7.5 「ほんとうは」

 言いたい。

 言いたい。

 言いたい。

 言いたい……!


 煮えくり返るような思いがルベルの中にあったが、しかし結局言い出すことはできなかった。様々な人に諭されたわけだが、結局友達を失う、いや、「自分の価値」が失われるのが怖くて、言い出すことができなかったのだ。

 ガスに言われた場所に行く途中、幾度も「最低な人間だ」と自分に言い聞かせた。私利私欲のために他人を傷つけて、謝ることのできない自分が、何よりも醜く思えた。その「他人」の中には、ビルギットも入っていた。


 目頭が、顔が、熱くなる感覚がした。涙が溢れてくるのをぐっとこらえて、ガスに言われた場所、町の外れへ、ルベルは足を運んだ。

 途中で転んだ。長ズボンをはいていたが、膝には、血が出ているかのような、ひりひりとした痛みがある。いつもなら、なんてことのない痛み。だが、今この瞬間、体が鉛のように重くなって、どうしようもなく膝が痛み始めて、その痛みが悲しみに変わって、どうしてこうなってしまったんだろうと何度も何度も繰り返して、それでも答えが出なくて、言えなくて、辛くて、辛くて、辛くて……。薄気味悪く笑う仮面の中で、ボロボロと涙がこぼれた。


 ガスの奴隷となって、一日目。

 今日の命令は、主に友達を傷つけることだった。ガスはたくさんの人から嫌われている人物ではあったが、同時にたくさんの人を嫌っている人物でもあった。そこでルベルが利用された。ガスに対して少しでも気に入らない態度を取ろうものなら、彼女を使って攻撃をする。その対象には、彼女と仲の良い人物もいた。だが、彼女は自分の顔のことが明るみに出てしまうのが怖くて、心にもない言葉を投げた。

 今日一日で、自分はどれだけの人を傷つけてしまったのだろう。数えれば数えるほど、それは失ったものの数だったから、心臓がちぎれそうになる。



「おそいですよ?」


「ごめん」


「おやぁ……?」


「……すみません」



 人気のない場所だった。ここに響いているのは、ガスの気色悪い声と、ルベルの少しだけ湿った声。今から何をされるのか、ルベルにとって気が気でなかった。



「いやぁ、今日は楽しかったですぅ。顔を真っ赤にして怒ったあいつらの顔、思い出すだけで、ふひっ、笑っちゃうくらい、ふひっ……ふひひひっ、滑稽でしたねぇ。ふひひひひひひ!」


「……」



 中には、ルベルの言葉で泣き出す子もいた。しかし、そうなっても、ルベルにはやめることができなかった。なぜなら「命令」であったからだ。



「さてさて……うーん、どんな命令にしましょうかねぇ……」



 ガスはニタニタ笑いながら、ルベルを眺める。

 彼が次の言葉を発するまでそう時間はかからなかったが、ルベルにとってその沈黙の間は永遠に続くような感覚がした。



「あ、あれは……」



 ガスが視線を向けた先にいたのは、フラギリス・ウルフ、しかもその子供のようだ。親からはぐれてしまったのか、その毛並みは汚く、力なく歩いて、その場に倒れた。

 瞬間、ルベルは背筋が凍った。全身の毛が逆立った。


 ガスが「拾ってこい」と指をさしたから、ルベルは駆けつける。


 弱々しく息をしながら、彼は倒れていた。どうやら足を怪我しているらしく、少量ながらも血が流れていた。毛でおおわれていない、痛々しい傷口。傷はひとつでなかったから、恐らくほかの魔物に食われかけたのだろう。



「足の骨を折りましょう!」



 恐る恐る彼を運び、ガスの前に持って行ったルベルには、無情な言葉がかけられた。ルベルはもう、ガスの顔を直視できなかった。よく考えなくてもはっきりわかる、ガスは悪魔だ。そんな悪魔の顔を見てしまったら、きっと自分は恐怖で動けなくなる。

 どうせなら、「殺せ」と言われた方がマシだった……いや、こんな考えが生まれてくる時点で、自分も悪魔だ。ごめんね、と心の中で繰り返しても、その言葉はホコリほどの重ささえも感じない。



