらテニスコートに入らないと、桜の樹にはたどり着けそうになかった。

 サヤカはテニスコートの前で姿勢を正して一礼し、コートの中に入っていった。

 女子部員の一人が「ファイトー」と声をあげる。こだまのように「ファイトファイトー」と違う女子の声が続く。パコーンと軟式テニス独特の少し湿った音が響く。体験入部らしき一年生も何人かいる。

 もう少し近づきたい。というか、あの桜の下に行きたい。どうすればたどり着けるかな、と辺りをうかがうと、さくらと同じように、遠い目をしてテニスコートを見ている女子生徒が一人。さくらの視線を感じたのか、彼女も不意にさくらを見た。

 小柄でぽっちゃりした彼女はニコッと笑い、こちらに歩いてきた。

「一緒に行こう」

 唐突に彼女は言った。

「気になるんでしょ。私も一人じゃ行きにくいな、と思ってたとこ」 

「いや、でも…」

「いいから。行こう」

 それが笹岡日向子との出会いだった。

 彼女はさくらにはおかまいなしにテニスコートに入っていく。

「ほら、早く。行くよ」

 満面の笑顔で強く手招きされ、目立たぬように、テニスコートの端を歩く。

「体験の方ですね?」

 優しそうなテニス部の先輩が近づいてきた。

「はい」

「いえ」

 同時に声がでた。

 先輩は一瞬不思議そうに二人を見たが、条件反射的に、体験入部員に何度も言っているであろう言葉を続けた。

「じゃあそこから部室につながってるので、着替えてきてください」

「はい」

「いや」

 また同時に声がでた。

「いやいやいやいや、私ちょ、無理無理無理無理、絶対無理。私テニスなんてやったことないもん。運動神経ゼロだし、本当、無理」

「無理無理言うな。私だってやったことないわ。じゃあ、なんであんなに見つめていたのさ。いかにも憧れのテニス部って、ウルウルしてたよ」

 ヒナコは笑顔のまま、ずけずけときついことを言う。

「えっ、いや、あー、私はただあの桜に…」

 と、大樹の下を見てギョッとした。

 遠くからでは見えなかったのだが、十人ほどの男女がレジャーシートの上で、まったりとくつろいでいる。ジュースを飲んだり、寝転んだり、スマホでゲームをやっている者もいる。

「あ、そっち? お花見同好会の方?」

 ヒナコが聞く。

「お花見同好会? そんなのあるの?」

「ポスターたくさん貼ってあったよ」

 廊下で一瞬チラッとみただけの桜のポスターがフラッシュバックする。自分には関係がないと決め込んでいたからきちんと見なかったが、そうか、あれがそうだったんだ。

 お花見同好会。そんな素敵な同好会があるのなら、私、入りたいかも。

 今、この瞬間、明日には散ってしまう大樹の下にいる彼らは、おそらくきっとセンスがいい。

 お花見同好会の面々は、全員が二人をじーっと見ていたが、さくらの視線に気がつくと、彼らの中でも一際体の大きい男が立ち上がった。

「歓迎。お花見同好会&生徒会」のポスターを両手に持ち、「こっち見てー」とばかりに、ポスターを左右に揺らす。

「ん?」とさくらが興味をもったところで、彼はピタリと動きをとめ、ポスターの横から愛嬌のある熊のぬいぐるみのような笑顔をだした。

「どうですかー? 楽しいですよー」

 声には出さないのに気持ちは伝わった。

 もしかして、私の居場所、見つかったかも。

 ふらふらと、彼らに近づこうとするさくらの手を、ヒナコがぎゅっと握った。

「テニス!」

 さくらの手のひらを、さらに両手で包みこみ、にっこりと笑う。

「まずテニス。桜はその後にしよ」

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