第3話 大切にしたい
「さて、はじめるか!」
「はいっ!」
朝五時半にスマートフォンのアラームが鳴って目を覚まし、そのまま寝ぼけ眼で台所へ向かうと、既にチサが準備を整えていた。
白い三角巾と中央に熊さんのイラストが描かれた可愛いエプロンがやけに家庭的な雰囲気で、不思議な新鮮さを伴って映る。
普段はアラームが鳴る前にはすでに目を覚ましていて、アラームというものはあくまで寝坊防止装置なわけだけど、今日はそいつに仕事をさせてしまったわけだ。
疲れていた――というのはうちに来て一日目を少なからず緊張して過ごしていたチサの前じゃ言えないな。あんまり無理してなければいいんだけど。
「ちゃんと眠れた?」
「はいっ。心乃美先輩と同じ部屋だったので、色んなことお喋りして、気付いたら寝てました」
妹、思った以上に役立ってる。
うちは主寝室と子供部屋二つにリビングダイニングキッチンの3LDK。中途半端な田舎でそこそこに土地が安く、加えて親父が旧知の工務店にお願いしたから建築費用も割安。ということもあって一つ一つの部屋がちょっとだけ大きめだ。
心乃美の部屋はチサと共用となっても、二段ベッドが必要とかそういうことはない。そもそもうち、ベッドじゃなくて布団派だし。ベッドだと寝る前にストレッチしづらいんだよね。
「そのエプロンは家から持ってきたの?」
「はいっ。早速役に立って、よかったです」
料理ができる程度に眠気は飛んでいるけれど、ならば俺も――と、タオルを頭に巻いて気合いを入れ直してみた。
もちろん、髪の毛が落ちるのを予防する目的でもある。
日本に帰ってから一度も切っていないせいで、結構伸びたからなあ。
「夕食用にハンバーグを作ろうと思うんだけど、玉葱のみじん切りは、できる?」
「できます!」
「よっしゃ。じゃあ頼んだ」
チサはトントントンと小気味良い音を鳴らしながら、綺麗に玉葱を刻んでいく。
右手をネコの手にして押さえ、縦に筋を入れて、水平に切って、それから刻む――。
玉葱一つとっても手順をしっかり理解している。これはかなり手慣れているな。
その後も、料理好きだと口にするのが納得できる手際の良さで、更に俺の動線を邪魔しないように気まで配ってくれた。
あっという間に『中まで火の通っていないハンバーグ』と『多めのハンバーグソース』が仕上がるが、当然、このまま食べるわけじゃない。肉ってのは断面で雑菌が繁殖する。ハンバーグに使うのはミンチされた肉だから全面で雑菌が繁殖しているわけで、しっかり火を通して殺菌しないと食中毒になること請け合いだ。そもそも買っておいて挽肉、牛豚合い挽きだし。
「これを冷蔵庫で冷やしておいて、帰ってきたらソースでハンバーグを煮込む。そうすると加熱しすぎのボソボソ感は出ないし、火の通りも味付けもバッチリだ」
ついでに朝食用の卵焼きと味噌汁まで仕上がっている。一人なら考えられないスピードでここまで終えてしまった。チサの手際の良さは俺より上かもしれない。
しかし、問題はまだある。
「今日は練習日じゃないからいいけど、練習日に帰りが遅くなると……。こういうのを煮込むぐらいなら、心乃美にだってできる…………かなあ」
妹がこのハンバーグを冷蔵庫から取り出すところを想像する。
「おいしそぉー」とか言って「いただきまぁーすっ」で、パクり。「お兄ちゃん生焼けだった!!」と何故か俺がキレられる未来が見えた。
こりゃダメだ。
せめてラップの上に『ソースで煮込め』って書いたメモを貼っておくか……。
「――いや、強火で焦がされたら大惨事だ。期待しないほうが無難だな」
こうして料理のできない女性が仕上がっていくのかもしれない。
「あ、心乃美先輩とは一緒に帰ってくることになっているので、その時は私が――。ええ……っと、心乃美先輩と、二人でやります!」
