長いおわかれのあった日、渚でしたことがないことについての話

「行っちゃったねえ」

「行っちゃったよ」

 まだ低い位置にある太陽が、私たちを真横から照らして長い影をつくっていた。ざざん、ざざん、と寄せては返す波がコンクリートの岸壁にぶつかって砕けては消えていく。

「あの子が、ここから落ちた時のこと、覚えてる?」

「忘れるわけないだろ。こっちの心臓が止まるかと思った」

 砂浜しか遊び場所がないような田舎町で、それでもあの時まだ娘は歩き始めたばかりだった。当然泳げるわけもなく、慌てて飛び込んだ夫が抱き上げた小さな身体を死に物狂いで引っ張り上げたことを覚えている。

 夫は心臓が止まるかと思った、と言うが、私の心臓は口から飛び出しそうにうるさく跳ね上がっていた。泣きそうになりながら濡れそぼった身体を抱きしめた時、あの子は腕の中でけらけら笑い出して、それを見ると涙は引っ込み、私も笑い出してしまった。駆けつけた人や海から上がってきた夫は、はじめ私たちを不思議そうに見ていたが、やがてみんなして笑い出した。

「あんなに小さかったのに……」

 夫がお決まりの台詞を言うので、おかしくなって私は吹き出した。彼はおい、と私の肩にわざとぶつかる。わあっ、と大げさに驚いて海の方へ身体を傾けると、本当によろめいたと思ったのか彼が私の手をつかんだ。

「だいじょうぶだよ、ありがとう」

「うん」

 そのまま手をつないで、また家への道をゆっくり歩く。不思議と、先ほどまでより、寂しさが薄らいだ気もした。

「まだあの子、小さいよ」

「うん」

「きっとすぐになにかあって泣きついてくるけど、お父さんには電話してこないだろうから、私が聞いておくね」

「……そうだろうなあ」

「きっと新しいことをたくさん知って、それで大人になるんだよ」

「……そうだったね」

 朝の柔らかい光に、くだけた波がきらきらと光る。何度も何度も、新しく起こっては、やって来て、くだけて、光って消えて、また新しく生まれる。私たちがそうだったように、あの子もまた、私たちの手を離れ、ひとりで新しいところへ飛び込んでいけるようになった。

「ねえ、次の便で、私たちも本土へ行こうか」

「えっ、なんで」

 歩みを止め、彼の正面に立つと、ふしぎそうに瞬いた。白いものやしわは増えたけれど、昔と同じ表情だった。

「デートするの。私たちも、これから二人なんだもの。新しいこと、しましょうよ」

 もちろん、朝の便に乗って二人で出かけたことはこれだってあるけれど、あの頃なかった映画館やショッピングセンターが、今はある。

 彼は長いこと迷っているように見えたが、やがて、若者のようにからりと笑んだ。

「いいね」

 あの子の便りを待ちながら、私たちはこれからも、ここで生きてていく。これまでとはすこし違う、ふたりの新しい暮らしを作りながら。

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