11月の7日に、隠れ家で象嵌細工に心を打たれた話

 七歳の時、七五三という行事を知った。学校の友達が、今週の日曜日に七五三に行くんだ、と話していたので何それと聞いたら知らないのと笑われた。三歳と五歳でもやるんだよ、花ちゃんち、変なんじゃないのとからかわれた。

 変とか言う方が変なんだし、と言い返したのを覚えている。あの頃はまだ、語彙も返しのバリエーションも豊富でなくて良かった。彼女たちとそんな話をしたのは次の日にはお互いなかったことになっていて、今も地元で会えば話す友達である。

 子供に備わる大人顔負けの社交術で、お互いなかったことにしたけれど、七五三という行事の存在は私の心に残った。そういえば、その響きは聞いたことがあるような気もした。

 ランドセルをガタガタ揺らして家に帰る間も、母の帰りを待つ間も、遅い夕ご飯を食べて寝る前も、考えていた。母に聞くのはやめておいた方がいい気がした。

 日曜日、母は朝から仕事に出かけ、私は食パンの袋を手提げに入れて、外に出た。十一月初めの日曜日。金曜日までは暖かかったのに、その日はほとんど冬みたいに寒かった。手袋をしてくれば良かったと思いながら、川沿いの道を歩く。

「おじちゃん、いる?」

 大きな橋の下に、段ボールの隠れ家がある。そういえば冬はこの家は寒そうだけど、このままここに隠れているんだろうか。それも聞いてみようかな。

「食パン持ってきたよ。食べる?」

 返事がないけど続けると、段ボールが持ち上がってひげ面のおじさんが出てきた。

「ありがとよ」

「一緒に食べる?」

「おう」

 段ボールのおうちの前で膝を抱えて座り、私とおじさんは食パンをむしゃむしゃ食べた。私はこの何もつけない、焼かない食パンが好きなのだけど、前にそう話すとおじさんは笑い、おれもだよと言ってくれた。

「ねえおじちゃん、七五三って知ってる?」

「……知ってるよ」

「七五三ってなに?」

 やや唐突だったが尋ねると、おじさんは少しの間黙って考えているようだった。食パンの最後のかけらを口に放り込んで、飲み込むまでまた黙って、ようやくそうだな、と答えた。

「花みたいな子供が、このまま大きくなるようにって神様にお願いするんだ」

「三回もやるんでしょ? なんで?」

「……何回もお願いした方が聞いてもらいやすいから」

 ふーん、と私も食パンを食べ終わり膝に顔を伏せた。草と草の間から川が見える。夏はもっと青々としていたけど、最近少しずつ枯れてきた。おじさんの隠れ家は秋と冬の間隠れていられるだろうか。

「……花にいいものをやる」

 なあに、と聞く間におじさんは上着のポケットから小さな何かを出して、私の手のひらにのせた。手のひらの上で冷たくころんと転がったそれは、金属のブローチだった。小さな円の中に驚くほど細かい細工で花の模様が描かれていて、それぞれが微妙に異なる色で鈍く光る。

「……きれい」

「そうだろ。象嵌って言うんだ」

「おじさんの?」

 子供らしい考え無しの無遠慮さで私はそう尋ねた。そんな訳ないのに。隠れ家に暮らしていても上着のポケットに肌身離さず持っている、とっても大切なものに違いないのに。

「……おじさんの娘に、あげるつもりだったんだ」

 ふうん、とまた私は気のない返事をして、土手から斜めに注ぐ陽射しにそれをかざし、くるくると回した。

 どこから見てもきれいで、これまでに見たものの中で一番きれいで、私はすっかりそれに夢中になってしまい、お礼もろくに言わずにそれを眺め続けたのだった。


 おじさんは結局あの隠れ家では冬を越せなかったようで、いつの間にか段ボールの家はなくなり、おじさんもどこかへ行ってしまった。

 家に帰り、私はどきどきしておじさんと同じようにポケットからそれを出せず、着けてみるなんてとんでもなくて、ずっとそれを持ち歩いては、ひとり橋の下でときどき取り出して見るだけだった。

 もうおじさんには会えないのだ、と理解した頃には私もこれはおじさんとその娘さんの大切なものだったと分かっていた。だから私は、その年の十一月を待って、日曜日の朝、またあの橋の下に行ったのだ。

 えいっ、と投げると、きらりと光って案外遠くまで飛んで、ぽちゃんと沈んであっという間に見えなくなった。

「ありがとう、おじちゃん」

 あの日と同じくらい寒い朝、呟くと白い息が残って、すぐ消えた。

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