貴女を失うのが怖かった。

 貴女と出来なかった理由を辿ると、答えはそこに辿り着いた。

 身体だけの関係。

 都合のいい身体と一時の快楽。誰も私を見なかった。

 それなのに、貴女は違った。

 身体を重ねなくても、優しくて、温もりをくれた。

 いろいろなことを教えてくれた。叱ってくれた。

 だから私は怖かった。セックスをすれば、その優しさを失ってしまうと、そう思い込んでいた。

 数えきれないほどの人と、身体を重ねてきた。

 貴女を汚してしまうような、不快な感触。

 貴女に触れられるたびに、ねだる身体とは裏腹に、心ははっきりと拒絶していた。


 貴女と出会うまでは、普通になりたい。それだけが私を突き動かしていると思っていた。

 きっと、私はただ愛されたかったのだと思う。救ってほしかったのだと思う。

 夜の街で出会い。朧げな意識の中で貴女が口にしたように。

 きっと私も、ひとりにしないで、と心の奥底で叫んでいたのだ。


 この幸せがいつまで続くのだろう。貴女を失ったとき、私はひとりで歩けるだろうか。不安は尽きない。永遠なんて無いと分かっている。それでも――、

 今は貴女との時を大切に生きていきたい。


               ※※※


「結局、夏休み一回も呑めなかったね」

 祐希が項垂れる様に、机に肘を立てた。

「祐希、バイトで忙しそうだったもんね。仕方ないよ」

 駅前のチェーン店のカフェ。ピークの落ち着いた、静かな店内。

「ほんとね、馬鹿みたいに働いてたよ。愛は? どっか出かけた?」

 愛は大きめのストローから口を離すと、

「ううん。引っ越ししたの。だからちょっとばたばたしてた」

 驚いたように祐希が、机に身を乗り出した。

「え!? あんないいマンションから引っ越したの? どこに?」

 食いつく祐希に、愛は面食らいながらも、

「うーん。なんていうか」

 言葉を濁した。

「もしかして、彼氏と同居? ついに愛に彼氏が!?」

 愛は首を横に振り、柔らかく否定する。

「ううん。私、男の人苦手だもん」

「じゃあ、実家?」

 愛はコーヒーをストローで掻きまわしながら、小さく息を吐く。自然と笑みが零れる。ゆっくりと祐希に視線を向けて、

「彼女の家。同棲してるの」

 はっきりと言った。

「ほええ……あれ、彼女……?」

 愛は残ったコーヒーを飲み干す。おもむろに立ち上がり。

「それじゃあ、これからバイトだから、先行くね」

 ぽかんとした表情で、祐希は愛の背を眺める。

「なんか、生き生きしてるなあ」

 遠くなる愛の背を眺めながら、祐希は小さく微笑んだ。


「十九時には終わります。今日は天野さんと一緒です」

 愛から来たメッセージに、綾香は自然と笑みが零れた。

 作業をする手を止め、スマートフォンを開く。

「定時に帰れたら迎えに行くね。天野さんのこと、いじめちゃだめだよ」

 返信すると、すぐに返事が返ってきた。

「そんなことしません。定時に終わらせてください」

 綾香は思わずにやける。了解、と投げキスをする絵文字と共に返信し、画面を閉じる。

 結局、愛は身体を売ることを止めた。

 正確には、私が止めさせた。

 今は私の家に住み、喫茶店でアルバイトをしながら、大学に通っている。

 家賃や光熱費、水道代は全部私が持ち、彼女には学業に専念してもらっている。

 無理しない程度に、アルバイトをする。足りなかった分は、私がなんとかする。

 それを条件に、身体を売ることから足を洗わせた。

 色々なことがあった。些細なことで喧嘩して愛が家を飛び出してしまったり、大喧嘩をして別れかけたりもした。

 それでも、あの日、夜の街に手を伸ばしてよかったと、私は心の底から思う。

 あの日、貴女と出会わなければ、きっと私は満たされない日々を送っていただろう。貴方と出会えてよかった。こんなにも幸せな私は、世界で一番の幸せ者だ。

 そう言い切れるほど、私は貴女のことを愛している。

 大きく伸びをし、よし、と気合を入れる。

 今日は金曜日だ。帰ったら愛と一緒に沢山呑もう。

 そう自分を奮いたたせて、綾香は作業を再開した。

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夜に手を伸ばして 宇月零 @utukirei

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