第3話

8月、わたしは意図せぬ夏休みを得ることとなった。

友人の結婚式へ参加するため、上司にシフトの融通を効かせてもらえるよう頼んだところ、「面倒臭いから有休使って」と一蹴されたのだ。


駅前のホテルでフロント業務に携わるわたしの勤務形態は、1回の出勤で25時間拘束される代わりに、その後2連休が与えられる1勤2休制となる。1日で3日分働いてその後はゆっくり休める上に、月の出勤も7~8回と少ないのも魅力的で入社した。

その数少ない出勤が結婚式と被らないように都合をお願いをしたのだが、ならばルーティーンを崩さぬよう有給休暇を取ってくれとの事。

前の出勤後の2連休と、有給休暇で飛ばした1泊2日の勤務日、そしてその後の2連休。つまりは1日の結婚式のために6連休を手にした事になる。


せっかくなので遊ばせて頂いた。鈍行に揺られて岡山へ2泊。帰ってきて結婚式。旅費と御祝儀で元よりひ弱だった財布はすぐに心許なくなり、残りの3日間は大人しく過ごすことにした。


いつも通り岡山にて母へのお土産を買った。今回は白桃のラングドシャ。個人的に岡山のお土産物はお洒落な包装が多いというイメージがあるが、このラングドシャは特にデザインが凝っていて気に入った。

そしてひでちゃんにも、和菓子の方がいいだろうか、と悩みつつも同じものを買い、動かない2人へ渡すべく、連休5日目のおやつ時を目指して電車に乗った。


15時の実家にまだ母はいない。基本先にひでちゃんちにお茶に寄るので、坂の途中の休憩所のようになっている。

今日もまずひでちゃんの家の玄関に立ち、こめかみに滲む汗を拭いながら呼び鈴を鳴らした。しかし、ひでちゃんは出てこない。

隣の畑と離れの畑を確認したが、姿はなかった。どこか買い物にでも出ているのだろうか。

待ってみようかと考えたが、この暑さの中だ。ひでちゃんが戻る頃には"わたしだった何か"しか残らないかもしれないと危惧し、この日はすぐ実家へと向かった。


毎朝車で2時間かけて出勤する母の仕事はどんなご立派なものかと言うと、スーパーでお惣菜を作って売る食卓の味方である。よってお盆は寿司とオードブルの注文用紙に背中を押されながら働き詰めることとなる。

来週末から盆明けまで休みがないのよ、と母は嘆くが、わたしから見れば彼女の休みはそもそも年間に手の指で数えるほどしかない。

少し早いお盆の帰省ということにして、久しぶりに実家に1泊した。

今日も朝から晩まで働いた母だが、わたしが珍しく泊まって帰るのが嬉しいようで、ご飯にお風呂にと全て支度してくれた。

自分でやるよ、と言いつつも、こういう時は母が甘やかしてくれることを末っ子のわたしはよく知っている。


翌日、帰り縋らひでちゃんの家に赴いたが、またしてもひでちゃんは留守だった。畑にもおらず、カーテンは閉めたまま。

連日訪れたことが今までないので分からなかったが、こんなに出掛ける用事のある人だったのかしら。

少し違和感を覚えたが特に気にせず、ラングドシャなら日持ちするし盆明けにでもまた来よう、とその場を後にした。



違和感が疑問へと肥大化してのしかかってきたのはその日の夜だ。


ひでちゃんは本当に出掛けていたのだろうか?

本当は起きられていないのではないだろうか?

あのカーテンは夜閉めたまま、実は寝室で倒れているのでは?


お盆を迎えようとする日本列島は夏真っ盛り。天気予報士は口を揃えて異常な暑さだと宣言している。陽が落ちても25度を下回らなければ"熱帯夜"と呼べることを覚えてしまうくらいに、太陽の出入りなど構わず暑い。

そんな中をひでちゃんは、クーラーもつけずに生活していたのだ。

若い世代でさえ熱気にやられて救急搬送されるようなこの時期に、ご老体のひでちゃんの体調にどうしてすぐ思い至らなかったのかと悔いた。


気づいた時には終電も過ぎている。電話番号は、知らない。

ではタクシーで……とスマホを手に取ったが、これで早とちりなら? 日付を越えた夜中に老婆を叩き起すなど、かなりいい迷惑だ。


(大丈夫、何日も畑にも出ていないようなら菜園仲間が気づくはず)

(お向かいのお婆さんも交流があるみたいだし、この時期なら盆祭りの回覧板とかあるんじゃないかな……)

(お盆には息子さんが帰省するだろうから、その前にひでちゃんに電話とかしてるかも)

(大丈夫、何かあったらとっくに誰か気づいてる)

そう自分に言い聞かせながらも――むしろ言い聞かせるほど不安は胸に降り積もる。


あの広いリビングで、もう居ない夫の動かぬ笑顔を眺めて暮らすひでちゃん。

たまに来る息子と、稀に会う近所の同世代たちとの会話だけが楽しみだと言うひでちゃん。

同じ事を何度も繰り返し話す、結局わたしの名前すら覚えているのか怪しいひでちゃん。

通り縋っただけの見ず知らずの人間になんの疑いもなく近寄り、自分のテリトリーを開く無防備なひでちゃん。


あのね、ひでちゃん。

最近の夏はすごく暑いんだよ。昔みたいに窓と襖を開けておくだけじゃ、もう駄目なんだ。

一人暮しの高齢者を狙った犯罪も多いんだよ。ニュースでよくやってるでしょ。簡単に家に上げちゃ駄目。一見普通の若者でも、今どきどんな人が影でどんな事やってるかなんて分からないんだよ。

