過去編 総次と麗華、春風の出会い

第1話

 五月も終わりに入ったある日の昼下がり。麗華は局長室のデスクの上で各部署から送られてきた書類の山と格闘していた。新戦組では月末に総務部や経理部での決算や手続きを終えた資料の押印枚数が多くなり、麗華の負担もいつもの数倍に跳ね上がっていた。しかも永田町・霞が関襲撃事件の後始末の影響から未だに事務が滞っており、それも麗華の負担を大きくしていた。


「はぁ……」


 書類の一枚に押印をした麗華は、背もたれに背を預けて思いっきり伸びをする。


「お疲れ様、麗華」


 すると彼女の手伝いで資料整理をしていた薫が、その手を止めて麗華の肩をもみ始める。薫はこの日休みだったのだが、あまりの量の資料を前に苦戦していた麗華を見て「自分も手伝うから」と言ってその半分の整理を請け負っていたのだ。


「ありがとう。でもごめんなさいね。せっかくの休みを私の為に使わせちゃって」

「いいのよ。あなたの為なら一日の休みくらい、どうってことないわ」


 麗華の謝罪を微笑みで返す薫。こんな姿は同級生でも麗華以外では絶対に見せない。麗華に対してだからこそ見せられる笑顔なのだ。


「ちょっと疲れたわね。薫はどう?」

「確かに、流石の私もクタクタだわ。そうそう、さっきコーヒーを淹れたから、ちょっと待ってて」

「お願いね」


 薫は局長室の本棚の隣に置かれているコーヒーメーカーに向かい、その隣に置かれている紙コップを二つ取り出してコーヒーを注ぐ。


「どうぞ、麗華」


 そう言って薫は紙コップの一つを麗華に渡した。


「ありがとう、薫」


 薫への謝意を述べながらコーヒーを一口啜る麗華。


「相変わらず、薫の入れるコーヒーは良い香りがするわ。味も美味しいし」

「そう言ってもらえると嬉しいわ」


 嬉しそうにそう言いながら、薫は部屋の中央の対面ソファの片方に腰を下ろした。


「もう五月も終わりね……」


 椅子を窓側に向かせながらそうつぶやく麗華。


「そう言えば、あれからもう十二年になるわね」

「十二年?」


 突然の薫の発言に首をかしげる麗華。すると薫は微笑みながらこう補足する。


「あなたが沖田君と出会ってからよ」

「ああ、そう言うことね」


 そういわれて納得した麗華。


「まさか忘れてたの?」

「そんなことはないけど、ここ最近いろんなことがあって、私ったら頭の回転が鈍くなっちゃったかしら?」

「もう、麗華ったら」


 おどける麗華に対してどこか楽しそうに振舞う薫。彼女は麗華がその程度のことで頭の回転が鈍くなることはないということを知っていた。


「でも、確かにあの時程私の心がときめいたことはないわね……」

「あれがときめきって言えるの?」

「どういうこと?」


 珍しくムキになる麗華。すると薫はくすくす笑いながらこう言った。


「だって、あの時のあなたは本当にショタコンこじらせて、犯罪に走るんじゃないかって心配だったのよ?」

「え?」

「自覚なかったの? 朝に学校で会って話を始めれば第一声が沖田君だし、お昼休みに一緒にお弁当を食べてても沖田君。あの時のあなたからあの子の名前を聞かなかった日はないわ」

「そ、その時の私ってどうなってたの?」


 恐る恐る尋ねる麗華。


「頬を赤くして、身体をもじもじさせて、私としては彼氏の惚気話を聞いてるみたいだったわ。でも相手が六歳だったことを考えると……ね」


 苦笑いしながら思い出す薫。


「……そんなに、ヤバかった?」

「ええ。犯罪者の一歩、いえ、半歩手前だったわ」


 薫に確認を取り、急に顔を赤らめて顔を両手で覆う麗華。


「ふふっ、今更恥ずかしがることないじゃない。今となっては私にとってもいい思い出よ?」

「……本当?」

「ええ。あの時の麗華、本当に可愛かったもの。何より、幸せそうだったわ」

「……確かに、今もそうだけど、あの時も本当に幸せだったわ」


 そう言いながら、麗華は総次と出会った頃のことを思い出し始めた。


―――――――――――


 今から十二年前。二〇〇四年の四月の後半。麗華は港区のお嬢様学校「雪乃妃女学園ゆきのきさきじょがくえん」の高等部に通う十五歳の高校一年生だった。この日は剣道部の稽古を終え、カバンと竹刀と胴着を肩にかけ、中等部時代から使っている帰り道である土手沿いを歩いていた。


「はぁ。やっぱり短くし過ぎたかしら?」


 恥ずかしがりながらスカートの裾を指先でつまむ麗華。校内では規則として膝丈までの長さでなければならないが、東京の西部にある姉山まで来ればと周囲の目をそこまで気にする必要もない為、年頃の女子高生らしく、スカートを折って短くしていた。とは言え、調子に乗って下着が見えてしまいそうな程に短くしてしまった為、流石に恥ずかしい思いが出てきていた。


