あまなはママとはじめてケンカしました

夏なのに春が来たんですか?


「いやぁ~! 南さんのおかげで大きな取引も無事に契約成立したよ!」

「それは良かったです。顧客の要望に応えられるシステムを作った開発部の皆様にも、ぜひ同じ称賛を送ってください」

「謙虚だね~。その要望を的確に伝えられたのは君自身の成果じゃないか」

「そのお言葉だけで十分ありがたいです。では、失礼します」


 そう部長に礼を伝えて、部屋を出ます。

 

 自分の席に戻り、次の取引先へ持っていく資料の制作に取り掛かろうとしたら、ある方が声を掛けて来ました。


「聞いたわよぉ天梨ちゃん。例のビッグな取引をサクセスして来たんでしょ? 先輩としてアタイもノーズが高いわぁ」

「ありがとうございます、黛さん」


 私がこの会社──ハイネルテック・システムズ──に就職してから何かとお世話になっている先輩……まゆずみ圭織かおりさんが、部長にも称賛された取引の件を聴いたようです。

 派遣社員として入社した私が、正規雇用されるまでの業績を築くノウハウを教えて下さっただけに、この人も優秀な営業担当者と認識されていますが……。


「んもぅ! 黛さんじゃなくて『カオリちゃん』ってコールして頂戴!」


 やたらと身体をくねらせて、呼ばれ方に不満をアピールしてきました。

 黛さんは『オネェ』という方で、体格は大柄な男性なのに言動や趣向は女性のそれです。

 

 営業時には男性口調で仕事をしているので、彼──がこのような言動をするのは決まって職場だけ。

 その明るい性格やユーモアさから営業部におけるムードメーカーとも言えます。


「先輩をちゃん付けで呼ぶなんて、私には畏れ多いですよ」

「ほんと真面目ねぇん……そこが天梨ちゃんのチャームポイントなんだけど」


 あまり人付き合いが得意とは言えない私にも、こうして積極的にコミュニケーションを取って頂けるので、感謝の念が尽きません。


 ですが、黛さんは無言でジッと見つめて来ます。

 何か考え事でしょうか?

 そう考えていると彼女は口を開き──。


「んねぇ、天梨ちゃんってばなんだか最近オーラが柔らかくなってきたわねぇ」

「そうですか? 別に普段通りですが……」

「そんなことないわぁん! だってぇ、よく笑うようになったじゃなぁいん?」

「笑う、ですか?」


 指摘されたことに、いまいちピンと来ません。

 

「何か良い事でもあったのん?」

「そうですね……出張帰りの時に、娘がクッキーを手作りして渡してくれたんです」

「あ゛ら~。子供の成長はいつ聞いてもいいものねぇん」

「ええ、母親として誇らしいです」


 思い当たる出来事を挙げると、黛さんも微笑ましそうに感心されます。


 あれ以来、天那とはお菓子作りをするようになりました。

 帰ってすぐに早川さんにお礼としてお菓子を渡したいと言われた時は、珍しい我が儘に応えて一緒に作りましたが、あれは中々の出来栄えになったと自負します。


「でもぉん? アタイとしてはそれだけじゃないって思うのよねぇん。例えばスプリングが来た、とかねぇ」

「スプリング……春? 今は夏なのに、どうして春が来るのですか?」


 やたらと含みを持たせた物言いに問い返すと、黛さんは右目でウィンクを決めて……。


「ストレートに言えば…………〝恋〟ね」

「──は?」


 さも核心を突いたような断言に、頭が咄嗟に理解を拒みました。

 ……一体、黛さんは何を言っているのでしょうか?


