言い慣れて言われ慣れて、いつの間にか忘れていた言葉



「きょ、今日のお弁当です……」

「あ、ありがとうな……」


 朝食後に何とも言えない空気になってしまったが、出勤する頃には何とか解消することが出来た。

 とはいえ少々ぎこちなさは残っているが、帰る時には戻っているだろう。

 というかそうであってくれないとこっちの心臓が持たない。


 どぎまぎしながらも受け取った弁当からは、包み袋越しでも分かる温かさを感じる。


 ──それにしてもこの状況って、仕事に出る夫に弁当を渡して送り出す妻みたいな……。


 って、何を自分から気まずさを加速させるようなこと考えてるんだ俺は?!

 こうやって弁当を作ってもらってるのは天梨の厚意あってこそだっての!

 ちなみに厚意は好意の誤字ではない、ないったらない!!


 またもや逸れそうになる思考の舵を取り直しつつ、改めて玄関を出ようとする。


「え、えぇっと、それじゃあな──」

「あ、おにーさん! ちょっとまって!」

「えっ?」


 ドアノブに手を掛けた瞬間、背後からあまなちゃんに呼び止められる。

 忘れ物でもあったのかと振り返ると、何やら不満そうな表情を浮かべていた。


「こーゆーときにいわないといけないのあるよね?」

「こういう時……?」 


 えぇ~っと?

 そんなのあっただろうか?


 どう返せば良いのか分からず、あまなちゃんの隣にいる天梨へ目配せをする。

 しかし、彼女は苦笑しながら口パクで何か言うだけだ。


 俺に読唇術なんて無いんだが……それでも確かなヒントとして何を言えば良いのかが分かった。

 

 一人暮らしが長かったせいで、その言葉をすっかり失念していたと自嘲する。

 でもきっと、これから何度も言わなければならないとも思う。


 少しだけ燻る緊張を抑え、その言葉を告げるべく口を開く。


「──いってきます」


 そう言うや否や、あまなちゃんはニッコリと笑みを浮かべ……。


「──いってらっしゃい、おにーさん!」

「──いってらっしゃいませ、和さん」


 あまなちゃんだけでなく天梨も、まるで以前からそうしていたように返してくれた。

 

 この時、今までの比でないくらい、俺の心は確かな温もりに抱かれた。


 ======


「──和、なんか顔色良くなってねぇか?」

「え? そうか?」


 かつてないくらい順調に本日分の配達を終え、更衣室で鉢合わせた三弥から突如そんな質問が飛んで来た。

 いきなりで目を丸くして聞き返すと、訝しげな眼差しを向けられる。


「そうかって、一昨日に比べたら明らかに気力に満ちてるぞ?」  

「あぁ~……まぁ昨日はよく休めたからそのおかげかもな」


 それだけ南家の2人に助けられた証拠だろう。

 膝枕をされてよく眠って食事を作ってもらって……まさにこれ以上無い休暇だった。


 しかも新居が見つかるまでその生活が続くのだから、しばらくは絶好調かもしれない。


「ふぅ~ん……? まぁ元気になったらそれでいいや」

「心配掛けて悪かったな」

「ホントそれ。茉央ちゃんにもちゃんと礼言っとけよ」

「もちろん」


 そんな会話をしながら更衣室を出て、駐車場入り口に着くと噂をすればなんとやら、今度は茉央とばったり会った。


「あら。カズ君ったらとても元気そうね?」

「茉央にも分かるのかよ……」

「だって一昨日はいつ倒れそうでもおかしく無かったもの」


 一目で元気の有無を看破されるとか、よっぽど顔に出ているんだろうか?

 別にポーカーフェイスを心掛けているわけではないが、これはちょっと気にした方が良いかもしれない。


「それで、ただ休んだだけじゃそんなに回復しないでしょ? 何があったかくらいは話してくれるわよね?」

「そーだそーだ! オレらだって心配だったんだぞ!」


 茉央の質問に三弥が乗っかって来る。

 まぁ、2人に心配を掛けたのは本当だし、あまなちゃんとの関係も良く知っているから話ても良いだろう。


 ただあまり長く話すのもなんだから、端的に纏めた方が良いかもな。

 

「仮住まいにしてる場所が、実はあまなちゃんと天梨が住む家の空き部屋なんだよ」

「「…………」」


 それまで車中泊だったことを伏せつつ、現状を伝えると茉央と三弥は無言で黙り込んだ。

 ならなんであんなにしんどそうだったんだと言われたら、素直に車中泊生活の明かすしかないか。

 