「でもまあ、この方が可愛いし、いいかな?」


 そう言いながら周りを見渡し、特に人がいないことを確認して改めて歩き出す麗華。微かに吹く向かい風が、ウェーブのかかった栗色の長髪を靡かせる。


「はぁ! はぁ!」


 すると土手の下から高い少年の掛け声が聞こえてくる。


「あら? 何かしら?」


 普段人気のない土手沿いで聞こえる声が気になり、麗華はその声の主がどこにいるのかを辺りを見渡しながら探す。


「あの子かしら……?」


 麗華は自分のいる場所から五十メートルほど向こう側にいる少年に気づき、静かに近づく。二十メートル手前まで来て、声の主の姿がはっきりと見えてきたその瞬間……。


(はっ‼ あの子……‼)


 麗華の全身を電気が駆け巡る。彼女が視界に捉えたのは、まだ小学生とも幼稚園児とも言える、黒髪と丸い眼がが特徴的な、幼く愛嬌のある少年だった。少年は子供用の竹刀を手にして真剣な表情で素振りをしている。


(……可愛い、なんて可愛いの♥)


 両手で口を覆い、頬を赤らめて全身を微かに振るわせる麗華。いてもたってもいられなくなり、少しずつ少年の方へ足を向かわせる。


「はぁ! はぁ!」


 麗華が近づいてくることに全く気付く様子のない少年。剣道での足の運びに慣れた麗華は、他人が全く気付くことなく近づく術を知っており、だからこそ少年は気づかなかった。


(……もっと近くで見てみたい。あの子の姿を……‼)


 声を殺し、少年に気づかれないように近づく麗華。既にその距離は五メートルまで来ていた。傍から見たら不審者にしか見えないだろう。


(……他に誰もいなくてよかったわ……)


 心の中でそう思う麗華。他に誰かいたら、間違いなく警察沙汰になっていただろう。


(あともうちょっと、もうちょっとで……)


 そう思いながら忍び足を続ける麗華。だがその瞬間、麗華の足元でパキッ何かが折れる音がした。


「誰っ⁉」

(やばっ……‼)


 足元の枝を折ってしまったことに気付いて慌てる麗華だが、既に遅かった。少年は即座に振り返って竹刀を構えていた。


「……お姉さん、何なの?」


 警戒心むき出しの少年に、麗華は言葉に詰まった。


「えっ、えっと~……」

(どうしよう。可愛いから近くで見たくなって~なんて言えないわ……)


 そう思って言葉に窮する麗華だが、ここでハッと名案を思いつき、弁明を始めた。


「そ、そうそう、わたし、この近くをいつも学校の帰りに通ってるんだけど、いつもこの時間帯は人が居ないはずなのに、今日は結構目立つ声が聞こえるな~って思って、気になったのよ」


 あたふたしながらそう言った麗華だが、少年はまだ警戒心が解けない様子だった。


「……本当に? 僕を誘拐しようとか考えてないよね?」

「そんなことないわっ‼」


 つい語気を強めて反論する麗華。だがその直後にハッとして少年の方を見る。


「……まあいいけど、邪魔しないでよ。今忙しいんだから」


 ぶっきらぼうに麗華にそう言い放ち、少年はプイッと麗華を一瞥して再び素振りを始めた。


「ごめんごめん。でもキミ、竹刀の握り方も素振りの構えもしっかりしてるわね」

「……分かるの?」


 そう言いながら竹刀を振る手を止め、再び麗華の方を振り向く少年。


「ええ。私も剣道部だから分かるの。あなた、結構筋がいいじゃない」


 そう言いながら麗華は肩にかけている竹刀の袋を少年に見せてアピールする。するとそれまで鬱陶しげだった少年の目が変わり、輝きを垣間見せる。


「……どれくらいやってるの?」

「んん~。かれこれ十年かしら?」

「そう……」


 少年はそう言いながら俯く。


「どうしたの?」

「……そう言えば、ここ最近、一人で特訓しててもつまんないって思ってたとこだし、丁度いいかも」

「ん?」


 少年の物言いに理解しかねている様子の麗華。


「お姉さん。僕の相手をしてくれる?」

「え?」

「だから、相手だよ。ここで僕と試合してくれる?」

「えっ、いいの?」


 麗華はどこか嬉しそうにそう言葉を返す。


「そうだって言ってるでしょ? まあ、今の僕ならお姉さんを手こずらせることは出来るかもね。何しろ今の僕は、道場で年上の人を叩き潰して、一番強いから」


 自信満々に胸を張る少年。


(まあ、生意気。でもそこも結構可愛いわ♥)


 そう思いながらカバンと胴着を近くに下ろして竹刀を袋から取り出し、少年と十歩ほど間合いを取る。


「そうとくれば、お姉ちゃんが相手してあげるわ。どこからでもかかってらっしゃい」


 少年の方も既に準備万端だった。

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