妹よ、お前、後輩にめっちゃ気を遣わせてるぞ。兄ちゃん泣いちゃいそう。……しかしほんと、よくできた後輩だ。
「助かるよ。心乃美に任せると全部感覚でやられちゃうからな。勝手に食材足したり、調味料を加えたり――。炊飯器のボタン押してくれって頼んだら、中に何種類もソースがぶち込まれてて謎の洋風炊き込みご飯が仕上がったこともある。これまで何度料理をダメにされたことか数えたくもないぐらいだ」
やれやれと、両手を広げて呆れてみせた。
「あはは……。そういうところ、心乃美先輩らしいですね」
らしいんだ! あいつ学校でもチームでもそのままのキャラかよ。
「――でも
「それほどでもないよ。小学生の頃、母さんに色々教えてもらえたから身に付いた――ってだけで」
「お母さんが……ですか」
……と、ここで母さんの話をすると、また空気が重くなってしまいそうだ。朝っぱらからそれじゃ気が滅入ってしまうだろう。
俺だって朝からそんな空気の中に身を置きたくはない。母さんには悪いけれど。なんで亡くなった人を思い起こすと暗くなってしまうのかな。俺は楽しい想い出ばかりだから、むしろ積極的に思い出したいぐらいなのに。
――ま、でも、そんな自分の感覚をチサに共有させようなんて気はない。現時点で母親が生きている女の子に母親が死んだ話をしたら、そりゃ空気が重くなったり暗くなったりぐらいする。
なんて、自分の発言を否定して話題を変えようとした瞬間だった。
「それじゃ、お揃いですねっ」
そう言ったチサの笑顔は俺にとって不意打ちで、やたら眩しく、朝日より輝いて見えた。
つい一瞬、思考が停止してしまう。
「あ、――ああ。――ええっと、チサも、お母さんから?」
可愛い――って言っても、中学生だ。それも中一だ。十二歳だ。一瞬とはいえ、なにを
気をしっかり持て、俺!
「はい。お母さんは私よりもっと上手です。……当たり前ですけど」
今度は「ふふっ」と笑った。釣られて俺も、思わず頬が緩む。
まあ、可愛いものは可愛いわけで、下心がなければ別にいいか。そんなことにこだわるより、今の暖かな瞬間を大切にしたい。
チサのおかげで、気が滅入る心配をしたのが嘘かのように、朝から心地好い時間を過ごさせてもらえた。
心乃美も可愛い妹だけど、それとはまた違う感覚だ。
あいつじゃ一緒に料理なんてできないしなぁ。女性として多少は料理を覚えたほうが良いのではないか。いや、そういう価値観は時代錯誤なのだろうか。いやいや、人として最低限は……と、妹の将来を案じながら時計に目をやる。
「凄いな、まだ六時だ。親父達が起きてくるには、ちょっと早いし……」
こんなに早く終わる予定はなかった。
六時半頃に仕上がっていたら、丁度、朝食の支度と重なって良い頃合いだと考えていたのだ。
この後はどうしよう。
「じゃ、じゃあ、その……。ちょっとだけ、台所……お借りしてもいいですか?」
言われて、調理器具の洗い物がまだ残っていたことに気付いた。
朝食で食器が出るから、それを済ませた後でまとめて洗うつもりだったんだけど。
「洗い物なら、あとで俺がやるよ」
「い、いえ。それもあるんですけれど……」
何か言いにくそうにしている。
「しばらく一緒に暮らすんだろ。台所を借りる――なんて言わないで、チサには、自分もこの家族の一員だ――って思ってほしいな。好きなときに好きなだけ使えばいいんだよ」
「――あ、ありがとうございます!」
言いながら、チサは小さく頭を下げた。
あんまり丁寧に言われて軽く苦笑してしまったけれど、律儀というか、真面目な子だと思う。
そんな子がうちみたいな雑な家庭で暮らして大丈夫だろうか。少し不安だ。
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