 訝しんでいると踏んでそう構えていたのだが、三弥は口元を手の平で隠しながら茉央に顔を寄せ出した。


「聞きました茉央ちゃん? コイツ、火事に遭ったと思ったらしれっと同棲してたらしいぞ?」

「ええバッチリ聞いたわ三弥君。私達の心配は一体何だったのかしらね?」

「聞こえてるぞ」


 同棲とか天梨に失礼なこと言うなよ。

 客観的に見ればそう見えてもおかしくないのは分かるが、こっちは火事に遭って住処を失くしたんだから、そんな浮付いた気持ちは一切無い。


「いやお前マジでさ? 南家に居候とか心配して損なんて生温いくらいの裏切りに等しいからな?」  

「裏切りは言い過ぎだろ……」

「いいえ、これは裁判所に訴えても勝てるレベルよ? 心配した分だけ怒り狂わないだけマシと思いなさい」

「んな大袈裟な……」


 その後、2人は南家でどんな生活をして来たのか根掘り葉掘り訊き出そうとして来たが、素直に教えたところでからかわれるのが丸分かりったので、頑として黙秘し続けた。


 ======


「ふぅ……やっと帰れた……」


 夜も更けて10時を過ぎたものの、マンションエブリースマイルの184号室まで帰って来れた。

 この時間じゃ、あまなちゃんはもう寝てるよな……。

 

 合鍵を貸してもらってるから問題なく入れるとはいえ、天梨も寝ているかもしれない。

 出来るだけ音を立てないようにゆっくりと鍵を回し、慎重にドアを開けて……。


「あ、おにーさん!」

「あ、あまなちゃん!?」


 なんと、昨日と違いあまなちゃんは起きていて、俺と目が合った瞬間勢いよく抱き着いて来た。

 さらに天梨も一緒だ。

 

「えっと、どうして起きてたんだ?」

「和さんが帰って来るまで今日は寝ないと駄々をこねたんです。理由は朝と同じ理由ですよ」

「朝と同じって……ぁ」


 またも天梨に出してもらったヒント──ほとんど答えのようなモノだが──から、眠気を我慢してまであまなちゃんが待っていた理由を察する。

 

 本当に俺がそれを言っていいんだろうか?

 だって正式に住んでいるわけじゃない、ただの居候のはずだ。

 なのに、あまなちゃんが聞きたがっている言葉を……。


 今もしがみ付いている女の子へ目を向ける。

 瑠璃色の瞳は、今か今かと眠たさを感じさせない期待感を宿していた。


 一度唾を飲み込み、おずおずと伝えるべき言葉を発する。 


「──た、ただいま……」

「うん! ! おにーさん!」

「──っ!!」


 満面の笑みを浮かべて迎えてくれたあまなちゃんに、俺は果たしてどれだけ心を揺さぶられたんだろうか。

 ただ分かることは、無性に胸の奥が締め付けられて、でもそれは全然不快とは程遠い心地よさで……。


 いってきます、いってらっしゃい、ただいま、おかえりなさい……そんな誰だって言い慣れて言われ慣れていたはずの言葉が、この時はどんな言葉よりも暖かくて、嬉しくて、幸せに感じた。


「おにーさん、どーしてないてるの?」

「え……?」


 不思議そうに見つめるあまなちゃんの指摘で、自分が泣いていることに気付いた。


 なんだこれ……涙を流すなんてどれくらいぶりだ?

 嘘だろ?

 あまなちゃんにおかえりなさいって言われただけで、枯れたと思っていた涙があっさりと流れるのかよ……?


「──ハハッ」


 そう実感すると共に失笑が零れた。

 なんてことはない、初めて会った時や一昨日止められた時のように、俺はまたあまなちゃんに救われただけなんだ。

 

 こんな風になるまで自分を無為にしていたんだと、そう理解しただけ。


 俺は俺が思う以上に、俺を大事に想ってくれている存在に出会えたんだな。


 本当に……ヘタな大人よりずっとあまなちゃんは凄いなぁ……。

 心の奥底から溢れて止まない感謝の念を伝えたくて、その小さな体を抱き締める。


「ふにゅ、おにーさん?」

「──ありがとう、あまなちゃん。眠いのにこんな時間まで俺を待っててくれて、おかえりって言ってくれて、ありがとうな」


 仕事帰りで冷えた体は、腕の中の少女によって簡単に温まった。

 包み隠さない『ありがとう』を吐露し切った俺に、あまなちゃんはただ一言だけ返す。


「えへへっ、どーいたしまして!」


 見返りを求めず、恩を着せるわけでもなく、ただおかえりと言いたいがために夜遅くまで待っていたとは思えないくらい、その笑顔は眩しかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る