内気な息子さん、会話は弾まなくても、孫を作ってくれなくても、詐欺対策の合言葉は考えてくれたのかな。ひとりで暮らすひでちゃんのために、見守りサービスを活用してくれてるのかな。


あれこれ膨らむ想像を抱えきれなくて、あまりの不甲斐なさで泣けそうだった。

大分に行った日だから、初めてひでちゃんに会ったのはまだ寒い冬の日だった。それから夏になるまでお茶友達として定期的に会っていながら、わたしは"高齢者の相手をする"という事だけで満足してしまっていたのではないか。

もっと気にしてあげられること、気をつけるように教えてあげられることはたくさんあったのではないだろうか。


6連休が明けて、リフレッシュして職場復帰する予定だったわたしの心はむしろ連休前より曇っていた。

出勤すれば次の日の昼前までホテルから出られない。一応母にも事情を簡単に説明し、仕事の行き帰りにひでちゃんの家の前を通ってもらうよう頼んだが、人がいる気配は見られなかったと報告があった。


これほどまでに25時間勤務が憎らしく歯がゆかったことは無い。

深夜の仮眠休憩は2時間のみで、仕事終わりはいつも睡魔に引きずられて家路につくような有様なのに、この日ばかりは職場から実家の最寄り駅へと直行した。


寝不足な上にうだるような暑さで化粧は浮き顔はボロボロ。普段なら絶対に人様に見られたくないような姿だが、全く気にならなかった。勤務明けには特にきついはずの苦痛な坂も、特に意識しなかった。


目的の家が見えてくると、自然と鼓動が早る。どく、どく、と緊張のせいか息切れのせいか分からない心臓の暴走を左胸に確かめつつ、ひでちゃんの家の敷居を跨ぐ。


やはりカーテンは閉められたまま。


どく、どく。


首筋を汗が伝う。


どく、どく。


右の人差し指が、呼び鈴のボタンを押す。


どく、どく。



どく、どく。



ひでちゃんは、出ない。



カーテンは、閉まったまま。



「ひでちゃん!」

右の人差し指が、呼び鈴のボタンを押す。

「ねぇ、ひでちゃん! いないの?!」

どく、どく。呼び鈴のボタンを押す。

嫌な予感が、ぐるぐると考えていた嫌な結末が、頭の中で近づいては遠ざかる。


扇風機。死んだ夫。畦道のほうれん草。


銀歯。くたくたになった地図のうちわ。


内気な息子。登り坂。割れたトマト。



「ひでちゃんってば!」

ボタンを押す。押す。押す。



きゃらきゃらと笑う陽気な声。

最早聞き慣れたひでちゃんの声。



「はぁい、ひでちゃんです!」



が、背後から聞こえた。


「……」


ゆっくりと振り返る。



そこには、キャリーケースと大きな紙袋をひとつ提げたひでちゃんの姿があった。


「待たせたかね? 今帰ったんよぉ。ごめんねぇ、暑かったじゃろ」


額の汗が、目に入って視界が滲んだ。



***



かんぽの宿を巡る旅、なるものをしていたらしい。


ひでちゃん曰く、

「竹原のかんぽの宿が休業しとってね、今は近くにないんよ。じゃけど日帰りで庄原はたいぎいしねぇ。だったらちょっとかんぽの宿へ泊まって回ろうかと思って」


思って、ルートを模索した結果、海を越え四国3宿を巡り温泉とご当地グルメを堪能して帰ってきたところなのだそうだ。


昨日まで描いていた最悪のシナリオというやつらが、とてつもなく馬鹿らしく思えた。

そして、そのシナリオの中に出てきたどのひでちゃんとも似つかないほど、本物のひでちゃんの逞しく元気なこと。

ひでちゃんが切り分けてくれたお土産の一六タルトと冷たい麦茶で気持ちを落ち着かせながら、わたしはひっそりとため息をついた。


テーブルにはあのくたくたの地図。ただのうちわに成り下がったように見えて、その実まだ現役でひでちゃんにお仕えしていたあの地図は、今回のかんぽの宿巡りのルート選定に大いに役立ったらしい。

勿論亡き夫との思い出の地も書き残されている年季の入った全国地図だが、ひでちゃんの思い出は今もここに更新され続けている。


確かにひでちゃんは、一人暮しが寂しいかもしれない。

この現代社会において、ちょっと無防備かもしれない。

身体も、わたしたちに比べてガタがきているかもしれない。

社会的弱者と呼ばれるひとりなのかもしれない。


だけどひでちゃんは、ただのひでちゃんだ。

上手く言えないけど、ひでちゃんなのだ。

そう思うと、複雑に蠢いていた彼女に対する不安や警戒が、すとん、と収まるところに収まった気がした。


「水やりは息子に頼んどいたんじゃが大丈夫かねぇ。後で見に行かんとねぇ」

それならご心配にしか及ばない、わたしはこの数日で畑で誰かが水をやった形跡を見ていないから。

だけど彼女の事が気になって仕方ない小娘が、ついでにこそこそと水を撒いておいたから結果オーライ、ひでちゃんは安心するだろう。トマトの尻割れも、前ほど多くはないのではないだろうか。


「ねぇ、ひでちゃん」

わたしは、旅行好き仲間の、ちょっと年老いた友人に言った。


「クーラー使ってね。夏用の上着探してあげる」


ひでちゃんはきゃららと笑った。


「ほいじゃぁ、考えておくわ」


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あなたにあげる 雨森 無花 @amemi06

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