夜景が美しい夜、地下鉄のホームで繊細なレースが破れた瞬間を見たことについての話

 やだあ、とかん高い声がした。自然と耳と目がそちらを向いてしまい、それからすぐに、務めて意識を引きはがす。けれど、一度認識してしまったそれらを全て頭から追いやるのは難しく、どうしても耳が続きを拾ってしまう。

「これ、お気に入りだったのに」

 一瞬目に入っただけの情報から判断するに、彼女のワンピースの袖が破れてしまったようだった。綺麗なレースの袖に見えたので、よそ行きに違いない。彼氏もジャケット姿できちんとしていたが、なすすべもなく棒立ちで、困り顔でただうなずいている。

「肩が見えちゃうから、行けないよ」

「えっ、行けない?」

 ここで初めて、彼氏の方が声を上げた。彼女のかん高い声よりも大きい、心底驚いた声だった。

「なんで? せっかく予約取ったのに」

「あのお店、ドレスコードがあるんだよ。だから上着着てきてって言ったじゃん。こんなんじゃ行けないよ」

「事情話してもダメなの?」

「分かんないけど、そんなの恥ずかしいし、こんなみっともない袖であんないいところ行けないよ」

 まあ、気持ちは分かる。分かるけど、早く電車が来て欲しい。でももし同じ電車に乗ってしまったらどうしよう。

「せっかく今日晴れてたし、夜景も綺麗に見えそうなのに。もったいないじゃん」

 それもそうね。彼氏の気持ちもよく分かる。なんとか解決策を考えてあげたい気もするけれど、ここでまあまあと割って入ってもまるきり不審者でしかない。

 夜景が見える、ドレスコードがある高級なレストランで、予約を取って、お互いドレスアップしてディナー。きっとずいぶん前から計画して、二人とも楽しみにしてきたのだろう。

「ストールとか買えば?」

 ここで彼氏、ナイスアイディア。おそらく耳がダンボになっている他の電車待ち客たちも、心の中で拍手を送ったに違いない。

「じゃあ買ってくれるの?」

 しかしこれはいけない。彼氏もはあ? と更に大きな声を出す。

「なんで俺が」

「だってあんたが急に引っ張るから、引っかかって破れちゃったんじゃない」

「ぶつかりそうだったからだろ。お前が不注意だから」

 ああ、もうだめだ。修復不可能。頼む早く電車来てくれ。

 二人の言い争いは、今日のことだけでなく過去の小さな過ちにまであっという間に飛躍する。ずいぶん長く付き合ってきた二人のようだ。もしかしたらこの危機もどうにか乗り越えるかもしれないし、これが最後の決め手になってしまうかもしれない。

 電車来てくれと思いながらも、二人の会話を聞くことをやめられない愚かな人間たちをあざ笑うように、電車が参りますとアナウンスが響く。

 ごうごうとうなりを上げてホームに電車が入ってくる。二人の声はもう聞こえない。破れたのは、レースのように繊細に編み上げられた、二人の関係だったかもしれなかったが、その先を知るすべもない。

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