「何を躊躇しているんですか?」


「さ、流石に可哀そうだよ! まだ子供で、怪我もしてるのに!」


「あ? 僕ちんにそんな口きいてもいいんですか?」


「あっ……いえ……ごめんなさい」


「あーあ、もういいです――――バラします」



 軽く言ったその言葉は、ルベルにとって、死刑宣告のようなものであり、首を切り落とされたような衝撃を与えた。咄嗟にルベルは「ごめんなさい」と叫んだ。自分でも訳が分からなくなるくらい、叫んだ。殺される、殺される、殺される、殺される……そんな恐怖が彼女を叫ばせ、謝らせる。悲鳴の、一つ上の、断末魔のような、そんな声だった。

 気が付いた時には涙が溢れていた。そして、ガスが耳をふさいで嫌そうな顔をしていたのに気が付いた。



「分かったです、分かったです、分かったですって!!」



 どうやら彼も、何度もその言葉を叫んでいたようで、僅かながら声が枯れていた。

 もうすでに、ルベルは壊れかけていた。正常な判断ができる状態ではなかった。ガスの言葉に従わなければ殺されるという感情が、彼女の心臓に深く根を生やして、どす黒い血が全身を駆け巡る。



「……その石を使って、心臓に遠い部分から潰してください」


「……はぁ……はぁ」



 いつの間にか、息切れをしていた。ルベルは石を持つのを躊躇った。「殺される」という恐怖と、「殺してはいけない」という良心に、潰されそうになって……。



「魔物の中でも、害獣なんですよ、が、い、じゅ、う!! 別に殺したところで、悲しむ奴なんていませんよ。フラギリスは犬より馬鹿なので、どうせ子供が殺されてもなんとも思いません」



 殺してはいけない。殺さないと殺される。殺してはいけない。殺さないと殺される。殺してはいけない。殺さないと殺される。殺してはいけない。殺さないと殺される。殺してはいけない。殺さないと殺される。殺してはいけない。殺さないと殺される。殺してはいけない。殺さないと殺される。殺してはいけない。殺さないと殺される。殺してはいけない。殺さないと殺される。殺してはいけない。殺さないと殺される。殺してはいけない。殺さないと殺される。殺してはいけない。殺さないと殺される。殺してはいけない。殺さないと殺される。



「――――それに、ね。コイツを救うことにもなるんですよ? 足を怪我してるから、生きられません。それなら、ここで殺してあげた方が、楽にさせてあげられるんですよぉ」



 殺してはいけない。殺してはいけない。殺してはいけない。殺してはいけない。殺してはいけない。殺してはいけない。殺してはいけない。殺してはいけない。殺してはいけない。殺してはいけない。殺してはいけない。殺してはいけない。殺してはいけない。殺してはいけない。殺してはいけない。殺してはいけない。殺してはいけない。殺してはいけない。殺してはいけない。殺してはいけない。殺してはいけない。殺してはいけない。殺してはいけない。殺してはいけない。殺してはいけない。殺してはいけない。殺してはいけない。殺してはいけない。殺してはいけない。殺してはいけない。殺してはいけない。殺してはいけない。殺してはいけない。殺してはいけない。殺してはいけない。殺してはいけない。殺してはいけない。殺してはいけない。殺してはいけない。殺してはいけない。殺してはいけない。殺してはいけない。殺してはいけない。殺してはいけない。殺してはいけない。殺してはいけない。殺してはいけない。殺してはいけない。





 気が付いた時には、石を振り上げていた。

 心の中で何度も「殺してはいけない」と叫ぶのに、叫ぶのに、叫ぶのに。





 ――――振り下ろした。


 骨が砕ける鈍い音がした。

 ウルフの弱い悲鳴が上がった。

 ルベルが泣きながら何かを叫んだ。

 ガスが気味悪く笑った。





 何度か繰り返され、やがて、ウルフの悲鳴は聞こえなくなった。ルベルの声と砕ける骨の音も、段々と弱くなった。

 だが、やはり、ガスの笑い声だけは、その場に響き渡っていた。

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