松の内も明けぬうちに、赤い金魚の泳ぐ瓶が軒先にある古い家で舌先を火傷したことについての話

 夢かしら、と思った。見たこともない場所だったけど、妙に心は落ち着いている。

 ここ最近ではあまり見ない、何畳も広く続く和室にちょこんと座っていた。ふかふかのお座布団は紫で四隅に房が付いていて座り心地が良い。開け放たれたふすまの向こうにもまた畳が続いていて、終わりが見えないくらいだった。

 ちりん、と鈴の音が聞こえて、縁側を誰かが歩く気配がした。外は大変良い天気で、さんさんと降り注ぐ陽射しが眩しく、ほとんど景色は分からなかった。軒先にきらきら光る瓶がたくさんぶら下がっているのだけ見えた。

 まぶしさに目を細めていると、その向こうから唐突に人の姿が現れた。背の高い男の人だった。

「こんばんは」

 その人が言う。ということは、今は夜なのかしら。ずいぶん外は明るいけれど。でもこれは夢だから、確かに夜であってもおかしくない。

「こんばんは」

 そう返すと、柔和に微笑んだ。どこかで見たことがあるような、初対面のような、不思議な感じがした。

「お茶でも飲みますか」

 優しく問うので、はあ、と曖昧にうなずく。彼はまた目を細めて、何もないところから薬缶を出した。吊り下げられた瓶のひとつを撫でると、水がぴゅんと飛び出して、薬缶に入っていく。また別の瓶を撫でると、中でひらひら漂っていた赤いものが集まって瓶の口から火のように吹き出した。まあ、と思わず声が出る。彼は微笑んだまま、薬缶を瓶に乗せた。どう見てもそれは、宙に浮いていた。

「手品みたいねえ」

 もう少し近くで見たいのだけど、どういうわけか動けない。お座布団に縫い止められているかのよう。できるだけ身を乗り出すと、他の瓶の中にも、赤いものが泳いでいるのが見える。ひらひら、ひらひら優雅に水の中で踊るそれが金魚であると、目をこらしてようやく分かった。

「きれいねえ」

「金魚がお好きでしたよね」

「そう。よく飼ってたのよ。丁寧にみてやれば、案外長生きするもので……」

 嬉しくて語り出しそうになって、口が止まった。どうして私はここにいるんだっけ。まだお世話しなくちゃならない子たちがいたはずだけど。

「入りましたよ」

 ほとんど時間は経っていない気がするのに、気が付けば目の前に彼がいて、湯飲みから湯気が上がっていた。ほとんど反射的に手を伸ばし、一口すする。

「あつッ……」

 淹れ立てのお茶はたいそう熱く、舌先に触れただけで火傷してしまいとても飲めなかった。やや混乱したままやはり湯飲みを置いて、ひりひり痛む舌をちろりと出して空気に触れさせる。そこではたと気付いた。

「あら、夢じゃないのね」

 舌先の痛みも、湯飲みを持ち上げた指に残る熱も、確かに本物だった。

「気付かれましたか。それじゃあ、戻った方がいいでしょうね」

 穏やかな微笑みのまま彼はよく分からないことを言う。いつの間にかまた縁側の方まで遠ざかっていて、きん、と音を立てて瓶を爪で弾いた。


「年があけるのを待ってたみたいに逝ってしまうのかと思って、焦ったのよ」

 ベッドサイドの椅子に浅く腰掛け、娘が複雑そうな表情で言う。もう長くないと言われて数ヶ月。自分でも、よく生きているものだと思う。はじめは、年は越せないのかと思っていた。

「びっくりさせてごめんねえ」

 急に調子が悪くなったのは、お正月だからと家に帰るのを許されて、ほんの少し家族と過ごして、家に残してきた金魚たちの様子を確認して、すぐだったらしい。よく覚えてはいないけれど、意識がはっきりした後、そう聞いた。

「だいぶ、危ないとこまで行ったと思うんだけど」

「自分で言うことじゃないでしょう。でもその通りよ」

 本音を言えば、あれが危ないところだったとは思えなかった。静かで、穏やかで、あたたかく、明るい場所だった。彼も優しかったし、お茶も冷まして飲めばおいしかったろう。

「お茶飲む? お母さん」

 きっと次にあそこへ行く時は、夢ではないと分かってお茶を飲み、そのまま留まることになるのだろう。けれど、それをおそろしいとは感じなかった。

「ぬるいのにしてね」

 きっとその時、金魚たちとまた出逢い、彼が誰だったのかも分かるだろうから。

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