 そして、何故か周囲の職員達に落ち着きが無くなったように思えます。

 特に男性の方々が顕著ですが、まずは黛さんの言葉に異を唱えることにしました。


「まさか、ありえませんよ。亡くなった主人に操を立てていますし、何より私は仕事と娘のために恋愛に感けている暇はないんです」

「あら、あくまで否定するのねぇん?」

「ええ、事実無根ですから」


 黛さんの回答に否定で返すと、周りから安堵の息が吐かれていきます。

 人の会話に聞き耳を立てている暇があるなら、少しでもプレゼンの資料作りを進めて欲しいものですね。 

 黛さんに答えた通り、天那の母親である私には恋愛なんて必要ありません。

 こうして仕事に励んでお金を稼いで、あの子が幸せに過ごせるようにするだけで良いんです。

 他人につまらない人生だと揶揄われようとも、これが最善だと決めているのですから。


 =====


 そんな会話があった帰り、7月も下旬に差し掛かってすっかり夏らしい日照りには半ばうんざりします。

 早く自宅に帰って、冷房の効いた部屋で涼みたいものですね。

 天那も汗をたくさん掻いたでしょうし、一緒にシャワーを浴びてもいいでしょう。


「あ……」


 なんてことを考えていたら、マンションの駐車場にある1台のトラックが目に留まります。

 それはどこでも見かける運送会社のものですが、今日の曜日と照らし合わせて誰が乗って来たのかを察しました。


 ちょっとだけ駆け足になって自宅のある184号室に着くと、そこには娘と思った通りの人物の姿があったのですが……。


「はい、おにーさん! おちゃをどーぞ!」

「サンキューあまなちゃん。……ん、良く冷えてて美味しいよ」

「えへへ、よかったぁ~」


 どうやら、配達に来ていた彼に娘が気を利かせて冷たい飲み物を勧めたようです。

 暑い日が続いていますし、多忙な配送業では熱中症の危険も高いでしょうから、中々の気配りと言えますね。


 流石天那です。


「きょーもあついねー」

「あぁ。だから汗が止まらなくて大変なんだよ」


 天気予報では気温が40℃を越えそうだとありましたし、2人がそういうのも無理はありません。

 特に早川さんは遠目でも分かる程に汗だくで、顔や腕は少し焼けたようにも見えます。


「あ! おみずでぬらしたタオルもあるよー! あついときはこれでからだをひやしてねって、ほけんのじゅぎょーでならったの!」

「おぉ。じゃあお言葉に甘えようかな?」

「それじゃ、あまながふきふきするから、かがんでー」

「──ぐぅっ! ありがとうございます!」

「……」


 ……娘が楽しそうにしていることは百歩譲って許容しましょう。

 ですが、いくら悪気はないとはいえ人の娘相手にデレデレと顔を緩ませていることが

 全く……だらしのない人ですね。

 今目撃しているのが私じゃなければ、とっくの昔に通報されていますよ?


 もう少し危機感を持って欲しいものです。 

 そんな呆れた感想を浮かべつつ、いつまでも眺めているより会話に加わろうと2人に近付きます。


「あ! ママ! おかえりなさい!」

「ただいま、天那」

「こんにちは、天梨。仕事お疲れさん」

「えぇ、こんにちは早川さん」


 天那と早川さんにそれぞれ挨拶を返します。

 2人は揃って笑みを向けてくれますが、早川さんは未だ濡れタオルで顔を拭かれている体勢のままでした。

 まぁ、この場合邪魔をしてしまったのは私の方ですし、大目に見て注意はしないでおきましょう。

 もちろん、度が過ぎれば話は別ですが。


「ちょうどいいや。これ、今日も弁当をありがとうな」

「あ、いえ。私が好きでやっていることですし……」


 彼が配達に来る日の朝に渡している空の弁当箱を返され、同時に伝えられた何気ない言葉を妙に気恥ずかしく感じてしまいます。

 気温の暑さとは違う気がする熱さで、なんだか鼓動が早い……。 


『ストレートに言えば…………〝恋〟ね』


 不意に、黛さんからの指摘が頭を過りますが、首を横に振って払いました。

 ……違います。

 はそういったものではありません。


 早川さんには天那のことで助けられたのですから、そのお礼として当然のことをしているまでです。

 でなければ……。 








 ──恋という単語を聴いた瞬間、彼のことが浮かぶはずありませんから。


 

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